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第2話

「……大丈夫です。問題ありません。いろいろと迷惑をかけて申し訳……え? 本当に大丈夫ですから。とにかく明日から通常診療で……はい、よろしく」  電話を切ると、桔平は短いため息をついた。 「やれやれ二日も休んじまうとは」 「救急病院の先生は、一週間は無理をしないでとおっしゃっていましたけど」 「バカ言え。そんなに休めるわけがないだろ。俺にしか触らせない子もいる。俺にしかできない手術もある。俺が休めば休んだだけ、救えるはずの命が消えちまうんだ」  仕事への意欲を語る桔平に、ロクはふっと頬を緩ませた。  二十九歳になった桔平は獣医になっていた。一昨日、待合室から歩道に飛び出した患畜・アメリカンショートヘアの茶々丸を追いかけた桔平は、彼を捕獲した瞬間、信号を無視して直進してきた乗用車に撥ねられた。胸を強く打ち心停止に陥ったが、懸命の蘇生によって鼓動が再開した。心臓が停止してから十五分以上経過してからの回復で、しかも負った怪我は軽い擦過傷だけ。奇跡以外の何ものでもないと医師たちを驚かせた。  念のため昨日今日と入院し、全身をくまなく検査をした。その結果身体のどこにも異常は認められず、午後になって退院を許されたのだ。  桔平の家はマンションの五階だった。ロクをリビングに案内し、「とりあえずそこに座ってろ」とソファーに座るように促すと、桔平は職場に電話をかけ、明日から診療を再開すると宣言した。なんて仕事熱心なんだろうとロクは感心する。 「本当によかったですね。こちらに無事戻ってこられて」  にっこり話しかけると、桔平は世にも複雑な表情を向けた。 「俺は、まだ信じられない」 「何がでしょう」 「全部だよ。地獄の入り口でのことも。お前が閻魔だということも」  頭のてっぺんから足の先まで、桔平の視線が舐めるように這う。桔平はロクが大王の周りをうろちょろしていた黒猫だとは気づいていない。初めて対面する地獄の監視人に興味津々なのはわかるが、のっけから熱視線を注がれて急に落ち着かない気分になる。 「そんなに見つめないでください。照れます」  両手で頬を挟んでもじもじするロクに、桔平は「はあ?」と口を半分開いて固まった。  閻魔大王は、ロクに人間の身体を用意してくれた。ほっそりとした身体にさらりとした黒髪、黒目の大きな瞳、ちょこんと小さな鼻、きゅっと愛らしい口元。どこか猫っぽい見た目は十代の少年を思わせるが、大王によるとロクの年齢は二十歳。これでも成人なのだという。 『いいか、ロク。身体は人間になってもお前は黒猫の閻魔だ。驚いた拍子にうっかり耳や尻尾が飛び出すことがある。くれぐれも気をつけるのだぞ』  大王はそう念を押して送り出してくれた。  ――欲を言えば、もう少し強そうな身体がよかったな。  閻魔というには明らかに迫力がない。ちょっとばかり不満だったけれど、桔平と初めて言葉を交わせる嬉しさが勝った。  意識を取り戻した桔平が運ばれた病室で、ロクは待っていた。 『ご家族の方ですか?』  看護師に尋ねられたロクは、『僕は大王さまに遣わされた閻魔で、ロクと申します』と正直に答え、ベッドの上の桔平を慌てさせた。 『しっ、親戚の子です』  桔平は半身を起こして看護師に説明すると、ロクの耳元で『いいか、家に帰るまで余計なことをしゃべるな』と囁いた。  ――桔ちゃんの声……こんなに近くで。  昔より低く太くなった声にひっそり胸をときめかせながら、ロクは『わかりました』と頷いたのだった。 「全部現実です。そろそろ受け止めていただけませんか」 「地獄だの閻魔だの、そう簡単に受け入れられるわけないだろ」  閻魔大王や閻魔卒とのやり取りを、桔平はすべて記憶していた。それなのに意識を取り戻してからずっと、現実として受け入れられずにいるようだった。今ここにロクがいなければ「夢だった」で終わらせていただろう。 「夢じゃないから僕がここにいるんです。ほら、見てください」  ロクはソファーから立ち上がり、ベランダの方に近づいた。午後の日差しを浴びた観葉植物の影が床に伸びている。しかしその横に立ったロクには、影がない。 「僕には影ができません。閻魔なので」  ロクが指さす先に視線を落とした桔平は、「マジか……」と眉間に指を当てた。 「けどお前、閻魔って感じじゃないだろ」 「え?」 「閻魔ってもっとこう、お前んところの大王さまみたいに、でかくて強そうな感じなんじゃないのか? イメージ的に」  ロクはしゅんと項垂れた。 「気にしていることを言わないでください」 「え、気にしていたのか」 「僕だってもっと強そうな身体がよかったんですけど……」  贅沢を言ってはいけない。閻魔大王は桔平が十九年前の〝あの少年〟だと気づいた。だから数いる閻魔見習いの中からロクを選び、こうして現世に送り出してくれたのだ。  人間の身体にしてもらえたことに感謝しなくてはならない。文句を言っては罰が当たる。 「悪かった」 「……え?」 「気にしていることを言って悪かった」  素直に謝られ、ロクは慌てる。 「あ、いえ、それほどすごく気にしているというわけでは」 「人の外見をあれこれ言うなんて最低だ。とにかく今のは俺の失言だ。ごめん」 「そんな」  ふるんと頭を振りながら、ロクはそっと口元を緩ませる。  ――ちっとも変わってないな、桔ちゃん。  正義感が強くて、心の真っ直ぐな男の子だった。 「あの、桔ちゃ……」  いけない。うっかり昔のように呼んでしまうところだった。 「黒澤さんは、ひとり暮らしなのですか?」 「ああ」  桔平の両親は彼が十歳になった頃に離婚した。十一歳になる直前に父親が亡くなり、時を置かず母親も病床に臥せってしまい、数年後に亡くなったという。幼くして両親を失くした桔平を育ててくれたのは、母方の祖父母だった。小さい頃から動物が好きだった彼は迷わず獣医学の道に進み、卒業後は祖父が院長を務めていた小さな動物病院で働き始めたという。 「一昨年、祖父ちゃんが体調を崩して引退した。それで俺が後を継いだんだ」 「お祖父さまは今……」 「祖母ちゃんとふたりでのんびり暮らしている。俺を育ててくれた人たちだからな。元気で長生きしてほしいと思ってる」  ロクは「そうですね」と小さく頷いた。そして勇気を振り絞り、どうしても確認したかったことを尋ねてみた。 「あの、ですね、ご……ごご、ごけっ」  声が裏返る。 「ごけ?」 「ご結婚は、されていないのですか」  桔平は間違いなくかっこいい。猛烈にかっこいい。かっこいい男の子がかっこよさを倍増させて大人になったのだから、周りが放っておくわけがない。人間社会には単身赴任とか、別居婚とかいうフェイント的な制度がある。ひとり暮らしだからといって安心はできない。 「結婚はしていない」  桔平はきっぱりと答えた。 「そうですか」  ロクは平静を装いながら、心の中で万歳三唱をした。 「ちなみに内縁の妻ですとか、そういう関係の方は」 「いない」 「結婚を前提にお付き合いなさっている女性などは……」 「正真正銘のひとり者だ。って、何いきなり身辺調査してるんだ」  桔平は呆れたように眉根を寄せた。 「のっけからグイグイ来るな。取り調べかよ。あ、閻魔だからどっちかって言うと裁判官か」 「申し訳ありません。仕事柄、しつこく伺ってしまって」  本当は仕事としてではなく、安心したくてつい突っ込んで聞いてしまっただけなのに、桔平はふっと優しい笑みを浮かべた。 「まあわからなくもないけどな。俺も仕事人間だから。でもここはお前の仕事場じゃなく、俺の部屋だ」 「そうでした」 「とにかく俺は、結婚をするつもりはない。家族は持たないと決めているんだ」  桔平はさっきよりもっときっぱりと答えた。  どうしてですかと尋ねようとしてやめた。その理由がなんとなくわかるから。  地獄の白洲で再会した時、桔平はロクが十九年前いつも一緒にいた黒猫のロクだと気づかなかった。黒猫の見た目など似たようなものだけれど、桔平がロクに気づかないはずはない。目の前に同じような黒猫が百匹いたとしても、その中から容易にロクを探し出すに決まっている。それほど心を通わせていた。  気づかなかったのは、彼が当時の記憶を失くしているからだ。記憶を消したのは閻魔大王。十九年前、大王はロクを閻魔として傍に置く代わりに、桔平の脳からロクと過ごした一時期の記憶を消し去ったのだ。  もちろん抵抗した。やめてくださいと縋って泣いた。けれど最終的には大王の考えを受け入れることにした。それが桔平のためだと思ったから。 「どうした」  突然黙り込んだロクを、桔平が覗き込む。 「いえ、なんでもありません」 「俺の家族は生涯、祖父ちゃんと祖母ちゃんだけだ」  そう言って、桔平はロクの目をじっと見つめた。その目が「思い出したい」と訴えているような気がして、ロクはそっと目を逸らした。

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