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第6話

「あの、桔ちゃんは」 「え、桔ちゃん?」  しまった、と慌てて口を塞いだが遅かった。 「桔ちゃんって、もしかして黒澤先生のこと?」 「あああ、あの、えっと」  冷や汗をかきながら言い訳を探していると、カルテを手にした桔平が顔を出した。ほぼ同時に若葉が受付のみちよに呼ばれ、待合室に飛んでいった。 「桔ちゃん……ぷぷ」  その背中が笑いに震えていた。  ふたりきりになると、桔平はじろりとロクを睨みつけた。 「初日から無駄話とはいい度胸だな、ロク」  全部聞こえていたらしい。 「病院では『先生』。そんな簡単なルールも守れないのか」 「す、すみません。以後気をつけます」 「もう遅い」  縮こまるロクの前で桔平は、はあっと大きなため息をついた。 「武内さんに何を聞こうとした」 「え?」 「何か聞こうとしてただろ、俺のこと」 「ああ……」  ――桔ちゃんは、毎日幸せそうですか。  尋ねなくてよかった。そんなことを聞かれた若葉も困るだろうし、「あまり幸せじゃなさそう」と答えられたら、悲しくなるだけだ。  ――僕がこれからひと月かけて、確かめればいいんだ。 「忘れちゃいました。大した質問じゃなかった気がします」  桔平は一瞬、疑うように目を眇めたが、「まあいい」と顎で出口を指した。 「早く買い物行ってこい。おにぎりならシャケ、パンならカレーパン」 「わかりました。行って参ります!」  買い物に出ようとした時だ。待合室から「うううう」という犬の唸り声が聞こえてきた。 「パール、どうしちゃったのよ、急に唸ったりして」  問いかける飼い主の腕の中で、フレンチブルドッグが唸りながらもがいている。 「困ったわね。どこか痛いの? 苦しいの?」  飼い主は初老の女性だ。突然唸り出したパールに困惑を隠せない様子だった。すかさずかおりが飛んできて、パールを抱き取る。 「パールくん、こんにちは。どうしたのかな?」  かおりが顔を覗き込むが、パールはふがふがと鼻息を荒らげるばかりで、落ち着きを取り戻す様子がない。 「どこか痛がってる感じじゃないけどなあ」  どうしちゃったのかなあ、とかおりが首を傾げた時だ。腕の中のパールがロクに視線をよこした。その表情に宿っているのは明らかな「怯え」だった。  パールは隣のソファーに座っている男の子の背中をちらちら見ている。保育園児くらいだろうか、男の子が背負ったリュックサックは、大きな牙を剥き出しにした恐竜の形をしていた。  ――もしかして……。  ロクは男の子に近寄り、声をかけた。 「かっこいいリュックサックだね」  男の子はきょとんと顔を上げ、すぐに「うん」とにっこり笑った。 「あのね、これね、キョウリュウジャーのリュックなの。お父さんが買ってくれたの」 「いいなあ。お兄ちゃんにちょっとだけ見せてくれる?」  男の子は「いいよ」とリュックサックを下ろすと、ロクに差し出した。 「わあ、本物の恐竜みたいだ」 「お兄ちゃんも、キョウリュウジャー観てるの? 誰が好き? ぼく、リュウレッド!」  男の子と会話をしながら、ロクはリュックサックをパールの視界に入らないように隠した。そしてかおりに抱かれたパールに話しかける。 「これは本物の恐竜じゃないよ。ただのリュックサックだよ」  するとじたばたともがいていたパールが、突然動きを止めた。 「飛び出して噛みついたりしないから安心していいよ」  にっこり微笑むと、パールは落ち着きを取り戻した。その様子に周囲が騒然となる。 「すごいよ! ロクくん、やっぱり動物の気持ちがわかるんじゃない?」 「本当に。まるでパールがリュックを怖がっているのがわかったみたいねえ」  かおりとパールの飼い主が、顔を見合わせる。  ――しまった。またやっちゃった……。  ロクは男の子にリュックサックを返すと、慌てて言い訳を考えた。  ――どうしよう……なんて言ってごまかそう。  閻魔だということも忘れ、ありとあらゆる嘘や言い訳を考えていると、パールの飼い主が「あら、黒澤先生」と診察室の方を見た。驚いて振り返ると、扉の前になんともいえない表情の桔平が立っていた。  ――怒られる……。  身を硬くするロクの肩に、桔平の大きな手のひらがドンと乗った。 「驚かせてすみません。実はロクには昔からちょっと不思議な力があるんです。動物の表情や声の微妙な変化がわかるらしくて、周りの人間にはまるで心が通じ合っているように見えるんです。なあ、ロク」  肩に乗った手のひらに、ぎゅっと力が入る。「話を合わせておけ」という無言のメッセージに、ロクはコクコクと激しく頷いた。 「まだ学生だし、他のことは半人前以下だから、ちゃんとやれるか心配していたんですけど、役に立ったみたいでよかったな、ロク」  さっきより強く肩を掴まれ、ロクは機械的に「はい」と頷く。 「じゃあ黒澤先生は、ロクくんのそういう才能を見抜いてうちの病院に呼んだんですね」 「黒澤先生の家は、動物にかかわることを約束された血筋だったんですね」  かおりとパールの飼い主が興奮気味に頷き合う。その横で桔平は、ロクの耳元に唇を寄せた。 「話は家に帰ってからだ」  低い囁きに、ロクはヒッと身を竦ませた。 「早く昼飯を買ってこい」 「はい、わかりました!」  逃げるように玄関へと駆け出したロクは、開く前の自動ドアに額を強かにぶつけた。 「いたたたた」  額を押さえて照れ笑いするロクに、その場にいた全員が大笑いをする。  しかし桔平だけは鼻の頭に皺をよせ、口を「バカ」と動かした。  先に帰宅したロクは、ソファーの隅にちんまり正座をして桔平を待っていた。 「あーあ、初日から桔ちゃんを怒らせちゃった」  動物の心に二度もうっかり反応してしまった。「僕は閻魔です」と自己紹介したところで誰も信じないだろうが、動物の気持ちに反応してしまったら、普通の人間でないことがバレてしまう可能性がある。  桔平が助け舟を出してくれなければ、どうなっていたかわからない。  何より一番まずかったのは「桔ちゃん」発言だろう。  公私の区別がつかないなんてと、朝までこんこんと説教されるに違いない。 「下手をしたら、クビかな」  クビになれば、仕事中の桔平を監視することができなくなる。監視していないことが閻魔大王に知れたら、桔平はもう一度地獄の入り口に呼び戻されるかもしれない。 「ダメ。それだけはダメ」  ロクはぶるぶると頭を振った。 「もうちょっとしっかりしな……くちゃ……ね……」  拳を握りしめてみたものの、襲ってくる眠気には勝てず、「ふああ」と大きな欠伸が出た。突然与えられた人間の身体と、人間としての生活。まだどこか戸惑いを拭いきれない中で始まった動物病院での勤務。雑用とはいえ、ロクはいっぱいいっぱいだった。 「明日からは……もうちょっと……ふぁぁ……頑張らなくちゃ」  心身ともに困憊したロクは背もたれに頭を預け、いつの間にか眠りに落ちてしまった。

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