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第5話
『くろさわ動物病院』と看板が掲げられたその建物は、桔平の自宅マンションから歩いて五分の場所にあった。こぢんまりとしているが、商店街にほど近く、近隣には住宅地が広がっているため、待合室はいつもいっぱいらしい。毎日目が回るほど忙しいけれど、できるだけ多くの患畜を診てやりたいという思いから、桔平は週に二回夜間診療までやっていた。症状の重い患畜がいる時は、病院に泊まり込むこともあるという。
スタッフは院長の桔平の他に獣医がひとりと、看護師が三人、それに事務兼受付係がひとり。六人で毎日ギリギリ乗り切っているのだと、「徒歩五分」の間に桔平が教えてくれた。
朝礼で、桔平は二日間留守にしてしまったことを詫び、スタッフにロクを紹介した。
現在大学三年生になる従弟。獣医学部生ではないが動物が大好きで、将来は動物にかかわる仕事をしたいと思っている。ぜひ動物病院の仕事を体験してみたいと、夏休みを利用して桔平を訪ねてきた――。桔平は昨夜打ち合わせた通りの設定を、スタッフに前で澱みなく語った。
「アルバイトというか、雑用って感じだな。手が足りない時は遠慮なく声をかけて使ってやってください。ロク、挨拶」
「は、はいっ」
桔平に促され、ロクは一歩前に出た。緊張のあまり声が裏返り、表情が強張る。
「くっ、黒澤っ、ロクです」
桔平の苗字を自分の名前に重ねると、自然に頬が緩んでしまう。極度の緊張と照れの間で顔を引き攣らせるロクを、桔平が後ろから「早くしろ」と突いた。
『いいか、くれぐれもバカ正直に「閻魔です」なんて自己紹介をするなよ』
直前まで念を押されていた。
「は、はい。えっと、えーっと、しばらくの間お世話になります。みなさんどうぞよろしくお願いいたします」
昨夜布団の中で何度も練習した自己紹介を終え、ぺこりと一礼すると、スタッフから自然に拍手が湧いた。
「獣医の野口(のぐち)直利(なおとし)です。黒澤先生にはいつも大変お世話になっています」
桔平と同じ濃いブルーの医療用白衣を身に着けた男性が一歩前に出た。桔平より少し若いだろうか、「よろしくね」と爽やかな笑顔で手を差し出され、ロクはますます緊張してしまう。
「ここ、こちらこそよろ、よろしくお願いいたします」
ぎくしゃくしながら出した手を、野口は攫うように握り、ぶんぶんと上下に振った。
「緊張しなくていいよ。この病院、黒澤先生以外、みんな優しいから」
「どういう意味だ、野口先生」
「まんまの意味ですよ」
ねー、と野口が振り返った先で、淡い水色のユニフォームを着た看護師たちが一斉にうんうんと頷く。
「動物に注ぐ愛情の半分、いや十分の一でいいから、俺たちにも注いでほしいです」
愚痴とも冗談ともつかない野口の言葉に、そこにいた全員が「ですよね~」と笑った。つられるように笑ったロクを、桔平は「お前は笑うな」と横目で睨んだ。
「看護師の鈴原(すずはら)修子(しゅうこ)です。よろしくね」
「よ、よろしくお願いいたします」
修子に続いて同じ看護師の宮島(みやじま)かおり、竹内(たけうち)若葉(わかば)、受付の菅沢(すがさわ)みちよが、順に自己紹介をしてくれた。ひとりひとりに深々とお辞儀をしていたら、頭がくらくらとした。こんなにたくさんの人間と一時にかかわったことは、黒猫だった頃にもなかった。
「それにしても黒澤先生、本当になんともないんですか、身体」
一番ベテランの修子が、心配そうに尋ねる。
「ご心配かけてすみませんでした。しばらく意識が飛んでいましたけど、全然平気です」
「心臓マッサージされながら運ばれていくのを見た時は、ショックで足が震えちゃいました。ご無事で本当によかったです」
「あれだけの事故だったのに骨折ひとつしていないなんて、ほんと奇跡ですよ、奇跡」
かおりと若葉が顔を見合わせて頷いた。
「心臓が止まっても、茶々丸くんを抱いて放そうとしなかったなんて、本当に黒澤先生らしいです。患畜を守るために、自分の命ほっぽり出しちゃうんですから」
尊敬半分、呆れ半分といった口調で野口が苦笑した。
「一瞬のことで何も考えられなかった。気づいたら身体が勝手に動いていたんだ」
「黒澤先生の動物愛は、本能に刷り込まれているみたいですね。とはいえ、もう危ないことはなさらないでくださいね。先生に怪我をされたら、私たちだけでなく動物たちも飼い主さんたちも、みんな困っちゃうんですから」
修子に釘を刺され、桔平は「気をつけます」と素直に頷いた。
「さて、診療を開始しますか」
桔平の号令でそれぞれが自分の持ち場に散った。若葉が用意してくれたエプロンは、胸元に肉球の模様が入った可愛らしいデザインだ。
「どうやって着るのかな、これ」
紐を結べずもたもたしていると、「こうするんだよ」と背後から手が伸びてきた。鮮やかな手際で結んでくれたのは、野口だった。
「野口先生、ありがとうございます」
「わからないことがあったら、遠慮しないでなんでも聞いてね」
ポン、と肩を叩かれ、緊張がすーっと解けていくのを感じた。
「肉球エプロン、すごく似合ってるよ」
「あ……ありがとうございます」
――いい人だな、野口先生。
爽やかでとても感じがいい。桔平とは違うタイプだけれど、彼もかなりの美男子だ。
「よぉし、頑張るぞっ」
ロクはふん、と鼻息荒く頷いた。
最初に任されたのは入院患畜のケージ清掃だ。入院室とプレートが掲げられた部屋にはたくさんのケージが並んでいて、ほぼ満室だった。
「おしっこやうんちで汚れたシートを取り換えて、それから消毒。清潔第一ね」
かおりがお手本を見せてくれた。
「じゃあ次、ロクくんやってみて。慌てないでいいからね」
「……はい」
緊張でがちがちになりながら、ケージの前にしゃがんだ。
わんわん、にゃあにゃあ、きゃんきゃん、みゅうみゅう。途端にあちこちで鳴き声が上がる。同時に入院室の空気が変わったのを感じた。
(誰?)(なになに、新しい看護師さん?)
声になって聞こえるわけではないが、きっとそんな感じだ。驚き、緊張、不安といった感情が一緒くたになった靄のようなものを感じる。閻魔修業の賜物だ。
――それにしても久しぶりだなあ。
地獄の白洲にやってくるのは人間だけだから、こうして他の生き物と接するのは本当に久しぶりだった。
「スタッフの黒澤ロクです。きみたちのお世話のお手伝いをさせてもらうことになりました。看護師さんじゃないけど、よろしくね」
途端に入院室の動物たちが、ぴたりと鳴くのをやめた。
その瞬間、驚きと好奇心の色が濃くなるのがわかった。
――しまった。
ロクは慌てた。今は人間なのだということをすっかり忘れて、動物たちの心の声にうっかり反応してしまった。
「ちょっとすごいじゃない。ロクくんの挨拶で、みんな鳴きやんじゃったよ」
かおりが目を丸くした。
「ああ、えっと、それは」
「まさかロクくん、動物の言葉がわかるの? 動物と話せるとか?」
ロクは「まさか」とぶるぶる頭を振った。
「偶然にしてはすごいタイミングだったけど」
訝るかおりの前でケージ清掃を始めたロクは、無防備に差し入れた手をチワワのメロンにガリっと引っかかれてしまった。
「あいたたた」
「あらら。メロンちゃんからのパンチの効いたご挨拶ね。動物の言葉がわかったら苦労はないものね」
かおりは「ドンマイ、ロクくん」と笑った。
目が回るほど忙しいという桔平の言葉が、大げさでもなんでもなかったことはすぐにわかった。次から次へと連れられてくる患畜に、スタッフ全員でてきぱきと対応している。ケージ清掃が終わると次は餌やりで、それが終わるのを待たずに、待合室でミニチュアダックスがお漏らしをしてしまった。床の掃除が終わりやれやれと汗を拭っていると、「ロクくん、今、手空いてる?」と若葉に聞かれた。
「黒澤先生のお昼ご飯、買ってきてもらえるかな」
他のスタッフは交代で一時間の昼休みを取るが、桔平だけはコンビニで買った菓子パンかおにぎりで昼を済ませ、できる限り診療を続けるのだという。病院から五分の場所に自宅があるというのに、帰って昼食をとる時間すら惜しいらしい。
バックヤードから、診察室をそっと覗いてみる。
「症状はいつからですか?」
「朝ご飯はいつも通り食べたんですけど、晩ご飯を残しちゃったんです。食いしん坊なのに、ちょっと心配になって」
「どれどれ、ちょっと診せてもらおうかな」
獣医として働く桔平の姿に、トクンと胸が小さく鳴った。
「モモちゃん、久しぶり」
「みゃおうん」
「モモちゃんはいつ見ても美人さんだねえ。先生、惚れちゃいそうだ」
みゃおん、ともう一度ふてた声を上げながら、それでもモモは嫌がっていない。
(どうせ他の猫にも同じこと言ってるんでしょ、ふん)
そんな感じだ。
「ちょっとお腹も触らせてね……うん、大丈夫。問題なさそうだね」
診察台の上のモモに話しかける桔平の目は、蕩けそうなほど優しい。
「黒澤先生、動物に対してはいつもあんな感じなの」
一緒に覗いていた若葉が、隣で小さく苦笑する。
「動物好きの男の子が、そのまま獣医になったっていう感じ?」
確かに動物好きの少年だった昔を思い出し、ロクはそっと口元を緩ませた。
「優しいのは動物に対してだけなんですか?」
「ううん。仕事に対しては厳しいけど、基本優しい先生よ。ただ動物を愛するあまり、人間への愛がおろそかになってる感じは否めないかなあ」
飼い主さんのひとりに世話好きのお婆ちゃんがいて、桔平が独身だと知ると、たびたび見合い話を持ってくるようになった。桔平はそれを断り続けている。いつしかお婆ちゃんの茶飲み友達にまで話が広がり、方々から月に一件ほど見合い話が持ち込まれるが、桔平は写真にも釣書きにも目を通すことなく断っているという。
「『人間には興味がないので』」
「え?」
「黒澤先生の決まり文句。二十九歳っていう微妙なお年ごろだし、かなりのイケメンだし、腕はいいし動物への愛は深い。文句のつけようのないプロフィールだから、お婆ちゃんたちの気持ちもわからなくはないんだけど、本人は『人間には興味がない』の一点張りなの」
ロクの脳裏に、十歳の桔平の笑顔が蘇る。
『でも俺にはロクがいる。だから平気さ』
患畜を診察する後ろ姿に、大人になったなあと感動を覚えたけれど、もしかすると心はあの頃のままなのだろうか。
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