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第4話
「おい、起きろ」
どれくらい経ったのだろう。いつの間にかソファーに横たわってうたた寝をしていたらしい。ゆさゆさと揺り起こされ、ロクはパチッと目を開けた。
「よく初めて来た家で寝られるな。飯、できたから運ぶの手伝え」
「……ぁい」
ロクは目を擦り、のろのろと立ち上がった。
「初日からそんなでいいのか? 二十四時間、俺を監視するんじゃなかったのか?」
「申し訳ありません。ついうとうとしてしまいました」
「お前、猫みたいに丸まって寝るんだな」
猫ですから、と喉まで出かかる。
「半目で口も半分開けて、すげー間抜けな顔して寝てたぞ。ていうか寝癖」
桔平が呆れたように笑う。十九年ぶりだというのにやっぱり「間抜け」扱いされてしまい、ロクは唇を尖らせながら後頭部の寝癖を直した。
「そこの棚からシチュー皿を取ってくれ」
「白いのですね」
食器棚から白い深皿を二枚取り出す。キッチンにはいい匂いが漂っていて、お腹がぐうっと派手な音を立てた。お腹が空くという感覚も、久しぶりだった。
「即席だけどビーフシチューを作った」
IHヒーターの前に立ち、桔平が鍋をかき混ぜている。
「うわあ、楽しみです。すごく美味しそうな匂いが――」
鍋の中を覗き込んだロクは、次の瞬間「うっ」と口元を押さえて後ずさりをした。
「どうした」
「す……すみません」
込み上げてくるものをこらえながら、ロクはキッチンを飛び出した。
「おい、どうしたんだ」
桔平が追いかけてくる。
「だいじょぶ、です、うぐっ……すみません」
「大丈夫って顔じゃないだろ。ビーフシチュー、苦手だったのか」
「……みたいです」
「でもお前、『いい匂い』って言わなかったか?」
「匂いはすごく美味しそうで……でも見た目がダメでした。地獄の釜茹でを思い出してしまって……」
等活地獄で見た光景が、今でもトラウマになっているのだと話すと、桔平は鼻白んだようにふんっと笑った。
「骨まで粉々にするんですぅ~とか、さっきは嬉々として語ってたくせに?」
言葉にするのと映像を思い浮かべるのとでは、衝撃の度合いが違う。おそらく煮込みものは全般的に受けつけない気がする。焼いた肉もダメそうだった。
「とにかく地獄を思い出す食べ物はダメってことか。ったく、わがまま言いやがって。そこに座って待ってろ」
「……申し訳ありません」
舌打ちしそうな不機嫌さでキッチンに入った桔平だが、五分もしないで戻ってきた。
「これなら食えるだろ」
差し出された皿の上には、白い三角形がふたつ。
「パン……ですか?」
「ハムとチーズのサンドイッチだ」
「チーズ……」
偶然の一致なのだろうか。うたた寝をしながら見ていた、十九年前の夢。
そんなはずは絶対にないのに、ロクの大好物のチーズを、桔平が覚えていてくれたようで胸の奥がきゅんと熱くなる。
「お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」
「まったくだ」
文句を言いながら、桔平は温かいミルクまで用意してくれた。
「向かい側で俺がビーフシチューを食うのは大丈夫か」
「それくらいは大丈夫です」
喉は通らないだろうが、視界の端に入るくらいは平気だ。
「それではいただきます」
小さめのダイニングテーブルに向かい合い、夕食が始まった。三角形に切られたハムチーズサンドをひと口齧ったロクは、思わず目を見開いた。
「うわあ、美味しい。これ、すっごく美味しいです」
目をまん丸にすると、桔平が口元を緩ませた。
「冷蔵庫にあったものを食パンに挟んだだけだ」
「僕、こんなに美味しいもの、初めていただきました」
黒猫時代に食べた給食のチーズも美味しかったけれど、薄いチーズとハムの挟まったサンドイッチはその何倍も美味しい。
「大げさな」
「大げさじゃないですよ」
あまりの美味しさに、ひとつ目のサンドイッチをあっという間に完食してしまった。桔平は苦笑しながら傍らのホットミルクを顎で指した。
「早食いすると喉に詰まるぞ」
「……はい」
――わあ……いい匂い。
久しぶりに嗅ぐ甘いミルクの香りにうっとりしながら、水面に舌を近づけようとしてハッとした。
――いけない、いけない。
人間はカップを持って飲むのだ。危なかったと胸を撫で下ろし、カップに唇をつけた。
「あちっ」
「そんなに熱くしていないはずだぞ? 猫舌なのか」
「……はい」
猫なので、という言い訳はもちろん呑み込む。
「とことん面倒臭いんだな、閻魔って。あ、お前が個人的に面倒臭いのか」
「……すみません」
恐縮しながらもふたつ目のサンドイッチに齧りつくロクに、桔平は小さく噴き出した。
「そんなに気に入ったのか」
「はい。桔ちゃ……黒澤さん、お料理の天才です」
「パンにただハムとチーズ挟むのを料理とは言わない。ていうかお前、ちょいちょい『桔ちゃん』って言いかけてるけどなんなの」
「っ!」
サンドイッチを喉に詰まらせそうになり、うっかりホットミルクを啜る。
「あちちっ」
「そそっかしい閻魔だな。呼びやすいならそれでいい」
「い、いいんですか?」
「ただしここにいる時だけだぞ。病院では『黒澤先生』だ。間違っても桔ちゃんなんて呼ぶなよ」
「わかりました」
「ところでお前、苗字あるのか?」
ロクはふるんと首を振る。
「だったらお前は今日から黒澤ロクだ。スタッフには、従弟だと紹介する」
「黒澤……ロク」
病院で一度口にしただけの名前を、ちゃんと覚えていてくれたらしい。
齧りかけのサンドイッチを手にしたまま、ロクはほんのり頬を赤くした。
「なに喜んでるんだ。入籍したみたいですぅ~とか、考えてんじゃないだろうな」
「…………」
図星を指されたロクは、耳まで赤くして俯いた。
「つまんねえ妄想してないで、さっさと食っちまえ。夜はそっちの空き部屋に客用の布団敷いてやるからそこで寝ろ。明日は普段より少し早めに出勤するから、一緒に出るなら寝坊するなよ、ロク」
――今、桔ちゃん、ロクって……。
初めて名前を呼んでくれた。「ロク」って。大人の声で。
急激に込み上げてくる懐かしさに、鼻の奥がツンとした。視界がぼやけるのをごまかすように、しゃきんと背を伸ばし、ロクは「はい!」と元気に頷いた。
――これからひと月、桔ちゃんと毎日一緒にいられるんだ。
明日からの暮らしを想像すると、嬉しさで胸がうずうずする。
桔平が昔のことを忘れてしまっていることは少し寂しいけれど、思い出すことで辛い思いをするくらいなら、忘れたままの方がいい。真実を知らない方が幸せなこともあるのだと、今は素直に思える。
ようやく冷めたミルクを飲みながら、ロクはそっと微笑んだ。
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