4 / 6

第4話

「おい、起きろ」  どれくらい経ったのだろう。いつの間にかソファーに横たわってうたた寝をしていたらしい。ゆさゆさと揺り起こされ、ロクはパチッと目を開けた。 「よく初めて来た家で寝られるな。飯、できたから運ぶの手伝え」 「……ぁい」  ロクは目を擦り、のろのろと立ち上がった。 「初日からそんなでいいのか? 二十四時間、俺を監視するんじゃなかったのか?」 「申し訳ありません。ついうとうとしてしまいました」 「お前、猫みたいに丸まって寝るんだな」  猫ですから、と喉まで出かかる。 「半目で口も半分開けて、すげー間抜けな顔して寝てたぞ。ていうか寝癖」  桔平が呆れたように笑う。十九年ぶりだというのにやっぱり「間抜け」扱いされてしまい、ロクは唇を尖らせながら後頭部の寝癖を直した。 「そこの棚からシチュー皿を取ってくれ」 「白いのですね」  食器棚から白い深皿を二枚取り出す。キッチンにはいい匂いが漂っていて、お腹がぐうっと派手な音を立てた。お腹が空くという感覚も、久しぶりだった。 「即席だけどビーフシチューを作った」  IHヒーターの前に立ち、桔平が鍋をかき混ぜている。 「うわあ、楽しみです。すごく美味しそうな匂いが――」  鍋の中を覗き込んだロクは、次の瞬間「うっ」と口元を押さえて後ずさりをした。 「どうした」 「す……すみません」  込み上げてくるものをこらえながら、ロクはキッチンを飛び出した。 「おい、どうしたんだ」  桔平が追いかけてくる。 「だいじょぶ、です、うぐっ……すみません」 「大丈夫って顔じゃないだろ。ビーフシチュー、苦手だったのか」 「……みたいです」 「でもお前、『いい匂い』って言わなかったか?」 「匂いはすごく美味しそうで……でも見た目がダメでした。地獄の釜茹でを思い出してしまって……」  等活地獄で見た光景が、今でもトラウマになっているのだと話すと、桔平は鼻白んだようにふんっと笑った。 「骨まで粉々にするんですぅ~とか、さっきは嬉々として語ってたくせに?」  言葉にするのと映像を思い浮かべるのとでは、衝撃の度合いが違う。おそらく煮込みものは全般的に受けつけない気がする。焼いた肉もダメそうだった。 「とにかく地獄を思い出す食べ物はダメってことか。ったく、わがまま言いやがって。そこに座って待ってろ」 「……申し訳ありません」  舌打ちしそうな不機嫌さでキッチンに入った桔平だが、五分もしないで戻ってきた。 「これなら食えるだろ」  差し出された皿の上には、白い三角形がふたつ。 「パン……ですか?」 「ハムとチーズのサンドイッチだ」 「チーズ……」  偶然の一致なのだろうか。うたた寝をしながら見ていた、十九年前の夢。  そんなはずは絶対にないのに、ロクの大好物のチーズを、桔平が覚えていてくれたようで胸の奥がきゅんと熱くなる。 「お手を煩わせてしまい、申し訳ありません」 「まったくだ」  文句を言いながら、桔平は温かいミルクまで用意してくれた。 「向かい側で俺がビーフシチューを食うのは大丈夫か」 「それくらいは大丈夫です」  喉は通らないだろうが、視界の端に入るくらいは平気だ。 「それではいただきます」  小さめのダイニングテーブルに向かい合い、夕食が始まった。三角形に切られたハムチーズサンドをひと口齧ったロクは、思わず目を見開いた。 「うわあ、美味しい。これ、すっごく美味しいです」  目をまん丸にすると、桔平が口元を緩ませた。 「冷蔵庫にあったものを食パンに挟んだだけだ」 「僕、こんなに美味しいもの、初めていただきました」  黒猫時代に食べた給食のチーズも美味しかったけれど、薄いチーズとハムの挟まったサンドイッチはその何倍も美味しい。 「大げさな」 「大げさじゃないですよ」  あまりの美味しさに、ひとつ目のサンドイッチをあっという間に完食してしまった。桔平は苦笑しながら傍らのホットミルクを顎で指した。 「早食いすると喉に詰まるぞ」 「……はい」  ――わあ……いい匂い。  久しぶりに嗅ぐ甘いミルクの香りにうっとりしながら、水面に舌を近づけようとしてハッとした。  ――いけない、いけない。  人間はカップを持って飲むのだ。危なかったと胸を撫で下ろし、カップに唇をつけた。 「あちっ」 「そんなに熱くしていないはずだぞ? 猫舌なのか」 「……はい」  猫なので、という言い訳はもちろん呑み込む。 「とことん面倒臭いんだな、閻魔って。あ、お前が個人的に面倒臭いのか」 「……すみません」  恐縮しながらもふたつ目のサンドイッチに齧りつくロクに、桔平は小さく噴き出した。 「そんなに気に入ったのか」 「はい。桔ちゃ……黒澤さん、お料理の天才です」 「パンにただハムとチーズ挟むのを料理とは言わない。ていうかお前、ちょいちょい『桔ちゃん』って言いかけてるけどなんなの」 「っ!」  サンドイッチを喉に詰まらせそうになり、うっかりホットミルクを啜る。 「あちちっ」 「そそっかしい閻魔だな。呼びやすいならそれでいい」 「い、いいんですか?」 「ただしここにいる時だけだぞ。病院では『黒澤先生』だ。間違っても桔ちゃんなんて呼ぶなよ」 「わかりました」 「ところでお前、苗字あるのか?」  ロクはふるんと首を振る。 「だったらお前は今日から黒澤ロクだ。スタッフには、従弟だと紹介する」 「黒澤……ロク」  病院で一度口にしただけの名前を、ちゃんと覚えていてくれたらしい。 齧りかけのサンドイッチを手にしたまま、ロクはほんのり頬を赤くした。 「なに喜んでるんだ。入籍したみたいですぅ~とか、考えてんじゃないだろうな」 「…………」  図星を指されたロクは、耳まで赤くして俯いた。 「つまんねえ妄想してないで、さっさと食っちまえ。夜はそっちの空き部屋に客用の布団敷いてやるからそこで寝ろ。明日は普段より少し早めに出勤するから、一緒に出るなら寝坊するなよ、ロク」  ――今、桔ちゃん、ロクって……。   初めて名前を呼んでくれた。「ロク」って。大人の声で。  急激に込み上げてくる懐かしさに、鼻の奥がツンとした。視界がぼやけるのをごまかすように、しゃきんと背を伸ばし、ロクは「はい!」と元気に頷いた。  ――これからひと月、桔ちゃんと毎日一緒にいられるんだ。  明日からの暮らしを想像すると、嬉しさで胸がうずうずする。  桔平が昔のことを忘れてしまっていることは少し寂しいけれど、思い出すことで辛い思いをするくらいなら、忘れたままの方がいい。真実を知らない方が幸せなこともあるのだと、今は素直に思える。  ようやく冷めたミルクを飲みながら、ロクはそっと微笑んだ。

ともだちにシェアしよう!