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第1話
目が覚めた時、そこは見覚えのあるラブホテルのベッドの上だった。
体のあちこちが痛み、頭の中も靄がかかったようにはっきりしない。髪が濡れていることから風呂に入ったのは分かるが、のぼせでもしたのか、どうやら一時的にベッドの上で気を失っていたらしい。
ここがホテルだということは、いるのは俺一人じゃないのだろうか。誰かとこんな場所に来るとしたら俺の場合、その相手は決まっている。
「和、……」
名前を呼ぼうとした瞬間。ベッドから持ち上げた後頭部に鋭い痛みが走って、俺はさっきまでのことを思い出した。
そうだ。確かあの時、和真が掴み掛ってきて――。
九月十日。今日は俺にとって初めての恋人である遠野和真の、十九回目の誕生日だった。
和真とは高校三年間ずっと同じクラスだった。正式に付き合い始めたのが高三の秋、今から丁度一年前だ。気が強くて少々強引なところもある和真だが、俺はそういう男らしさに惹かれていたし、和真もことあるごとに俺を「運命の相手だ」と言ってくれていた。
そんな俺達の関係は、卒業後の進路が別々になっても問題なく続いていたはずだった。……先月の下旬に、偶然和真の浮気現場を目撃するまでは。
和真から「大事な話がある」と呼び出されたのがつい三時間前だ。考える時間は充分あったはずなのに、和真は部屋に入るなり言い訳を口にした。あいつは遊びだとか、本気じゃないとか、挙句の果てに、これくらい皆やってることだと開き直った。
素直に「好きな人ができた」と言われたら、俺は潔く引き下がっていた。百歩譲って「浮気してごめん」と率直に謝っていてくれたら、渋々ながら許していた。だけど和真は全く悪びれた様子がなく、言い訳ばかりで一度も謝罪の言葉を口にしなかった。
その言い訳を聞いているうちに腹が立ってしまい、俺が「別れる」と言った瞬間──和真の目付きが豹変した。
優しかった和真が鬼に変わるのを目の当たりにした俺はあまりの恐怖に抵抗すらできず、ひたすら拷問のような苦痛に耐え続けた挙句、失神した。和真と俺の最後の情交は、俺にとってただのレイプでしかなかった。
そして、部屋を出て行く和真の捨て台詞。
――この俺が一年間も男の相手してやったんだから、感謝しろよな。
和真の浮気相手は女だった。和真と同じ大学に通う同い年の帰国子女で、顔もスタイルも和真好みの、「非の打ちどころのない女」だった。
午前十一時。壮絶なフラれ方をしても世界は変わらず、今日もまた一日は始まる。
俺はフロアの通路を挟んだ向こう側にある生体売場を眺め、思わず溜息を漏らした。ケージ内にいる仔犬達の元気な鳴き声は、俺が担当しているペット用品売場まで聞こえてくる。
俺は犬が好きだ。大きいのも小さいのも、毛が長いのも短いのも、愛くるしいのも不細工なのも、昔から犬なら何でも好きだった。
犬の世界には優劣がない。誰が一番可愛いとか格好いいとか、男がいい女がいいといった、そんな次元の低い争いがない。
「おおい、伊吹」
おまけに犬は一度信じた人間を決して裏切らない。飼い主がどんな失恋をしても、どんなにネガティブで進歩のない奴でも、犬だけは無条件に愛してくれるし、信じてくれる。
だから俺は犬が好きだ。
「聞いてんのか、河上伊吹っ」
「えっ」
呼ばれて振り向くと、同じペット用品売場の先輩である岡本燈司 が、苛立った様子で俺を睨み据えていた。
「お前、一日に何回犬見て溜息ついてんだ。しかも毎日」
俺の耳には心地好い仔犬達の鳴き声も、燈司にとってはただの騒音でしかないらしい。燈司はレジ台の上に「だいじな家族のあんしん保険」のポスターを広げながら、顔を顰めている。
「暇なら、ポスター補強するの手伝え。いつまでも見とれてねえで」
俺は渋々踵を返し、燈司のいるレジカウンターの方へと歩いて行った。
通路を挟んだ向こう側にある生体売場も、俺と燈司が担当をしているグッズ売場も、元は同じ会社〈ジョイフルペット〉が経営している店だ。大抵の場合、他の店舗では生体とグッズの売場が同じ店内でセットになっているのだが、俺達の店舗は駅ビル内にあるため、フロアの構造の関係で店自体が分離されているのだった。
フロア最奥に広い生体売場があり、その手前にちんまりとした俺達のグッズ売場がある。インショップ特有の「入口のドアも壁もなく、四方八方から店内に入ることのできる剥き出し状態」でだ。
燈司は「服が犬臭くならなくて済む」と喜んでいるが、犬好きな俺としては、自分の持ち場から向かいの犬を眺めるだけしかできないことに多少の寂しさを感じている。「可愛い仔犬や仔猫を身近に感じながら働きませんか」という謳い文句を見てバイトの応募をしたのに、殆ど鳴き声しか聞こえないこの状況では何だか逆にもどかしい。
「俺もあっちで働きたい」
呟きながらレジ台の上のポスターを押さえると、燈司が幅の広いクリアテープを手に取って乾いた笑みを浮かべた。
「そうか? こっちの方が生体と比べたら暇な分、気楽に働けていいじゃん」
「暇だから、こんなポスター作りなんて押し付けられるんだろ」
犬や猫を購入した客に勧めるペット保険のポスターだ。元々、グッズ売場には何の利益も集客効果もない物である。たまにこうして生体売場のスタッフが仕事を頼みにくるのだが、その全てが俺達には関係のない雑用ばかりだった。狭いグッズ売場は店員が一人いれば充分と決め付けられ、真冬に駅ビルの入り口でチラシ配布を命じられたこともある。そのせいで以前いたアルバイトは、去年の正月に四十度近い高熱を出して辞めたとか。
「そんなに生体の雑用が嫌なら、セール用のペットウェアでも補充しとけよ」
「さっきしといたけどさ。俺、犬に服着せるのって好きじゃない。動物は元々の毛皮があるんだから、服なんて飼い主の自己満足以外に何の意味もないだろ」
それならどうしてここにいる、と問われれば、やはりペットに関わる仕事がしたいからと答えるだろう。この仕事が嫌いな訳ではないけれど、犬が好きという理由だけで勤まるものでもない。「仕事における妥協すべき部分」。バイトで入ってもうすぐ一年になろうとしているけれど、未だに俺はその辺りの線引きが上手くできていなかった。
「短毛種なら寒さ対策もあるけど、長毛種に服着せるのはおかしい。燈司もそう思うだろ?」
「今日の伊吹は珍しく文句が多いな、何か嫌なことでもあったのか?」
当然ながら燈司は、昨夜俺が失恋したことなど知る由もない。もちろん男と付き合っていたこともだ。相変わらずの眠たげな顔で、クリアテープで補強したポスターを壁に立てかけながら舌打ちしている。
「伊吹。あと三枚分」
うんざりしながら溜息をついたその時、店の中に一人の少女が入ってきた。花柄のワンピースをたくし上げてしゃがみ込み、ガラスケースの中のケーキをじっと見つめている。
淡いピンクやブルーのクリームで飾り付けられた小さなケーキは、もちろん犬用のおやつとして売られているものだ。骨の形をしたものや、親指ほどに小さなチワワやトイプードルが乗ったケーキもある。いかにも子供が好きそうなデザインをしているため、日に何度もこうして小さな子供が店内にふらりと入ってくるのだった。
「これ、美味しそうだけど食べられないんだよ」
女の子が隣に屈んだ俺を見て、驚いたように目を丸くさせる。
「本物のケーキなんだけど、食べても全然美味しくないんだ。止めといた方がいいよ」
すると、上から燈司の声が降ってきた。
「伊吹。その子、普通にペット用のケーキ買いに来たんじゃないの」
その言葉にこくりと頷いた少女が、ポシェットから五百円玉を取り出して俺に見せる。
「何だ、そうか。ごめんごめん。誕生日かな? ワンちゃん、なに犬なの」
「ヨークシャーテリア」
「じゃあ、このヨークシャーが乗ってるケーキはどうかな? ハート型で可愛いよ」
燈司がレジ台からポスターをどけて身を乗り出し、少女に問いかけた。
「誕生日なら、バースデーカード作ってあげようか」
「ありがとう!」
ひとつ380円の売上だ。それでも、俺は少女を見送った後もしばらく頬を弛ませていた。さっきは散々文句を言ったが、犬だけでなく、こうして子供に癒される時がたまにあるからこの仕事は楽しい。
通路から売場内に戻ろうとしたその時、ふと、後ろから背中をつつかれた。
「どうした、忘れ物?」
満面の笑みで背後を振り返る。が──次の瞬間俺の視界に飛び込んできたのは、花柄のワンピースを着た少女ではなかった。
「あ、……」
ぽっかり開いた俺の目と口とが、そのままの形で停止する。
俺の背後に立っていたのは男だった。それも恐ろしいほど背が高く、異様なまでに目鼻立ちの整った若い男だった。
「す、すみません。別のお客さんと勘違いしてしまって……」
数瞬遅れて頭を下げた俺を見て、男が口元に笑みを浮かべる。その笑い方は、苦笑というよりも冷笑に近かった。燈司も口には出さないものの、「何やってんだ」の顔で俺を見ている。
「何か、お探しですか」
恐縮しながら問うと、男は俺達の売場の方ではなく、通路の向こう側にある生体売場に顔を向けて呟いた。
「別に。何も」
男はただじっと、離れた場所から生体売場を見つめている。その鋭い視線に何故だかゾクリとして、俺は訳も分からず身震いした。
「伊吹。作ったポスター、向こうに届けてきてくれ」
「……わ、分かった」
厚紙で補強した三セット分のポスターを抱え、売場を出る。未だ生体売場を眺めている男を横目に見ながら、俺は小走りで通路を突っ切って生体売場の店内へと入って行った。
「お疲れ様です。ポスター、出来上がった分持ってきました」
「あっ、伊吹くんありがとう。悪いね、わざわざ」
女子スタッフが愛想の良い笑顔で駆けてきた。今日も生体売場はなかなかの混雑を見せていて、店内奥では専門スタッフによる仔犬の爪切りやトリミングが行われている。
他のスタッフは皆それぞれ表で接客についていた。平日に売れるのは運が良くても二、三頭ほどだ。だからこそ皆、一つ一つの接客に必死になっている。成程、これではポスター作りなんてしている暇はないのかもしれないと、俺はぼんやり考えた。
「わ、完璧。テイちゃんて器用だから、こういうの安心して任せられるよ」
燈司がこちらの女子から人気があるのは知っているが、あからさまにそれを見せつけられると幾分か不快になる。上背があって男らしく、眠たそうな顔が気だるげで可愛いと評判の燈司と、何の特徴もない平凡な自分とが見比べられている気分になるからだ。
「テイちゃんによろしく言っといて。伊吹くんも、ありがとうね」
「分かりました。……そういえば、店長は? 最近見かけないですね」
「あれ、言ってなかったっけ。店長、異動になったんだよ」
驚いた俺に、その女子スタッフが「セクハラで」と耳打ちをする。
「へぇ、知らなかった。あのおじさんなら、確かにやりかねないけど」
「秘密ね。だから今は副店長の相馬くんが頑張ってるんだけど。本社の人事部から連絡があって、近いうちに別の店舗から新しい店長が来るみたい」
意外な情報を得て店を出た俺は、すぐさまそれを燈司に知らせようと走りかけ、……思わずその場で立ち止まった。
「ああ……」
愛らしい仔犬や仔猫達が、それぞれのケージの中で遊んだり昼寝をしたりしている。
スムースのチワワ、ロングのチワワ。トイプードルにパピヨン、ヨークシャーテリア。それからマンチカン、スコティッシュフォールド、ソマリ、アメリカンショートヘア。
仔犬や仔猫を見ていると、心底癒される。これから彼らがどんな家庭に引き取られ、どんな教育を受けてどんな一生を終えるのか。その行く末を祈らずにいられない。
俺はケージの向こう側を見つめながら、実家で飼っている「吹雪ふぶき」のことを思い出していた。
「………」
吹雪は俺が十四歳の時、初めてペットとして家に迎えたシベリアンハスキーのオスだった。と言ってもペットショップで買った訳ではなく、知人から譲り受けた訳でもない。
吹雪は、俺がとある家から誘拐してきた犬だった。
ハスキー犬と言えば雪国でソリを引く犬だ。本来ならば美しい毛並みであり、体付きも逞しくしっかりとした足取りで悠々と歩く犬なのに、当時の吹雪は毛もぼさぼさであちこちに泥がこびり付き、脇腹は痛ましいほどにへこみ、とにかくみすぼらしかった。青い瞳は弱々しく常に怯えていて、俺が手を伸ばすだけで全身を強張らせ、尾を丸めていた。
その家は俺の自宅からはだいぶ離れていたが、塾の行き帰りにしょっちゅう前を通っていたから知っている。吹雪の犬小屋はぼろぼろで、水入れには泥水が溜まり、餌入れにはいつ見ても何も入っていなかった。吹雪は僅か1メートルほどの鎖で犬小屋に繋がれ、散歩はおろか、住人の誰からも相手にされていなかった。
塾の帰り道、俺はいつもコンビニで買った犬用フードをこっそりと吹雪に与えていた。俺にはその程度のことしかできなかった。どうにかしてやりたいと思いながらも、具体的な解決策なんて何一つ思いつかなかった。
悶々としながら過ごしていたそんなある日、偶然、吹雪の鎖が外れているのに気付いた。前日は台風でこの辺り一帯は強烈な暴風雨にさらされていたから、その時に何かの拍子で小屋から鎖が外れたのだろう。辺りは街灯も少なく、通行人は誰もいない。
やるなら今しかないとか、誰にも見つかりませんようにとか。そんなことを思った記憶はない。気付いた時には既に、庭の出入り口となっている鉄の門に手をかけていた。吹雪が俺に気付いて寄ってきたのは、俺が「食べ物をくれる人間」だと分かっていたからだ。
星が輝き始めた夕空の下。俺は錆びた鎖の先をしっかりと握りしめ、泥だらけの吹雪と一緒にその一歩を踏み出した――。
「………」
「おい、お前」
仔犬達の前で立ち尽くしたままの俺に、背後から声がかかる。
「え? ……あっ」
振り向いた先には、さっき俺が勘違いで声をかけてしまったあの色男が立っていた。腕組みをして、口元に冷笑を浮かべながら俺を見下ろしている。
「犬、探してるんだけど。見立ててくれるかな」
周りを見ると他のスタッフは皆忙しそうで、俺の存在に気付いてすらいない。
「あ、でも……。僕、ここの売場の担当ではないので」
「ここも向こうも、同じ店なんだろ」
助けを求めてグッズ売場に顔を向けたが、燈司もやはり作業に没頭していて俺に気付いていない。仕方なく、俺は体中を緊張させながら男に問いかけた。
「どんな仔をお探しでしょうか? ウチは本当に、可愛い仔ばかりですよ」
何だか風俗の客引きのようだと、思わず苦笑いを浮かべる。慣れない接客をしている俺にようやく気付いたらしい近くのスタッフが、「ゴメン」の顔でこちらに向かって軽く頭を下げた。
男は腕組みをして、ケージに視線を滑らせている。
「できれば、小型じゃないのがいいんだが」
「でしたら、コーギーやテリア系の仔がいますよ」
「それもいいけど、もっと大型の……シベリアンハスキーとかはいないのか?」
「そうですね、やっぱり今はどうしても小型犬が人気なので、ウチもチワワやトイプーがメインになっちゃってて。……ハスキー、好きなんですかっ?」
「ああ」
それを聞いて、俺は顔を輝かせた。
「お……俺の実家、ハスキー飼ってるんです。色はシルバーで、今は多分……十歳くらいかな」
男も鋭い目を丸くさせて、俺を見下ろしている。
「そうか。いいよな、ハスキー。犬はでかければでかいほどいい」
「わ、何か勝手に親近感が……。すみません、滅多にハスキー話できないから嬉しくて」
「俺んちのやつ、写真見るか」
男がジーンズのポケットから財布を取り出し、その中に入っていた写真を俺の方へ差し出した。受け取った写真の中、ふわふわの銀毛をまとったハスキーの仔犬が行儀よく座っている。
「か、可愛いですね。ぬいぐるみみたいだ。やばい、本当に可愛いです」
長い舌を出して、まるで笑っているように見える。それは間違いなく、幸せな環境の中で育てられている犬の顔だった。
「お前のとこの犬は、何て名前なんだ」
「えっと、吹雪です。この仔は?」
「ギンだ」
「ぴったりですね。仔犬って皆可愛いけど、やっぱりハスキーの仔犬が一番可愛い」
俺の食い付きが良いのに満足したのか、男が口元を嬉しそうに綻ばせながら言った。
「でも取り敢えず、ここにハスキーはいないんだな。まあ、始めから期待してなかったけど」
「すみません。……あの。小さい仔は、嫌いですか?」
思い切って訊いてみた。ハスキー好きである男に好感が持てたのと、もしかしたら売上に繋がるかもしれないという欲から出た言葉だった。
訊ねた俺を見下ろして、男がふいに沈黙する。黙られて不安になってしまい、俺は頭の中を必死に回転させながら小型犬の魅力を並べ立てた。
「小さくてもパワフルで、凄く可愛いですよ。可愛いだけじゃなくて、利口ですし。無駄吠えする時もありますけど、きちんと躾けてくれればちゃんと良い子になりますし」
「………」
「そ、それに、膝の上で寝かせたり、気軽に抱っこもできるし……」
男はまだ黙ったままだ。俺は最後の手段とばかりに、ケージの向こう側を指して言った。
「良かったら、その……試しに抱いてみませんか」
「抱いていいのか」
「もちろんです。どの仔でもいいですよ、どれにします?」
飛び切りの笑顔を向けた俺に、男が始めに見せたのと同じ冷笑を浮かべて囁いた。
「じゃあ、お前だ」
「……うん?」
男が少しだけ身を屈め、俺にしか聞こえないように再び囁く。
「どれでもいいんだろ。この中でもお前が一番元気で、利口そうだ」
「な、なに……何を言ってるんですか」
「膝の上で寝かせたり、気軽に抱っこもできそうだしな」
それは案に俺の背丈を馬鹿にしているのだろうか。確かに俺はこの男に比べたら貧弱で小柄に見えるかもしれないが、実際はそこまで言われるほど背が低いという訳じゃない。
頭にきて言い返そうとした時、男の唇が更に耳に近付けられた。
「抱いていいんだろ。抱かせろよ、ちゃんと躾けもしてやるからよ」
「ちょ、っと……待っ……やめてくださいっ……」
思わず後ずさった俺を見て、男がふいに噴き出す。
「ここにいる犬達も、客から抱かれる度に今のお前みたいな気持ちになってるのかもよ」
「え……? そ、そんな」
「冗談だ。仔犬は赤ん坊と同じで抱かれるのが好きだからな、そんな訳はないか」
「洒落になりませんて……」
周りは誰一人気付いていないのか。それとも気付いて放置しているのか。俺は心臓を高鳴らせながら、とにかく一刻も早くこの場から逃げようと辺りに視線を滑らせた。
その時だ。
「伊吹、何してんだ。いつまでもこっちにいたら俺らの仕事が終わらんぞ」
横から現れた燈司が俺の腕を取り、男に向かって頭を下げた。
「すいませんお客さん。彼ここの担当じゃないので、後は別のスタッフに聞いて貰えませんか」
「伊吹……。伊吹、河上伊吹か……」
しかし男は口の中で俺の名前を反芻しながら、俺の首から下がったネームプレートを凝視している。俺はその不気味さに身震いし、未だ手にしたままだったハスキーの写真を男に返した。
「あの、これ。ありがとうございました。すいません、碌に接客できなくて……」
「いや、……」
男が口を開いて何かを言いかけた時、燈司が俺の腕を強く引いて窘めるように言った。
「いい加減戻るぞ。売場に客、来てる」
ぶっきらぼうに男に会釈した燈司に腕を引かれ、売場へと引き摺られて行く。男はしばらく俺達を見ていたが、やがて生体売場の店内へと入って行った。
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