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第2話

 午後九時。  客がいなくなり、不必要な照明が落とされたフロアは毎度のことながら薄気味悪い。燈司はこの後合コンがあるとかで、今夜は早々に帰ってしまった。レジ清算が終わった店は完全に消灯してしまうから、もたついていると僅かな明かりの中で作業をしなければならなくなる。  大急ぎで売上報告書をファックスし、明日の入荷表をカウンターの上に貼り付ける。それからレジの金を、地下の駅ビル共用金庫室へ預けに行く。無造作にエプロンを突っ込んだ鞄を肩から下げ、社員証をポケットから取り出し、生体売場の愛しい子供達に心の中で別れを告げれば、後はもう今日の売上を入金して帰るだけだ。  昼間会った男のことなどすっかり忘れて、俺は従業員用のドアから外へと出た。ドアから先は駅の改札広場に直通していて、この時間でも人通りが多く賑やかである。このまま改札を通って帰ることができれば良いのだが、俺が利用しているのはここから徒歩五分の場所にあるローカル線だ。人通りが少なく、極端に暗い道を通らなければならない。  ――少し遠回りして、映画でも借りて帰ろうか。  歩き出したその時、足元で「おい、お前」と声がした。どこか聞き覚えのある言い回しと声だった。  恐る恐る、足元に視線を落とす。 「あっ……!」  案の定、そこにはあの男がいた。従業員用ドアの真横。駅ビルの壁に背を預け、タイル張りの地面にそのままあぐらをかいている。昼間俺を見下ろしていたあの鋭い眼が、その鋭さを保ったまま俺を見上げていた。 「仕事お疲れ」 「な、なんで……何してるんですか」  男がミネラルウォーターのボトルを咥えながら立ち上がる。二本足で立つとあっという間に背丈を越され、まるで野生のクマと対峙しているような気分になった。 「待ってたんだよ。昼間のこと謝ろうと思って」 「いっ、いいです別に、謝るようなことじゃないし……」 「それにお前は、貴重なハスキー仲間だ。もっとゆっくり話してみたくてな」  それに対しては俺もつい頷いてしまったが、どうしても昼間この男に言われた言葉の数々が頭にちらついてしまう。  俺が警戒しているのに気付いた男が、財布から取り出した免許証を見せて言った。 「別に何も企んじゃいねえ。不安なら俺の身分証、お前が持ってていい」  渡された免許証の氏名欄には「長田彰久(おさだあきひさ)」とあった。  窓の外に広がる夜景は、眩いばかりに輝いている。 「いい家住んでるんですね、彰久さん」  俺は火照った頬を擦りながら、溜息をついて背後を振り返った。ソファに座って缶ビールを呷っているその男――長田彰久が、「まあな」と素っ気なく呟く。  何の不安も無かった訳ではないが、結局俺は招かれるままこの男のマンションへと来てしまった。週末のためどこの居酒屋も混雑していて、他に適当な店もなかったからだ。それに、昼間見せられたハスキーの写真。あの仔犬が見られるかもしれないと思い、不安よりも期待を込めてついて行ってしまった。  三十階建てタワーマンションの最上階。長田彰久は二十五歳という年齢で、この部屋に一人暮らしをしているのだという。 「こんな綺麗な部屋で宅飲みするなんて、何かセレブになった気分」  もう缶ビールを三本以上飲んでいる。酒に弱い体質であることは承知しているつもりだが、話が弾み、明日が休みということもあってつい羽目を外してしまった。そんな俺とは反対に、彰久は黙々と飲み続けながらも酔っている様子は見られない。昼間の言動とは裏腹に酒が入っても妙な行動をとる気配がなく、何より互いの犬の話で盛り上がったため、俺はすっかりこの男に対する警戒心を解いていた。  予定外だったのは、写真の仔犬がいなかったことだ。あいにく今は知人の家に預けているのだと言う。一人暮らしではそれも仕方のないことだが、やはり少し残念だった。 「彰久さんて何の仕事してるんですか。これだけいい部屋に住めるってことは、やっぱり」 「まあ、多少は酒飲む仕事もやったな。目標がこの部屋買うことだったから、もう辞めたけど」 「え。勿体ないなぁ、ホストやるために産まれてきたようなスタイルなのに」  口元に手をあてて笑う俺を一瞥し、彰久は苦笑している。  改めて見ても、長田彰久は上から下まで本当に完璧に整っていた。まるで男に必要とされているものを全て兼ね揃えて産まれてきたかのようだ。  分厚い窓ガラスに映った自分が、滑稽なほど貧弱に見える。窓を離れた俺は少し距離を置いて彰久の隣に座り、ソファの背もたれにぐったりと体を預けて唇を尖らせた。 「彰久さんずるいです。その見た目と、金もあって。フラれたことなんてないんだろうな」 「何だその前ふり。いかにも愚痴りたいって感じだな」 「そりゃあ、愚痴りたくもなるんです」  俺は目を細めて彰久の整った顔を睨み、昨夜起こったばかりの和真とのことをだらだらと語って聞かせた。 「……それで、だから和真は、結局男と恋愛できるような奴じゃなかったんです。付き合ってやってる、って気持ちで、俺と一緒にいただけで……」  初めて会った男にこんなことを暴露するなんて、相当酔っている証拠だ。自分でも信じられなかったが、彰久が黙って聞いてくれているからか一旦喋り始めたら止まらなくなっていた。 「でも男同士の恋愛なんて、所詮はそんなモンなんだって分かったんです。俺達は結婚もできないし、一緒にいるメリットなんて何もなくて……」  そもそも出会えばいずれ別れの時が来るもので、今の時代、男女の恋人同士ですら結婚まで行くことは滅多にないと何かで目にしたことがある。それならば、ゴールが見えない自分達はどうなるのか。遅かれ早かれ別れると知りながら誰かと付き合うなんて、限りある人生の貴重な時間を無駄にしているようなものだ。 「だからもう、本気で恋愛するのが何だか空しく思えてきて」 「まあ、考えは人それぞれだからな。でもお前、今までそいつ一人としか付き合ってねえんだろ。『本気の恋愛』なんて軽々しく口にしない方がいいとは思うけど」 「そう言う彰久さんは、付き合ってる人いないの。昼間俺にあんなこと言ってきたってことは、彰久さんの対象も男なんでしょう。今までどれくらい付き合った?」 「期待を裏切るようで悪いが、俺は今まで誰とも付き合ったことがねえんだ」  意外な答えに、俺は目を丸くさせた。 「本当に? その外見で? ……もしかして彰久さん、童貞」 「それとはまた話が別だな」  俺は手にしていたビールを一気に飲み干し、「何だ」と重い溜息をついた。本気にならずに遊ぶだけの恋愛をするには、やはり彰久ほどの器量がなければならないということか。この男なら黙っていても相手から寄って来るだろうし、昼間のあの堂々とした態度からも、「そういうこと」に慣れている様子が伺える。  俺は恨めしげに彰久を見つめて呟いた。 「どうしたら彰久さんみたいな遊び人になれるんだろ」 「俺は別に遊んでる訳じゃねえよ。機会を無駄にしてないだけだ」 「機会?」  酔いのせいで重くなった俺の目蓋に、彰久の指が触れる。 「こういう機会」  彰久の指は冷たかった。それが火照った目蓋に心地好く、俺は口元を弛ませながら彰久の指に促されるまま目を閉じた。 「気持ちいい。マッサージされてるみたいです」 「……お前、隙だらけだな」 「そんなことないですよ。俺、今まで和真以外の男と付き合ったことないですもん」  彰久の指が離れ、俺は目を開けてニッと笑ってみせた。 「一途なんです、俺は」  彰久の表情が険しくなったように見えたのは酔いのせいか、それとも単純な目の錯覚だろうか。――思った瞬間、俺の体はソファから浮いていた。 「えっ、な、何っ……」  気付けば彰久の顔が目前に迫っている。抱き上げられ、膝の上で向かい合うように座らされたと気付いたのは、耳元に低く囁かれた後だった。 「初めて会った男の家で酔っ払っといて、隙がねえってどういう意味だよ? 無防備について来やがって、どこが一途なんだか教えてもらいたいモンだな」 「な、何言ってんですか」  この時点ではまだ彰久が冗談を言っているとしか思えず、俺は頬を引き攣らせながらも無理に笑みを浮かべて言った。 「だって彰久さん、何も企んでないって――」 「なるほど、確かに膝に乗せるには丁度良いサイズかもしれねえな。重さも、デカさもこのくらいが一番だ。お前がもし犬だったら、間違いなく愛玩犬だろうよ」 「何言って……そんなの全然嬉しくねえっ」  俺の動揺を無視してニヤついている彰久が、これから何をするつもりなのか分からない。分からないが大体の察しがついてしまい、俺は酒で熱くなった身体が急激に冷えてゆくのを感じた。 「だ、だって彰久さんはハンサムで金持ちで……。その時点でもう、俺なんかに構ってちゃ駄目でしょうが。それに俺達、同じハスキー仲間じゃないですか? 犬好きに悪い奴はいないって、……彰久さんも思ってるでしょ?」  適当なことを言いながら懸命に彰久の腕を逃れようとするが、腰と背中をしっかりと固定されていてどうにもならない。俺は己の非力さを今更のように情けなく思いながら、それでも必死に体を離そうとして彰久の肩に置いた手に力を込めた。  しかし俺が逃げようとすればするほど、今度は彰久が両腕に力を込めてくる。反り返らせた背中に痛みが走り、堪らず俺は目の前の彰久を睨み据えた。 「あ、彰久さん。俺、マジで怒りますよっ」 「いいぜ別に。怒ってみろ、ほら」 「っ……」  既に怒りは頂点間際なのに、唇が震えるだけで言葉が出てこない。もしも本気の抵抗をして酷い目に遭ったら――そう思うと、怖かった。 「伊吹」  彰久が指で俺の顎に触れ、そのまま軽く上へと向けさせる。 「そんな怯えた顔すんな。まるで俺が悪者みたいだろ」 「あ、彰久……うわっ」  腰に回されていた手がシャツの中に入ってきて、俺は上半身をくねらせた。彰久のかさついた指が脇腹を這い、その冷たさに思わず息を飲む。 「んっ、――や、やめ……」 「やめて欲しくねえ顔してる」 「あっ!」  内側からシャツを引っ張られ、一気に肩まで捲り上げられる。剥き出しになった肌に彰久の唇が触れ、俺は喉を反らせて彰久の肩を押し返した。 「やめろって、ば……! いい加減にっ……」  肩を押す手に力を込めると、それを上回る力で彰久が俺の背中を引き寄せてくる。元々、力の差があり過ぎるのだ。俺なんかでは敵う訳がない。 「や、だっ……あっ」  潤んだ目で白い天井を見つめながら、俺は彰久に支えられている背中をビクビクと痙攣させた。彰久の口に含まれた俺の乳首が、中で舌に転がされているのが伝わってくる。心地好いと言うよりは、むず痒い感覚に近かった。 「んっ、あぁ……」 「開発済みか? お前の男も相当エロい奴だったんだな」 「ち、違うっ……和真はそんな奴じゃ……」 「なに庇ってんだよ。そいつとは終わったんだろ」  言われて俺も気付いたが、今はそんなことについて思い巡らせている場合じゃない。とにかく、これ以上彰久をエスカレートさせないために何か手を打たなければ。 「あ、彰久――駄目だってば……!」 「何が」 「お、俺がもし、お前の職場に……レイプされたって、チクったら……」  脅すつもりはなかったが、他に文句が思いつかない。だけどそんな俺の必死の訴えも、彰久の口元を歪める程度の効果しかなかった。 「どうもしねえよ。お前がこれをレイプだと思ってるなら、好きなだけチクれば」  彰久の手が、ジーンズ越しに俺の下半身へと触れる。 「あっ!」 「ここまで窮屈そうにさせといて、どこがレイプなんだか」 「だ、だってこれはお前がっ。――あっ、やめろ、馬鹿っ……!」  指先でファスナーを摘まんだ彰久が、ゆっくりとそれを下ろして行く。これから何をされるのかを思うと不安で堪らないのに、身体のどこかが期待もしている。恐らくは、彰久に言わせれば「この状況がレイプでないと証明している」、俺のその部分が――。 「だ……駄、目……」  所詮は俺も十代の猿ということだろうか。口では嫌だと言いながらも、結局は本気の抵抗で彰久を止めようとはしていないのだ。それどころか、いっそのこと和真を吹っ切るつもりで抱かれてみても良いかもという気にすらなってきている。  これほどのいい男がどんなセックスをするのか――人生経験として、知っておいて損はないのではないか。 「あぁっ……!」  俺は彰久の肩に手を置いたまま、自身の中で起きている葛藤を振り払うかのように頭を振った。 「やめっ、……彰久、も……駄目っ、だって……」

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