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第9話
今まで、こんな風に誰かに好きになってもらったことがなかったから。調子が狂うのは仕方ないし、照れて意地を張ってしまうのも仕方ないことだと思う。公園でのあの夜から一週間が経ったが、未だに俺は彰久を好きだと認めていない。それは彰久を信用していないからではなく、単純に俺が恥ずかしがっているだけだ。
俺の気持ちが前よりずっと彰久に傾いていることは、彰久自身にも恐らくは伝わっている。この微妙な距離感が、この時折心の中がくすぐったくなるような感覚が、恋愛の始まりなのかもしれない。頬が弛んでしまうのは幸せの証だろうか。仕事にやる気が出るのは、支えてくれる人がいるという安心感からだろうか。
名前のないふわふわとした気持ちの中を惰性で漂っているのも、今は心地好い。ずっと冷えていた俺の胸の中が、柔らかく解されて行くようだ。
「伊吹、機嫌いいな。もしかして、前に言ってた子と上手くいったのか」
「別にいつも通りだよ、俺は。燈司こそ朝から鼻歌歌ってるし、機嫌いいじゃん」
「俺は今日、デートだから! 前の合コンで知り合った子と飯食いに行くんだ。付き合えるかどうか分からねえ、このギリギリの感覚……久し振り過ぎて緊張する」
どうりで今日は、服も髪もいつも以上に気合が入っている訳だ。
「燈司なら上手くいくだろ。ペットショップで働いてるって言えば、ギャップがあってウケがいいかもな」
「その手は散々使ってきた。『俺んち猫いるんだよ』って言えば、大抵の子は『見たい見たい』ってなって、簡単に家まで持ち帰れるし」
今までは苦手だった「合コン」「彼女」「女の子」の話も、今ではほんの少しだけ余裕を持って話すことができる。心に多少でもゆとりがあると、こんなに楽になれるのか。
「じゃあ俺、生体の方に届け物してくる」
イベントのチラシを挟んだパンフレットの束を抱えて通路に出ると、彰久が俺に気付いて片手を上げた。
「悪いな、また雑用頼んじまって」
「いいよ、こっちは時間に余裕あるし。……腕、平気か?」
パンフレットを受け取った彰久の腕には、幾つもの引っ掻き傷がついている。仔犬の世話をする時にできる、生体スタッフ特有の傷だ。
「新しいのが入ってきたんだ。凄げえ元気でさ。愛想良いし、多分ソッコーで売れるな」
「へえ。見てみたい」
「いいぜ、丁度客が引いてきたとこだから」
さっき燈司が言っていた「女を家に誘う手口」は、かなり効果があるようだ。俺は思わず苦笑して、先を行く彰久の背中を足早に追いかけた。
「こいつ、こいつ」
「あっ、可愛い……」
彰久が指したケージの中には、白地に薄茶色い牛柄模様の入ったチワワがいた。狭いケージの中を左右に飛び回って、細い尻尾を元気に振っている。チワワと言えば長毛種が人気だが、こうして見るとつるつる毛の短毛種も堪らなく可愛らしい。
「元気だな、人見知りしなさそうだし」
「手、中で洗って消毒して来いよ。抱かせてやる」
「いいの? やった!」
店内の流し台と消毒液を借りてから浮足立つ思いで外に戻ると、彰久がケージの鍵を開けて中から仔犬を出し、俺の胸に抱かせてくれた。
「わ。……う、嘘みたいに軽い」
犬と言えば今までずっと吹雪としか接していなかったから、小型犬がこんなに軽いなんて想像もしていなかった。まるで綿を抱いているかのようだ。だけどその身体は温かく、確かに俺の腕の中に存在している。
「可愛い。ヤバいくらい可愛い」
「ヤバいだろ。安いしな、買うなら今のうちだぞ」
「安いって幾ら?」
「七万ちょい。こいつ他のチワワと比べると、体が若干でかいからな」
俺は胸の中のチワワをじっと見つめた。申し分なく可愛いし、他と比べて体が大きいと言われても、俺には充分小さく軽く感じる。
「でも、七万か。それに俺、日中は部屋に誰もいないから面倒見れないしな……」
「そろそろ俺と結婚して、俺と暮らせばいいんじゃねえの」
「そうしたって共働きだろ。彰久あれだけいい部屋に住んでんのに、給料殆ど車とバイクに注ぎ込むらしいじゃん」
バレたか、と彰久が苦笑する。
「店長、休憩戻りましたけど。あ、伊吹くんお疲れ様……って、その仔」
相馬副店長が俺の腕に抱かれた仔犬を見て、突然笑い出した。
「何笑ってんですか」
「だ、だって伊吹くんとその仔、全く同じ顔してたから。抱いてるの見てなんか笑けてきた」
「同じって、何がです」
チワワに視線を落とすと、チワワの方も目を瞬かせて俺を見上げた。
「髪の色も茶色で同じだし、今日の伊吹くん白いシャツだったからさ。目ぱちくりさせてるのもそっくりで、何かウケる」
「や、やめてくださいよっ」
途端に恥ずかしくなって、俺は彰久にチワワを返した。仔犬を受け取った彰久が、片眉を吊り上げて笑いながら相馬副店長に便乗する。
「確かに伊吹は愛玩犬タイプだよな。見た目も中身も」
「だ、だからっ……」
「そういう彰久店長は、見るからに大型犬ですよね。グレートデンとか、シェパードとか。並大抵のでかさじゃないやつ」
露骨に嫌そうな顔をして、彰久が相馬副店長を睨んだ。
「じゃあお前は」
「俺はもちろん、大人気のトイプードルですよ」
「調子乗んな。どう見てもダックスかコーギーだろうが」
「酷い。それって俺が足短いってことですか。本当に酷い」
彰久と相馬副店長のやり取りに、俺は腹を抱えて笑った。自分でもこんな笑い方ができるのかと思うほど、声を出して豪快に笑った。
「ヤバい、そろそろ戻らないと燈司にどやされる」
「おう、じゃあまた後でな」
笑い過ぎて涙目になったまま、俺は生体売場を後にした。少し前とは気分がまるで違う。楽しくて、前よりもっと仕事が好きになれた気がした。
「お帰り。何か馬鹿笑いしてたな、この俺を差し置いて面白そうな話しやがって」
「怒るなよ。燈司、今日デートなんだろ」
そうなのだ、と途端に燈司の顔が輝き出した。
「そんじゃ伊吹。俺、昼休憩入るから店よろしく」
「ん、行ってらっしゃい」
売場に一人になってから、俺は陳列している商品の整理に取り掛かった。玩具の顔が前を向いているか、おやつは賞味期限の遠い物が後ろに来ているか、一つ一つを手に取って確かめて行く。が、もともとあまり混雑しないから、すぐにそれも終わってしまった。
箒で床の埃を取り、ワゴンの上に散らかったセール品のペットウェアを一枚ずつ伸ばして並べる。すると生体売場から流れて来た客が、俺の隣に立って言った。
「この服って、サイズは何ですか?」
「こちらSサイズです。ブルーと、色違いでピンクもありますよ」
「ピンク可愛いわね。でもブルーも……。いいや、両方ください」
「あ、ありがとうございます」
「胴回り、大丈夫かしら。きつくないかな」
品の良さそうな中年女性が、俺が手渡したピンクの服を念入りに調べている。小型犬用のワンピースだ。女性が「どう思う?」と訊いたのは俺ではなく、犬用キャリーカートから顔を出しているトイプードルだった。毛質や目の周りを見る限り、だいぶ高齢らしい。
「サイズ平気かしら? 最近少し太っちゃって」
俺はエプロンのポケットからメジャーを取り出して言った。
「宜しければ、胴回りのサイズ計りましょうか。もしきつくなるようでしたら、似たデザインで胴に負担がこないようなタイプの物もありますよ」
「本当? じゃあお願いします」
ペットに服を着せるのを嫌がる人もいる。犬は常に毛皮を着ているのだから窮屈で可哀想だと、たまに客から言われる時もある。俺も前はそう思っていた。愛犬に服を着せるのなんて飼い主の自己満足だと馬鹿にしていた。
だけど、全てに否定的になる必要はないということが最近分かってきたのだ。それはもちろん、あの時の彰久の言葉のお蔭だった。
「リリちゃん、少しだけお兄さんにお腹見てもらおうね」
愛犬に話しかける女性の目は、これ以上ないほどの愛情に満ち溢れている。その手に抱かれたトイプードルは、幼犬の頃からずっと愛情たっぷりに可愛がってもらってきたのだろう。これからあと何年生きるかは誰にも分からない。だけどあと何年生きるとしても、死ぬ間際まで飼い主の温かな愛情に包んでもらえることだけは確かなのだ。
明らかに嫌がっている犬に無理矢理きつい服を着せようとする客には、俺も思わず口を挟みたくなる。だけど今女性に抱かれているトイプードルのリリは、抱き上げられたことが嬉しくて盛んに尻尾を振りながら、俺が胴回りのサイズを計っていても怯えた様子すら見せない。
「本当に大人しいですね」
「もうお婆ちゃんだから。でも、仔犬の時からこんな感じだったの。人懐こくってね」
「お利口なんだなぁ。あ、胴回りのサイズは余裕みたいですね。もし着せてみて様子がおかしかったら、またご相談ください」
犬に服を着せる派も着せない派も、それぞれ無償の愛を持ってペットに接してくれればそれでいい。大切なのは服やアクセサリーの付属品ではなく、ペットそのものなのだから。
「お兄さんありがとう。じゃあこれと、他にこの三枚も頂くわ」
「ありがとうございます。すぐご用意致します」
俺がリリの顎を指で撫でると、気持ち良さそうに目を細めてくれた。
やる気が出ると、腹も減る。沢山食べて動けば、夜もぐっすり眠れる。充分に睡眠を取れば翌朝の目覚めも良く、またやる気が出る。普通の人間の生活サイクルが、ここ最近になってようやく身に着いたような気分だった。
「あれ、燈司お帰り。早かったじゃん」
「本当、休憩時間て終わるの早いよな。飯食って煙草吸ってたら気付けば一時間経ってる」
いつの間にか一時間も経っていたらしい。充実していると時間の経過が早いというのは本当だ。
「じゃあ俺も、休憩行ってきます」
「そう言えば、ビル出てすぐ裏手側の所に新しい定食屋できてたぞ。割引券配ってた」
「へえ。なら天気いいし、今日は外で食べようかな」
エプロンを外して財布と携帯を持ち、売場を出る。少しだけ生体売場を振り返ったが、彰久は店内にいるのか姿が見えなかった。
それにしても良い天気だ。もうすぐ9月も終わろうとしているのに、吹く風は柔らかく、陽射しも眩しい。ビルから日向に出ると、その暖かさに思わず体を伸ばしたくなった。
軽い足取り、弾む心。この上なく上出来な木曜日の昼下がり。
………。
一瞬の違和感が、俺の口元から笑みを奪った。
このまま歩いてはいけない気がする。今すぐに踵を返して走り出さなければならない気がする。が、頭では分かっているのに体が反応しない。
十数メートル先で、既に目が合ってしまったからか。
「………」
「久し振り。元気だったか?」
「……和真」
行き交う人々の間から現れたのは、和真だった。九月十日に別れ話をして酷い目に遭わされてから、約二週間振りの再会だった。
ついさっきまであれほど浮かれていたのにも関わらず、和真を前にして視線が泳いでしまう。緊張しているのに体に力が入らなくて、寒気がするのに汗が噴き出てくる。
和真は、あれから少しも変わっていなかった。相変わらず洒落た服を着ているし、派手な腕時計を身に着けて、髪型もきっちりとセットされている。高校の頃は地べたに座ったり寝転がったりしていたくせに、大学に入ってから必要以上に身なりに気を遣い、金をかけるようになった。いま思えばその辺りも俺達の間に「価値観のズレ」を起こす原因となっていた。
「伊吹、連絡するって言ってずっと放置だったじゃん。俺凄げえ傷付いてたんだから」
「ごめん。色々あって、忙しくて……」
「今日、休みか? 今から時間ある?」
「仕事だよ。休憩中だから、少しだけなら時間あるけど……」
適当な理由をつけてその場を離れてしまえばいいのに、俺は自分でも気付かないうちに和真の機嫌を伺っていた。最後に会ったあの夜、和真からされたことを思い出して怖くなったのだ。
怒らせたらまた何をされるか、言われるか。それを思うと、無下に和真を突っぱねることができなかった。
「そっか、休憩中か。じゃあ、ここで話してても時間勿体ないから歩こうよ」
和真は笑っていた。高校の時と同じ屈託のない笑顔だった。この笑顔に惚れたんだっけ、と俺は他人事のように考えながら、大人しく和真の横を歩き出していた。どんなに「行くな」と自分に命令をしても、体が言うことを聞いてくれない。とにかく全くの予想外な展開で、未だ頭がはっきりしない。
陽射しの暖かさが感じられないほど、俺の体は冷え切っていた。一歩一歩が遅くなり、そのせいで和真に腕を掴まれてしまう。逃げられないと悟り、泣きたくなった。
「……和真、何で突然来たの?」
「伊吹の職場まで行って、暇そうなら少し喋ろうかなって。丁度出て来てくれたから助かったよ。俺、今日くらいしか時間空いてなかったから」
それを聞いてほんの少しだけ安心した。少なくとも、彰久や燈司がいる前で和真と会う羽目にはならなくて済んだのだ。後は俺の意思を貫く勇気だけ。――何があっても、和真の言いなりにはならない。
「実を言うとさ、伊吹に責められた時はマジでムカついたんだ」
俺の腕を引いて歩きながら、和真がそう切り出してきた。
「俺、今まで誰かに怒られたり責められたりした経験ってないからさ。正論言われて返す言葉がなかったのは事実だけど、何で俺がこんなに言われなきゃなんねえのかって、……それで、気付いたら伊吹に酷いことしてた」
「………」
手首に巻かれたタオルの感触。シャツを口に詰め込まれたための息苦しさ。和真の冷たい視線。終わりのない恐怖と絶望。……そして、あの捨て台詞。
「信じてくれるか分からねえけど、マジであの後反省したんだ」
「……いいよ、もう。終わったことだし」
「じゃあ、俺のこと許してくれんの?」
俺は自分の足元に視線を落とし、唇を噛んだ。
――愛してるよ、伊吹。
彰久の言葉が、彰久の低い声で、彰久の冷笑と共に頭の中で響き渡る。
その余韻が抜けないうちに、俺は顔を上げて和真に言った。
「あのことは許すけど、もう俺は和真と付き合うつもりはない」
「そっか。まあ、当然だよな」
それでも、和真は歩き続ける。徐々に繁華街からひと気のない場所に移動していることに気付き、俺は思い切り和真の手を振り払った。
「……俺、仕事中だし。あんまり遠くへは行けないよ」
前方にある小さな駐車場に、和真の愛車が停まっているのが見えた。何かとてつもなく嫌な予感がして、思わずその場で立ち止まる。
「夜、電話するから。……もう戻らないと」
なるべく無表情で、そしてなるべく低い声ではっきりとそう告げ、俺は和真に背を向けた。
「伊吹。待てよ」
「ごめん、今は何も話したくない」
そのまま歩き出そうとした俺の目の前に、突然背後から伸びてきた黒い影が現れる。咄嗟のことに何も反応できず、気付いた時には和真に口を塞がれていた。
「っ……」
「冷たいこと言うなよ伊吹。それに俺は、お前と話しに来た訳じゃねえんだ」
耳元に和真の息がかかる。胸にあてられた和真の右手――まるで心臓を鷲掴みにされているかのようだ。
和真がもうそれほど俺に情を持っていないことは分かっていた。ヨリを戻そうとしたのだって俺が好きな訳ではなく、ただ「自分の物」であるはずの俺が離れて行くのが気に入らないだけなのだ。
和真の気持ちは分かっていた。
「俺はさ、お前を迎えに来たの」
だけどこの時、初めから和真に騙されていたということには全く気付いていなかった。
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