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第13話

 俺はシャツの袖で乱暴に目元を拭い、燈司に向かって笑って見せた。それはまだぎこちない笑顔だったかもしれない。だけど嘘偽りのない、本心からの笑顔だった。 「そういう訳だから伊吹。パシリにして悪いけど、生体に届け物して来いよ」  燈司から「フード試供品」の組み立て式ポップを受け取り、大きく深呼吸をする。そのまま通路に出て、彰久のいる生体売場へと一歩踏み出す。心臓が破れそうなほど脈打っているのは恐怖ではなく、極度の緊張からだ。  だけどもう引き返さない。他の何を諦めても、彰久のことに関してだけは、もう絶対に諦めたくない――。 「よう、立ち直り早ぇな」  ケージの前、バインダーを片手に立っていた彰久が俺に気付いて不敵に笑った。 「彰久。これ、燈司が作ったから届けに来た」 「どうも。今手一杯だから、中にいるスタッフに預けといてくれ」 「さっきは……いや、今までごめん。まだ怒ってるだろ。何から謝っていいのか分からないくらいだけど……本当にごめん」 「怒ってねえよ、ガキじゃあるまいし。済まなそうな顔で届け物しに来たスタッフに冷たくするほど、器の狭い男じゃねえ」  言いながらも、俺から視線を逸らしてしまう彰久。それ以上何も言えなくて、だけど黙ってこの場を離れるのも嫌で、俺はポップを抱えたまま沈黙した。 「こないだお前に抱かせたチワワ、まだ売れなくてよ」  ふいに、彰久が呟いた。 「いつも元気なのに、混む時間になったら疲れて寝ちまって。要領が悪いっていうか、マイペースで、欲望に忠実でよ。一日中、自分の好きなように過ごしてる」 「………」 「こいつだけじゃねえんだよな。ここにいる奴ら、皆そうだ」  ケージの向こう側ではしゃぐトイプードル。玩具を枕にして寝ているチワワ。ぼんやりと座って景色を眺めている柴犬。空の餌入れを舐め回しているマルチーズ。 「仔犬ってのは、その自由で無邪気な姿が魅力的なんだ。だけどそのまま成長したら、躾けのなってねえ駄犬になっちまう。これから人間の家に飼われて、沢山のことを学んで覚えて、人間に愛される喜びを知るんだな。こいつら皆ゼロからのスタートで、今も、この先も、与えられた環境の中を全力で生きてく」  俺はケージの中の彼らから、彰久の横顔に視線を移動させた。凛とした横顔……。心臓が、痛いほど高鳴っている。 「この仕事するようになってから、こいつらに教わったことが色々あるよ。俺は機会を無駄にするような生き方は嫌いだ。諦めとか、妥協とか、そんなモンくだらな過ぎる」 「……どうしても諦めなきゃならない時があったら、彰久はどうする」 「何度全力で挑んでも駄目なら、別の道を探す。どんな手を使ってでも、どんな恥晒しても、利用できる物は何だって利用する。俺は今まで、そうやって生きてきた」  彰久の生き方、歩んで来た道……。気付けば、俺は何も知らない。彰久は強いからそうできるんだとか、彰久は大人だからそういう考えが持てるんだとか、今まで、そんなふうにしか思っていなかった。  彰久も或いは、俺と同じようにどうにもならない絶望を感じたことがあるのだろうか。挫折や孤独、恐怖や痛みを感じたことがあるのだろうか。  知りたい。彰久のこと、全部――。 「彰久。俺……」  呟いたその時、突然彰久の表情が険しくなった。何かを言う間もなく、舌打ちと同時に弾かれたようにして店内へと駆けこんで行く。俺はポップを抱えたまましばらくその場に立ち尽くし、慌ててその後を追った。 「おい。五番ケージのチワワ、すぐに隔離しろ」  誰にともなく指示を出した彰久が、店内奥から袋に入った真新しい布を持って戻って来た。血相を変えた女子スタッフがケージから出したのは、前に俺が抱かせてもらったあの白茶のスムースチワワだ。 「て、店長っ、たった今嘔吐しましたっ……」 「朝の状態は」 「食欲がなくて、普段より軟便でしたけど、その……大丈夫な範囲かと思っていて……」  俺と同い年くらいのスタッフの顔は、見た目にも分かるほど青褪めている。 「馬鹿野郎っ、何で報告しねえんだ!」 「す、すいません!」  彰久が舌打ちし、俺の横を足早に通り過ぎて行く。 「五番ケージ内を消毒しろ。それから担当獣医に電話と、パルボ用の書類と段ボール持って来い。他のスタッフには、五番と一緒に来た生体の様子を見るように言え」 「分かりましたっ」  消毒済みの段ボールに新品の布を敷き、彰久が中に仔犬を入れる。怖々覗いてみると、仔犬は苦しそうに鼻を鳴らしながらぐったりと伏せていた。  何が起きたのか、全く理解できない。 「店長。どうするんです、その仔」  若い女子スタッフが泣きそうな顔で立ち尽くし、段ボールの傍らにしゃがみ込んだ彰久を見つめている。 「取り敢えずは獣医に診せる。だけど、十中八九パルボに感染してるだろうよ。本社に返すことになるけど、場合によってはその前に……」 「パルボ……」  それは免疫力の弱い仔犬がかかり易い伝染性のウィルスで、感染すると50%の確率で死に至るという、常に仔犬を扱っているペットショップでは避けて通れない病気だ。  元気だったはずの仔犬がふいに食欲を無くしたと思ったら、突然血便と嘔吐をして、訳の分からないうちに死んでしまう。そういう病気があることは俺も知識として知っていたが、まさか目の前でパルボにかかった仔犬を見るとは想像もしていなかった。 「しっかりしろよ。必ず治るからな」  伏せた仔犬は目を半開きにさせながら、彰久の顔を見て鼻を鳴らしている。自分の体がここまで苦しい状況にありながらも、仔犬は信頼している人間が傍にいることに安心しているのだ。  溢れかけた涙を何とか堪え、俺は彰久に問いかけた。 「治るのか」 「治る可能性も充分にあるけど、とにかくこいつらは免疫力が低いからな。助かる確率は五分五分で、後はこいつの体力次第だ」 「もし治ったら、また売りに出すの……?」 「パルボが治った犬は格段に免疫力が高くなって体も強くなるけど、ウチでは一度発症した生体は治っても売りには出せない。本社に戻して、そこからブリーダーの元に帰るんだろうよ」 「………」  産まれて間もなく人間の都合で母親から引き離され、病気にかかり、結局誰にも買われずに、またこちら側の都合で戻されてしまうなんて。  俺は唇を痛いほど噛みしめ、母犬と仔犬の気持ちを勝手に想像して目尻を拭った。  いつだったか、彰久が言っていたあの台詞。  ――お前じゃとても生体は務まらねえよ。  それは、こういう意味だったのだ。苦しそうに伏せている仔犬を見て、あまりのショックに何も言葉が出てこない。俺が知らないだけで、彰久や生体売場のスタッフ達は今まで何度となくこういう場面に対峙してきたのだろう。  胸の中がざわついて感情の収集がつかなくなる。  俺には耐えられない。苦しむ仔犬をただ見守ることしかできないなんて、耐えられない。 「死んじゃうんですか」  声を詰まらせながら泣いている女子スタッフを見て、彰久が眉間に皺を寄せる。 「こんなことでいちいち泣いてたら、この先やっていけねえぞ。奥で顔洗ってこい」 「で、でも。だって、私が早く報告しなかったせいで」 「誰のせいでもねえ。……怒鳴って悪かった。泣くな」  彰久が立ち上がりかけたその時、レジカウンターから相馬副店長が飛んで来た。 「彰久さん。獣医に連絡したんですけど、電車が事故で遅れていて……早くても十一頃になるそうです。なるべく急ぐけど、あと、一時間くらい……」 「一時間も放置しろってことか」 「でも待つしかないです。俺達じゃどうにもできないじゃないですか。もう開店時間だし、辛いけど……どうにも」  ベテランスタッフの相馬副店長ですら目を潤ませている。  他のスタッフもそうだ。皆辛そうに顔を顰め、それでもどうにもならないことを知っていて、箱の中で苦しんでいる生後二カ月の仔犬を気にしながらも、通常業務に戻って行く。  彼らは今まで、そしてこれから、何度こんな思いを経験することだろうか。 「彰久」  そんな彼らを眺めているうちに、いつの間にか胸のざわめきは止まっていた。残ったのは不思議なほどに落ち着いた心、そして、無意識のうちの決断だけだった。 「俺、そのチワワ買うよ」  振り返り、俺を見上げた彰久の目が倍ほどに見開かれる。他のスタッフも、ぎょっとした表情で俺を見ている。 「何言ってんだ、伊吹」 「俺が買って、それで俺が面倒見る。病院に連れて行って、世話する」  彰久が溜息をつきながら立ち上がり、俺の強張った顔を覗き込んで言った。 「お前、勝手なこと言うな。病気だと分かってる生体を売れる訳ないだろうが」 「だって、このまま放置しとく訳にいかないじゃないか。いくらかかり易い病気だからって、目の前でこんなに苦しんでるのに何もしてやれないなんて辛過ぎる」 「パルボの治療にどれくらい金かかるか知ってるのか。それ以前に、お前一人で面倒見れるのかよ」 「貯金で足りないなら借金すればいいし、仕事の日はペットシッター雇ってもいい。それから職場の近くにアパート借りて、休憩の度に帰って世話する」 「無茶苦茶なこと言ってんじゃねえぞ」  思い切り吐き捨てられたが、俺は表情を崩さなかった。じっと彰久の目を見据え、どうあっても決意が揺らがないことを無言で主張する。 「……クソッ」  彰久が眉根を寄せて目を閉じ、額に手をあてる。 「………」  そして――再び目を開く一瞬のうちに、恐らくは己の中でも覚悟を決めたのだ。 「聡、契約書と誓約書持ってこい。こいつは俺と伊吹が買って、これから俺らが病院に連れて行く」 「えっ? な、何言ってんですか彰久さん。そんなのできる訳が……」 「彰久……」  俺も周りのスタッフも、驚いて彰久に顔を向けた。 「パルボの発症は契約が終わった後、だ。いいな」 「彰久さん、でも……」 「早くしろっ!」  相馬副店長が涙に顔を歪ませ、弾かれたようにレジ棚の下から契約書を引ったくり、戻って来た。胸に差していたボールペンと一緒にそれを渡された彰久が、立てた膝の上で乱暴にいくつかの署名欄を埋めて行く。紙がひしゃげ、ペン先が沈んで穴があいた。 「店長、保険はどうしますか。2度目のワクチン注射は」  助からない場合を考慮しての相馬副店長の質問に、彰久が無言で首を振る。 「と、取り敢えず、適当に書いときます。後でどうにでもなりますから」 「店長、他の生体は今のところ問題ありません。元気すぎるくらい元気です」 「五番ケージの消毒終わりましたっ。備品も破棄、新しいのに取り替えました!」 「お客さん、来ます! 彰久店長、急いで、早く行ってください!」  彰久の顔が歪む。落涙しそうになるのを堪えている。そんな顔を見るのは初めてだった。  体の震えが、止まらない。  箱ごと仔犬を抱え上げた彰久が店から出る前、一瞬、俺の顔を見た。  ――餌も満足に食わして貰えていなかった。雨の日も炎天下でも、狭い庭に放置されていた。  ――汚くて、毛はぼさぼさで、ノミだらけで、歩くことすらできなくて。 「行くぞ、伊吹」  ――でももう何も心配要らない。今日から吹雪は、俺の家族だからな。 「っ……!」  俺は唇を噛んで頷いてから、彰久の後を全力で追いかけた。  もはや言い訳なんて一つも効かない。  俺は、彰久のことが好きだ。

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