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第14話

 初めてこの部屋を訪れたあの夜、まさか俺が彼を本気で好きになるなんて想像もしていなかった。ただ和真とのことで落ち込んでいて、彰久がそれほど悪い奴じゃなかったから、その場の雰囲気に流されて関係を持って。  一夜限りの関係だったなら、きっと今頃は彰久のことなんて忘れていた。例によって一人で悩み、また和真に傷付けられ、絶望を抱えきれずに今度こそ人生に見切りをつけていたかもしれない。  あの日、彰久に出会ったこと。彰久と同じ職場だったこと。彰久が俺を好きだと言ってくれたこと――。  全ては俺の運命だった。俺だけに与えられた、大切な機会だった。  始まりが運命でも、その後の展開は俺達次第だ。選択肢によって運命は明暗どちらにでも転がって行く。二人が同じ未来を見据えて歩き続けるためには、彰久だけの努力じゃどうにもならない。  差し伸べられた手を握るのは、恥ずかしいことじゃないんだ。 「……疲れただろ。悪かったな、付き合わせちまって」  彰久が床にあぐらをかき、背後のソファに寄り掛かって溜息をついた。俺もテーブルを挟んだ向かい側に座り、縮こまって首を振る。 「何だかもう、無我夢中で……」  あの後動物病院に駆け込んだ俺達は獣医から治療の説明を受け、入院手続きを終え、ついさっき彰久のマンションに戻ってきた。幸いにも病院は空いていて、予約無しでも無事に診てもらうことができたのだ。つい先日、パルボの仔犬が完治して元気に引き取られて行ったという獣医の話にも、少なからず希望を持つことができた。  パルボは恐ろしいウィルスでも、決して治らないものではない。乗り越えたなら、あの仔犬は今よりもっと強くなれる。 「テイ、大丈夫だったか?」 「また突然店離れちゃったから、かなり文句言われたけど。代わりに今度、燈司と休みのシフト変わるって言ったら喜んでた」  病院を出てからすぐ店に戻ることもできたのだが、俺達はそうしなかった。長く仔犬と接していたため、万が一でも他の生体にウィルスが感染しないようにという理由からだ。 「彰久の部屋、何か久し振りだな。あれからまだそんなに経ってないのに」  俺は敢えて仔犬のこと以外の話題を切り出した。今まで多くの「パルボで死亡した仔犬達」を目にしている彰久に、助かるだろうかとか、無事だといいけどとか、そんなことを気軽に言ってはいけないような気がしたからだ。だけど―― 「生きてる以上、必ず死ぬ時が来るってのは分かる」  彰久は俺の言葉に応えず、俯きがちに呟いた。 「だけど、あいつはまだ生後二カ月なんだ。いくら予測不能のウィルスだからって、……」 「………」 「今までだって何頭もパルボの仔犬を見てきた。だけど俺がしたのは獣医に診せて、上に報告して、それだけだ。俺にできることなんか何もねえ、これが仕事なんだから仕方ねえ、……いちいち泣いてたらキリがねえんだって、ずっと自分に言い聞かせてた」  立てた膝に額を押し付ける彰久を、俺は冷静に見つめていた。 「今回は伊吹が言い出したことにそのまま乗っかったけど、これで本当に良かったのか考えても分からねえ。今まで何もしてこなかったくせに、こっちの感情の都合で動いたところでもしも助からなかったら……あいつ、何のために産まれてきたのか分からねえよ。……まだ、たった二カ月しか生きてねえのに」  俺はしっかりと顔を上げ、思ったことをそのまま素直に口にした。 「彰久に抱かれるためだよ」 「え……?」 「今までの助からなかった仔犬のことで、彰久達が胸を痛めるのは仕方ないと思う。……だけど少なくともあの仔犬には、今は飼い主がいる。抱いてもらって、優しい言葉をかけてもらって、最善の方法で病院に連れて行ってもらえた。あいつは多分、彰久と会うために産まれてきたんだ」 「……だけど、始めに飼うって言い出したのはお前だろ」 「彰久が最終的に決断してくれたからだよ。もしあの場の責任者が彰久じゃなかったら、俺の言葉なんて普通に無視されてた」 「………」 「彰久、これが上にバレたら結構ヤバいことになるって分かってるんだろ。あの場にいたスタッフ達にも口裏合わせるように、共犯みたいなことさせて……自分は責任者失格だとか、思ってるんだろ」  彰久が顔を上げて俺を見た。その目はまるで、幼い子供が叱られて怯えているかのようだ。  あの青い瞳に、よく似ていた。 「それほど必死で、咄嗟の行動で、周りを巻き込んででもあの仔犬を助けたいって思ったんだろ。気付いたら体が動いてただけで、善悪の判断なんて二の次で……。彰久、俺に言ったじゃないか。自分がするべきだと思ったことは何でもしろって。善も偽善もない、いま自分にできることを頑張ればいいんだって」  言いながら、五年前の俺が目の前に蘇ってくるのを感じた。忍び足で庭に入り込み、切れた鎖を握りしめ、よろよろの体を気遣いながら、だけど極力急いで夜道を走った、あの日の俺が。 「……『ギン』は、今も俺の実家で大事にされてるよ。飯も良く食うし、散歩も毎日三時間はしてる。近所の人達からも可愛がられてて、おっとりしてるけど凄く頭がいい」 「伊吹……」 「彰久、あの家に住んでたんだろ。俺が『ギン』を連れて行ったこと、知ってたんだろ」  五年前。今の俺と同い年くらいだった当時の彰久は、あの夜の俺の行動を全て見ていた。周囲を見回してひと気がないのを確認しているところも、門から庭に忍び込んで小声で名前を呼んだところも、鎖を握って歩き出したところも、一度も「あの家」を振り返らなかったところも――全て、見ていたのだ。  だからこの五年間、彰久はずっと俺を探していた。 「……いつ、気付いた」 「分かんない。でも、今日の彰久の行動が、五年前の俺とダブッて見えて……」 「確かに、似てるかもな」 「ごめん。俺、謝って済むことじゃないと思うけど……どうしても、吹雪を……ギンを、助けたかった。彰久も知ってる通り、あの時のあいつは本当に……」  彰久が笑って、俺の方へと片手を伸ばした。頭に乗せられた手は普段と同じで温かく、大きく、俺を瞬時にして安心させてくれる。この手を失いたくないと思った。今度こそ、俺からもこの手を握り返そうと思った。 「ごめん、彰久……。ごめんなさい……」 「謝らなくていい、伊吹」  俺の頭から頬に、彰久の手が移動する。 「あの日、……ギンの鎖を小屋から外しておいたのは、俺なんだ」 「え……?」  潤んだ目を見開かせた俺の前で、彰久が静かに話し始めた。 「あの家に住んでいたのは、俺の親父だ。中学の頃に親が離婚して、俺は母親の方に引き取られた。母親の新しい男が用意していたアパートはペットが飼えなくて、ギンはあの家に置き去りにされたんだ。俺は子供で、いくら泣き叫んでもどうにもならなかった」 「………」 「隙を見てあの家に戻っては、ギンの世話をしていた。親父はアル中で犬の世話なんか死んでもしない奴だったからな。俺はそれから何年も、時間を空けてはあの家に戻っていた。……ある時、気付いたんだ。毎週決まった曜日の決まった時間に、ギンに餌をやりにくる中学生の存在にさ。ギンはそいつが現れるといつも嬉しがって、力の入らない足で必死に起き上がってた」 「声、かけてくれれば良かったのに……」 「あの時の俺は、色々と諦めてたんだ。母親の恋人と上手くいかなくて、そのせいで母親からも疎ましく思われるようになって、中学卒業と同時に家を追い出された。しばらく日雇いの仕事して、それだけじゃ足りなくて汚い仕事も散々経験して、何とか自立してギンを迎えに行こうと思った。でも……」 「………」 「台風の中、必死に車走らせて辿り着いたあの家の庭で……ギンは、俺を見ても立ち上がろうとしなかった。元々嗅覚が弱っていたところに、暴風雨で更に俺の匂いが分からなくなって、……俺を見て、怯えてた。抱えようとしても嫌がって暴れて、連れて行くことができなかった」  彰久の目が微かに潤んでいる。その瞳の中に映る俺の顔は、今ではどうしようもないほどぐしゃぐしゃになっていた。 「目の前のことに必死だった俺はそれがショックで、日を改めて迎えに行くという発想もできなかった。だから俺はその場でギンの鎖を外し、翌日やって来るはずの中学生に賭けたんだ。あの時のギンが俺よりも慕っていた、お前にな」 「あ、きひさ……」 「何の見返りもなくギンの世話をしていたお前は、掃き溜めみたいな世界を生きていた当時の俺にとって、……光そのものだった」  やり切れなくて、俺は何度もかぶりを振った。 「伊吹、お前は勇気があるだろう。あの時ギンを救えたお前に、自分のことを簡単に諦めるような真似をしてほしくねえんだ。ギンはお前が差し伸べた手を素直に受け取った。お前について行きたかったんだ。あれだけ酷い目に遭っていても、生きることに必死になっていたんだ」 「彰久。お、俺は……」 「今度は俺がお前を救う。……だから俺は、ここに来た」  ゆっくりと、俺の頬から彰久の手が離れて行く。その優しい温もりが残った頬を温かな涙が滑り落ち、俺の胸の中へと静かに浸透して行く。 「ずっと探してた」 「彰久……」 「お前こそ、俺の運命の相手だ」  離れた彰久の手を思わず握りしめると、彰久がそのまま片手で俺を引き寄せた。テーブルの上で重なった唇。涙の味がして、切なくなる。 「彰久……」  微かな吐息と共に唇が離れた後、俺は彰久の瞳を見つめて言った。 「――好きだよ」 「伊吹」 「俺の傍に、ずっと、……居て欲しい……」  やっと言えた。やっと伝えることができた。  嘘偽りのない俺の素直な気持ちを、彰久本人に――やっと。 「俺も好き。凄げえ好き。……五年前からずっと、お前しかいないって思ってた」  頭を抱きしめられ、そのまま更に引き寄せられ、俺はテーブルに膝を乗せて身を乗り出し、彰久を強く抱きしめ返した。 「でも、どうしてそれなら初めから言ってくれなかったんだ。そしたら俺、もっと早く彰久のこと好きになってたかもしれないのに……」  立ち上がった彰久が、テーブルに両膝をついた俺の脇に腕を入れ、抱き上げながら言う。 「初めて店で会った時はテイに邪魔されて、その後この部屋に連れて来た時には恋人のこと愚痴られて、その翌日からは嫌われて……タイミングを逃し続けた結果が、これだ」 「ああ……」 「でも俺は結果的にこれで良かったと思ってる。早めに暴露したって、伊吹が確実に俺を好きになるとは限らねえだろ」  軽々と俺を抱えた彰久が、そのままリビングを出て寝室へと向かう。初めて入る彰久の寝室は、脱ぎ散らかした服や外した腕時計などが散乱していてあまり綺麗とは言えなかった。  その部屋の片隅に、彰久が前に買ったネックレスヘッドの箱がある。 「あれって、ギンにあげるつもりで買ったんだろ」 「ギンじゃねえよ、吹雪にだ。あれ買った日、あいつの誕生日だったからさ。……日付と、俺とお前の名前、刻印してもらった」  柄にもなく照れ臭そうに笑いながら、彰久が俺をベッドに寝かせる。 「それともう一つ、店でお前に見せたハスキーの写真」 「あれって、吹雪が仔犬の頃の写真?」  目を輝かせた俺に向かって、彰久が満足げに頷く。 「み、見たい。もう一回、見せて」 「何冊もアルバムになってんだ、後でゆっくり見せてやる」  上から彰久に圧迫され、柔らかなベッドに身体が沈んで行く。心地好く優しい感触に、俺は目を閉じて小さく息をついた。 「彰久。……あいつ、助かるよな……」 「助かるに決まってる。俺達全員が協力し合ったのに、助からない訳がねえ」  彰久が言えば、きっと何でもその通りになる。もう俺の目の前には、不安や絶望なんてものは無い。これからはずっと彰久の隣で、二人で同じ方向を向いて歩き続けるんだ。 「ん、……」  重なった唇と身体が、手のひら、指先が……ゆっくりと熱を持ち始める。熱くなるのは互いを想い合っているからだ。心と心の重なりが、身体にまで伝わってくるからだ。  触れるのは身体でも、感じ合っているのはその先にある心なんだろう。だから人は皆、好きになった相手とセックスがしたくなる。それは単なる性欲じゃなくて、きっと、心と心で触れ合い、感じ合いたいからだ。  だから俺は極力目を瞑らず、彰久の、俺を見つめる優しい瞳をじっと見つめ返した。身体と、心と、視線と。これだけ繋がり合えば、もう解れることはない。  彰久の左腕が背中に回され、身体ごと強く抱き寄せられた。身動きが取れなくなった状態で、ゆっくりとシャツを捲られる。 「まだ恥ずかしいか」 「平気。彰久は……?」 「俺はちょっと照れ臭い」  ほんの少しだけ笑いながら、俺達は互いを強く抱きしめ合った。 「ん、ぅ……」  彰久の唇が顎に触れ、喉から首筋へと降りてくる。ジーンズの中に入ってきた手に腰から脚の付け根を撫で回され、俺は眉根を寄せて彰久を見上げた。 「心臓が早くなってる」  俺の胸元に頬を当てながら、彰久が更に中へと手を押し込んできた。 「あっ、……」  握られた感触に思わず身体が震える。顔を背けようとして、だけど俺は彰久の目を見つめ続けた。 「好きだぜ、その目。凄げえ熱くなる」 「っ……」  彰久の低い声が耳の中で渦を巻く。それが果てしない快楽となり、震えとなって俺の身体を包み込む。 「んっ、く……。あ、あっ……」  握られたそれが彰久の手の中でどんどん熱くなって行く。膝まで落ちたジーンズが脚に纏わりついて、まるで縛られているみたいだ。 「彰久、……俺、さ……」  だけど怖くない。和真の時と違って、相手が彰久なら少しも怖くなんかない。 「俺、また彰久にこうして……自分の身体、触れてもらえて……幸せだよ」 「伊吹……」 「あのまま和馬に引き摺られてたら、もう二度と彰久と抱き合えなかった……。自分の気持ち押し殺して、彰久のことも俺自身のことも……裏切ってた」  首に回した両腕で、これ以上ないほどに強く、彰久を抱きしめる。 「彰久が救ってくれたんだ。初めてこの部屋で触れ合った時から……彰久が俺を導いて、救ってくれたんだっ……」  そうなんだ。  彰久と出会わなかったら、今の俺は存在していなかった。和馬のことだけじゃない。仕事も今ほど好きにならなかったかもしれないし、燈司と理解を深め合うこともできなかった。  自分と向き合うこと。誰かの力を借りること。間違ったやり方でも正しい場合があること。  彰久と出会わなければ何も知らず、気付こうともせず、ただ一日を終えて眠るだけの毎日を繰り返すだけの人生になっていたかもしれない。  俺は彰久に会えた。自分を変える機会に恵まれた。  この機会は、もう絶対に放したりしない。 「先に救ってくれたのはお前の方だ。伊吹、ありがとうな」  不敵に笑って、彰久が熱くなった俺の目蓋に唇を押し付ける。

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