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第1話

 そういう話が、創作物の中ではよくある展開だということは知っていた。  なんだかんだでそこから恋物語が始まる、恋愛物の定番導入。いや、定番は言い過ぎかもしれないけれど、とにかく俺が知っているくらいにはよくある話ではある。  でもそれは当然物語の中の話で、それを読む女の子たちのもので、俺には関係ないものだと思っていた。  まさかそれがそっくりそのまま自分の身に降りかかるなんて、当然思わずにいた。  今日、今、この時までは。 「……」  絶句する、とは今まさにこの状態で使うべき言葉だと思う。なにも言葉が出てこない。  いや、言いたいことは様々にある。むしろありすぎるくらいだ。だけどあまりにありすぎて、逆に声が出なかった。  頭が痛い。二つの意味で。  一つは、このことの原因だろう酒の飲み過ぎ、二日酔いによる物理的な頭の痛み。  そしてもう一つは、このとんでもない状況に対する精神的な頭痛だ。  頭を押さえ、もう一度ゆっくりと肩越しに窺ってみても、やっぱりそこにある背中は消えない。  知らない部屋、脱ぎ散らかした服、乱れたベッドに寝ていた俺は全裸で、もう一人明らかになにも着ていない人物がそこに寝ている。  卯月(うづき)春海(はるみ)、二十八歳。  よく名前がアイドルでもしてそうな女の子みたいだと言われるけれど、本人はただののっぽの男だ。がっかりされるのは慣れているけれど、残念ながら女でもなければ可愛らしい女顔でもないのが事実。そんな一般的なサラリーマン。  年齢に対して経験豊富とはとても言えないけれど、そんな俺だってさすがにこんなあからさまな状況を用意されれば、昨日なにがあったかは察する。  それは、まだいい。  営業という職種上、酒を飲むのは仕事みたいなものだから、それで鍛えられたおかげで割と酒には強い方だと思っている。けれど、気づいたら自分の家の玄関で寝ていたということもあるし、いつかはこういう失敗をやらかしてしまう可能性はあった。  だから今切迫している問題はそれ自体じゃない。さしあたっての問題は、そこに寝ているのが知らない人間じゃないこと、だ。  日野(ひの)夏彦(なつひこ)。  うちの会社に来ているバイトで、雑用だったり手が足りていない社員の手伝いだったり、ともかくそういうのを仕事としている知った顔の大学生。  バイトする場所を間違っているんじゃないかと思うほどいかにもモテそうなイケメンだけど、いつも不機嫌そうな顔で目が合うたび睨まれているような気がするし、あまり喋らないせいでパーソナリティがわかりづらく年下でも苦手なタイプ。  なにより、その名前からわかるとおり、日野は男だ。そして当然俺も男だ。それなのになんでこんな状況にいるのか、まったくわからない。わかるから、わからない。  大して話したこともない大学生が今、そこで裸で寝ている。すやすやと気持ちよさそうに熟睡している姿は、完全にいい運動をし終えた男の姿だ。  対して俺は、さっきからあらぬところの痛みに顔をしかめている始末。  ……逃げていても仕方がない。この際はっきりと認めよう。明らかに、俺が「された方」だ。  断っておくけれど、俺には断じてそんな趣味はない。二度重ねて否定するほどにそんな趣味はない。だけど現実は俺の嗜好を易々と裏切ってくれた。  本当に、頭が痛い。いつもはどれだけ飲んでもここまでひどい二日酔いは起きないのに、気分と相まってくらくらする。  ともかく今は一刻も早くここを立ち去ろうと脱ぎ捨てられた服を掻き集め、適当に身につける。どこに落ちているのかネクタイがないけれど、この際もうどうでもいい。  ……こういう状況をなにかで見るたび、「逃げ出すから面倒なことになるのであって、その場でちゃんと説明を求めて話し合えばいいのに」と思っていたが、とてもじゃないがそんな気にはなれない。あれは俯瞰で客観だからこそ冷静に思える「よくある話」なのであって、初めて当事者としてそれを体験する俺からしたらとてもじゃないが冷静な判断なんてできない。  とにかく早くこの場から抜け出したい。それだけだ。 「ん……? あれ、早いっすね。……って、なに急いで着替えて」  その時、もぞりと衣擦れの音がして寝ぼけた日野の声がした。びくりと体が震え、思わず手にしていた靴下を取り落とす。それを履いている時間さえもどかしくて、片方だけをポケットに突っ込んで、さっさと玄関に向かった。  狭い玄関にごちゃごちゃとスニーカーが置かれていて、その中にある俺の革靴だけが明らかに浮いている。そこで今さらながらやっと、ここが日野の家なんだと言うことに気づいた。  酔っ払って日野の家に来た。その事実が現実感を持って目の前に現れてぞっとした。  沸き上がってきたなんとも言えない不安感から逃れるように慌てて靴を履いた瞬間、意識したくない痛みが腰元までかけ上がってきて呻きそうになる。 「……卯月さん?」  なにも言わずに帰ろうとする俺に、さすがにおかしく思ったんだろう。訝し気に名前を呼ぶその声に、けれど振り返りもせずにドアを開けた。眩しい朝陽が目に痛い。 「ちょっ、卯月さん!」  後ろから慌てて飛び起きる音がしたけれど、なにも身につけていないせいですぐには追いかけてはこれないだろう。  バタンと勢いよく閉まったドアを背に、知らず知らずのうちに深いため息が漏れた。

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