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第2話

 そもそもの発端は、日野に飲みに誘われたことだった。 「卯月さん、この後空いてますか? 一緒に飲みに行きたいんですけど」 「俺?」  仕事終わりにそう声をかけられ、単純に珍しいなと思った。  外回りの多い俺たちには頼みづらい分、足りない男手を補ってくれる上にその若さと容姿で女性陣に人気の日野と、営業職であり基本的に外に出ている俺はそれほど接点がない。だからそれとなく距離があって、正反対のタイプだろう俺を苦手にしているかと思っていたから、それは予想外の誘いだった。それでもこんな風に直接誘われれば断る理由はない。バイトくんにだって、なにか飲みたい日があるだろう。 「いいよ、別に。誰誘う? 誰か年の近い奴が……」 「あの、卯月さんと二人で飲みたいんですけど」 「俺と二人で?」  確か日野はハタチだか二十一くらいだと聞いたから、それなりに年の離れた俺よりも同じくらいの年の奴がいた方が楽かと思ったのに。  ほんの少しだけ訝しんだけれど、すぐに思い直した。その表情や言い方からして、なにか訳ありな相談だろうと思ったから。だから二人きりで話したいのかと。  頼りがいのありそうな厚い胸板とだらしない一歩手前の服に緩いパーマのかかったこげ茶の髪でいい具合に大学生活を謳歌しているのだろう、そんな見た目の日野。  それとは正反対に、特徴と言われれば「背が高いこと」「真面目そう」「完璧な営業スマイル」というくらいの、地味でいたって普通の営業マンが俺。  そんな俺が日野の相談相手として適任かと言えば自分でも首を傾げるところだったけど、せっかく相手に選んでくれたんだからとその申し出を了承した。誰であれ、人に頼られるのは悪いものじゃない。  そんな風にして二人で居酒屋に行って、なにかを考え込んでいる風の日野の口を軽くさせるためにひたすら飲んで……そこから記憶がない。  かなり酔ったんだろうってことは覚えている限りの酒の量からでも推測出来るけど、なにがどうなってこんな結果になったのか、さっぱり見当がつかなかった。  片方の靴下をポケットに突っ込んだまま、ネクタイもせずに知らない電車に乗っていると、なんだか自分が世の中からずれた存在になってしまった気がした。  充電が死にかけているスマホで調べたところ、どうやら距離的には家からそう離れていないようで、幸い駅もすぐに見つかった。それでもあまり乗り慣れない路線に乗って家に帰るのはとてもおかしな感じで。  取って返すように仕事に出なきゃいけない時間だとしても、とにかくシャワーを浴びてさっぱりしたかった。幸いそれぐらいの時間は許されそうな余裕はあるし、朝一番の衝撃のせいで眠気は吹っ飛んで少しも残っていない。  正直、このまま休んでしまいたい。有給はまだ残っているし、こんな動揺しまくっている状態で行ってもまともな仕事はできないんじゃないだろうかと思う。  なにより会社に行けば日野と会うことになる。今日は確か朝からいるんじゃなかったっけ? いや昼からだったかもしれない。休みということはないはずだ。それぐらい細かいスケジュールを知らない相手だけど、それでもまったく会わないというわけにはいくまい。あんな風に一緒に朝を迎えた相手とどんな顔をして会えばいいのか、そんな知識は俺の中にないというのに。  ……ただ、だからといって今日一日休んだところでどうにかなる問題ではないし、家にいても悩むか悶えるかしかできないのなら仕事に励んだ方がいい。少なくともその方が余計なことを考える時間は減りそうだから。  ともかく家に着くなりスーツ以外の全部の服を洗濯機に突っ込んで、シャワーで頭の先から足の先まで洗い倒した。 「……よりにもよって、バイトの男と寝るとか。しかもなんで俺がされてんの……」  案の定というかなんというか、シャワーをかぶってもさっぱりはできず、嫌でも意識してしまう鈍い痛みにため息をつく。  酔っ払って大学生の家にお持ち帰りされるのもどうかと思うし、なによりどうして俺が受け身なんだ。あらぬ場所がひりひりするし、違和感がすごくていまいち考え事にも集中できない。だからその点だけは記憶がなくて幸いと言える。どうしてそうなったかまで覚えていないのはどうかと思うけど。  無理やり襲われたという説を推したくても、さすがに家にまで行っておいてそれはない。たとえ俺が酔い潰れたからといって、身長がある分強引に抱えていくのは難しいだろうし、それならば俺が歩いていったのだろう。少なくともあの服の散らばり方は脱がされたというより脱ぎ散らかしたという感じだった。 「頭イタ……」  色んな意味で頭痛がする。  食欲はなかったから、ゼリー飲料と胃薬と頭痛薬を朝食とした。そして気合を入れて改めて出社。ネクタイはなくしたものとあえて同じような色にした。いやむしろ俺はこの色をこれしか持っていない。最初からこれ一つだったはずだ。なにもなくしていない。大事なものはなにも。  そんなどうでもいい思い込みくらいじゃ気持ちの整理はつかないけれど、それでも酒のせいということで言い訳はできる。俺だって大学時代は酒で失敗したこともあるし、新入社員の頃だってやらかしたことがないとは言えない。  この年になって、しかもやらかし方と相手がとても悪かったけれど、それでもこの場合飲酒する時は強い気持ちで自制するという手で反省を生かすことはできる。営業という仕事上飲み会を避けることはできないけれど、この過ちを思い出せば嫌でも飲む気は失せるし酔いも醒める。  ……日野も、たぶん飲み慣れない相手との酒の席で飲みすぎたんだろうし、つまりああなったのも酔っ払ってのノリだったんだろう。大学生なんてよくわからない無茶をするための時期だ。特に日野みたいなお持ち帰りをよくしてそうな男からしたら、多くのうちの一回でたまたまそこにいたのが俺だったってだけで。……というのはさすがに偏見がひどいけれど。  ともかくこういうことはなかったことにするのが一番お互いのためだと思う。酔っ払っての失態は、反省はしても引きずらない方がいいに決まってる。よし、それでいこう。  そうやって方針を決めたと同時に会社に着き、まだ日野の姿がないことを確認してほっとしてから、気持ちよくかつ素早く外回りできるようにメールチェック等々のデスク仕事を済ませておくことにした。午前中に外に出る仕事が入っていて良かった。  大体、元から話そうと思わなければ日野との接点はほとんどないのだから、いつも通り仕事をしていれば二人きりで顔を合わすことなんてないんだ。

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