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第3話
実際問題いつものようにやってきた日野はやっぱりいつも通り用意された自分のデスクで淡々と仕事をこなしていて、表面上は変わった点はなかった。いや、細かな変わりがわかるほど知りはしないけど。たぶん朝になって酔いが醒めて、よくある過ちだと納得したんだろう。
ただ何度か話しかけてきそうなそぶりはあったから、それだけはさり気なくかつ必死で避けた。
その結果、午前中を終えただけでぐったりと疲れ切った俺は、社食もいつものソバ屋もラーメン屋も避けて、近くの公園でコンビニ飯でランチをすることになった。
噴水があり緑が多いからか、親子連れやランチを食べるOLやぼんやりと缶コーヒーを傾けているサラリーマンがちらほらといて、天気がいいことも相まってとてものどかな雰囲気に疲れた心が癒される。
「……は?」
だけどその束の間の平和は、鳴り出した電話の音に破られた。
そこに見えた名前に思わず舌打ちをしそうになる。
表示された名前は「日野夏彦」。どうやらいつの間にか俺たちはしっかり連絡先を交換していたらしい。
なかったことにすると決めた相手だしひたすら無視してやろうかとも思ったけれど、そんなことしても意味がないことはわかっていたからかなりの間鳴らしっぱなしにした後、渋々通話ボタンを押した。
「……はい」
『もしかして俺、避けられてます?』
開口一番、相手は窺うようにそう問いかけてきた。今時の若者は名乗りもしないのか。
「そりゃ目覚めがとんでもなかったからね」
『もしかして卯月さんって、みそ汁の匂いで起こされたい人?』
大学生のジョークは突発的で意味が掴めなくてため息が洩れる。まさか俺が慌てて出て行った理由が、朝食が用意されていなかったからだなんて本気で思っているわけではないだろう。からかわれているんだろうか。
『ちょっと話したいんですけど。今どこにいます?』
「話したくないから教えない」
『そんな子どもみたいな……』
やっぱりそう来るか、と思いつつ素直な気持ちを口にすれば、電話の向こうで呆れられた。なんだそのやれやれと肩をすくめているような声音は。十近く年上の俺に向かって、まるで自分の方が大人かのような態度。子どもは君だろうに。
『ていうか、俺と会わないって、無理だと思いますよ』
ため息交じりのその言い方は妙に自信ありげで、言い返そうとした言葉を飲み込み思わず口を閉じる。
そりゃ同じオフィスで働いているんだ。顔を合わせないわけにはいかない。話しかけられてしまえば、あからさまに無視し続けるわけにもいかない。……でも、日野が言っているのはそういうことではなかった。
『卯月さんの忘れ物、俺持ってるんで』
「ああ、ネクタイでしょ? 別にいいよ。なんならあげる」
見つからなかったネクタイは、忘れたというよりかは捨ててきたようなものだ。
いつもラフな格好のバイトくんだって、そのうちネクタイがいるようになるだろう。それをするたび昨日の夜のことを思い出すのも勘弁だし、だから好きにしてくれていいと終わりにするつもりだった、のに。
『ネクタイもそうですけど、それよりも、時計』
「……あ」
『忘れていったでしょ? これも貰っちゃっていいんですか?』
そういえば。
色々なものがすっぽ抜けていて気付いていなかったけれど、今さらながら左手が軽い。そうだよ。腕時計がないじゃないか。でかい仕事を乗り切った時にご褒美に買った、少々お高めのお気に入りの時計。それを朝、した覚えがない。もちろんここにもない。
『戻ってきてから渡しましょうか? 俺は別に、会社で話してもいいですから』
それを買った時に、浮かれて周りに聞かれるがまま答えて見せびらかした時計だから、そんなものをどうして忘れたのか、どうやって忘れたのかを勘繰られたらとても困る。
だからそれが決定打。
俺は渋々と日野に自分の居場所を伝え、平和な昼休みの終わりを嘆いたのだった。
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