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一、六月一日

 昔から「住めば都」なんて言葉は有るけど、流石に「都」は言い過ぎだと思う。それでも、俺はこの小さな柳瀬(やなせ)村を気に入っていた。来るまでは山奥の田舎だとしか聞いていなかったけど、来てみれば存外広い。  山の中を縫うように張り巡らされた小道の先には、ひっそりと老人達が住んでいる。最初は自転車で、と思っていたが、とてもこんな山道だらけの場所では体力がもたないので、すぐに原付を購入する事になった。  柳瀬村は人口二千人ほどの小さな村だ。山奥のまた山奥にあるものだから、交通機関は一日三本の町営バスのみ。住人はその大半が高齢者。国道はやたら立派だが、ど真ん中で猫がそしらぬ顔で昼寝などしている。国道を離れて小道に入ると、森と田畑が世界の全てになる。  風に揺れる木の葉の音や、稲のゆらりとした波が心地良くて、来たばかりの頃は思わず深呼吸をして、ぼうっと空を眺めた事も有る。空はとんでもなく澄んで青い。夜は、満点の星空で満ちる。天の川さえ見えたし、夏は蛍も舞った。都会ではなかなか味わえない静けさと、ゆったりとした時間が過ぎて行く、そんな世界。  俺――橘翼(たちばなつばさ)――がここに引っ越して来た理由は、まあ様々有る。この無医村に医者として就任しする事で、単に評価されたかった、というのも無いでもない。ただ、そこに至るまでの気持ちも理由も様々だ。  子供の頃から平凡そのもので、いつだって俺は上から三番目ぐらいだった。なにしろ三人兄弟の末っ子でもあったし。叱られる事も無いが、誉められるわけでもない。両親にもほったらかされていいたし、飛び抜けて良いわけでも悪いわけでもなく、とても平均的で、何も誇れる事が無かった。例えば人より頭が良いとか、スポーツが出来るとか、優しいとか、憎たらしいとか、とにかくそういうステータスに無縁だと、今でも思っている。  俺の事をイケメンだと言ってくれる人もありがたい事に居るけれど、鏡で見ても自分ではそうは思わない。身長は一七二センチ、太ってもいないし、痩せているというほどでもない。肌も白いわけでなし、焼けているわけでなし。一応、二重瞼で、優しそうな垂れ目だとは言われるが、眠そうにも見える。黒い髪は短めに揃えているし、何もかもが普通だ。医者という職業柄、清潔感と笑顔には気をつけてはいる。だけど、それは仕事だからだ。  医者になれたんだから、頭が良いという人もいる。でも、医者はこの国に何千人と居る。なら別に特別な事じゃない。唯一手術出来るスーパードクターとか、そういうのでもない。だから普通なんだ。そういう事を言うと怒る人も多いけど、それでもこれは俺の気持ちなんだから仕方がない。とにかく、俺はこの年になっても自信って物があまり無かった。  そんな俺だから、自分の事だってそんなに好きじゃない。今までそれなりの時間を、色々やって生きて来たとは思う。柔道もやったし、ピアノもやった。人と上手く話せるように、そういう講座に通った事もある。けど、それが役に立ったともあまり思えない。  医者として成功したかといえばそんな事も無い。この小さな村で、皆に優しくされながら診療をするのは幸せな事だ。でも、それがこの村にとって同じぐらい良い事なのか、自信が無い。医者なんて星の数ほど居る。俺でなくたって、橘翼っていう人間でなくたっていいんじゃないか、といつも思う。  それでも俺には夢が有った。  子供の頃に高熱を出した事が有る。今なら感染症だと判るが、まだ何も知らない子供だった俺は、このまま死ぬんじゃないかと不安で涙を流しながら、熱に浮かされていたものだ。けれど、そんな風に苦しんでいた時、当時の担当医が投薬ですっかり治してくれた。辛かったのが嘘みたいに楽になって、安心していた時に、その医者は俺の頭を撫でて、笑顔で言ったんだ。 「辛かったろう、よく我慢したね、もう大丈夫だよ」  その言葉が俺にはとても嬉しくて、もうわんわん泣いた。それで俺も、そういう医者になりたいと思った。人の心をも救えるような医者に。実際医者にはなれたが、果たして自分が患者に対してそういう医者になれているかというと、そうではなかった。  街の大きな病院に勤務している頃は、もう患者が多すぎて一人一人を大事に診るなんて余裕は無い。だから俺は、普通の医者だったと思う。とりあえず点滴を打って抗生物質を出して、それでもダメなら検査をして、もっと大きな病院への紹介状を書く。そういう医者だった。  そしてそれは俺が夢見ていた医者なんかじゃない、と最近気が付いた。それでなんとかしなければと思っているところに、この柳瀬村への紹介が来て、二つ返事で飛び付いたのだ。俺はあまり行動力が無いほうなのに、こうしてたった一人、この村の小さな診療所で医者をしているあたり、よほど思いつめていたのだろうな、と他人事のように思ったりもする。  それでもここに来て一年になるが、来てよかったと思っている。ここでは俺は求められていた。それに、一人一人を診る事が出来る。小さな診療所だし、手術なんかは出来ないけど、それでも風邪やら捻挫やら、そういう事で大きな病院まで行くのは嫌だという老人達は俺の所に来てくれた。あれこれして治すと、彼らは笑顔でありがとうと言ってくれる。それがたまらなく達成感が有った。よそ者は歓迎されないかと思ったが、あまりそういう事も無くて、本当にいい事づくしだ。  ただまあ困った患者も居る。毎日やって来ては同じ話しかしないお爺さんや、その辺の草を食べて食あたりを起こす人や、この村では少数派な、俺の事を余所者と言って毛嫌いしている一族など。問題が無いわけではないが、この村での生活は恵まれている、と思う。  そんな俺の前に、そいつが現れたのは、六月一日の夜の事だった。  +  山のほとり、古いコンクリートの道と、本当に小さな小川。少し山に入ったひっそりとした道の行き止まり。そこに俺の仕事場であり、住居である、古い平屋が有る。  きっと前の持ち主はこの家を大事にしたんだろう、長く空き家だったらしいけれど、そんなに傷んではいなかったから、修繕費は少なくて済んだ。そこそこ手入れされた生垣に囲まれた、昔ながらの日本家屋で、庭には草一本無い。来てくれた患者さん達が手入れしてくれているらしい。ありがたい話だ。  元はガレージだったらしい小部屋を改造しただけの診療所は狭い。勝手口を兼ねた入り口を入ると中は六畳間で、ベッドに机に椅子に、と並べてある。後はもう人が、二、三人入るだけでいっぱいだ。待合室などは無くて、家の外、いわゆる縁側に患者達は座って待っていたりする。調子の悪い人は優先で通すように、どうやら患者同士の間で取り決めているようだった。  ともかく、営業時間は朝の六時から大体一八時程度だ。急患なり世間話の老人がやってくるなりで、しばらくは開けている。が、二十時も過ぎればよほどでなければ誰も来ない。その間に一日の片付けなどをして、二一時には勝手口を閉める。夜中にも急患が有れば診るが、それは自宅側から来てもらうようにしていた。  その日も俺は、診察という名目で愚痴を言いに来たり、もう十回以上同じ話をしてくれる老人達を診た。特に大きな病気なども無く平穏な一日が過ぎた。それはいい事だ。それでも時折は忙しくなったりもするので、そういう時に助手が居ればな、と思うけど、こう患者が少ないと給金を払うのもままならないし、贅沢は言えない。ともかく、その夜も診察の時間を終えて、診療所を閉めようとしていた。  六月に入って、早速梅雨が来ましたよとばかり、雨がしとしと降っていた。診療所は他の家からは離れた所にあるから、外はただただ真っ暗だ。びゅう、と風が吹く。住みよい場所だとは思っているが、流石に夜は少々薄気味悪い。さて鍵をかけて家に戻ろうと思っていると、ノックの音がする。  こんな時間に人が来るのは珍しい。急患だろうか。振り返って、俺は硬直した。  狐。縁日なんかで売っている、白い狐の面をした人間が、ドアを開けて入って来た。真っ赤な布で全身をすっぽり覆い隠していて、性別も判らない。ただ、俺よりは少し背が低く、華奢な体格のようには見えた。 「あの……どなた様でしょうか?」  内心ドン引きしながら問うと、狐面は問い返した。 『橘様でございますね?』 「あ、はぁ、そうですが……」  声は男だ。ただ、聞いた事が無い声だった。 『おめでとうございます。貴方様はこの村の『御子』に選ばれました。橘様におかれましては、この村の住人ではございませんので、僭越ながらこの『託宣の魔法使い』キツネめが、御子の仕事についての説明に上がりました』 「いや、あの、ま、待って下さい、その……少しも意味が判らないんだけど……」  この変質者が何を言っているのか判らず困惑していると、狐は『一つずつ説明致しましょう』と頭を下げた。 『この村には沢山のしきたりがございます。普段はそれらはもう重要視されておりませんが、この、三年に一度の村長選びともなれば、話が変わって来るのでございます』 「へ、へえ? 今年は村長の選挙でも有るんですか?」 『選挙、とは少し違います。もちろん、そのような形で訴えても良いですが……。この村では、村長の位は、この村を守る龍神様から賜るものなのです』 「……ハァ」  まるで昭和かお伽の国の話だ。意味が判らない。村人が変装して俺をからかっているのか、それとも本当に気を病んでいるのか、判別しかねた。 「えーと、それで? 託宣の魔法使いとか、御子とかってのは……」 『龍神様はこの村に一二人の使徒を選びます。それらは龍神様より神通力の一部を賜り、この村を龍神様の代わりに守護し、同時に龍神様のお言葉を授かります。我ら一二人は、この村では『魔法使い』と呼ばれております』 「えっと……だから……、魔法使いのキツネさんが、何か龍神様から、託宣をもらった、って事ですか?」 『はい。三年に一度の村長を決める、大切な御子の存在は、ただ一人、その時に最も弱い魔法使いにのみ教えられるのです。それが今回は私、『赤のキツネ』めでございます』 「……」  見た目と言動ばかりではない。ネーミングセンスも、とても危険だ。 「……その。……『赤のキツネ』……さん?」 『はい』 「……アレ、なのかな? 緑のタヌキとかもいるんですかね?」 『おや、よくお判りで。タヌキ様のお名前は聞き慣れないので、緑とは判りにくいのですが……』 「あ、そう、なんだ、ホントに緑なんだ、へー……」  手の込んだ冗談だ。これで黒のブタなんかもいたら、完全にアウトだろう。ガリガリと頭を掻いて、溜息を吐く。そういえば呪い師だかなんだかがこの村には居ると聞いたような気がする。彼らに治してもらうから医者にはかからないとゴネていた老人もいた。今でも田舎にはそういう人間が居たりすると聞いた事は有るけど、この胡散臭いのが、それなんだろうか。 「で……つまり、神様が今回の村長選びの御子に、俺を選んで……それで? 御子は何をするんですか?」 『御子は村長を選びます。ただし、事実関係が成立すると、そこで契約が完了してしまうのが、困りものなのです』 「事実関係?」 『よろしいですか。心を静かにして聞いてください。村長になるのは、これから一か月以内に、貴方と性的関係を作った最初の人間、です。男女は問いません』 「……え?」 『逆に言えば、これから一か月、貴方様は村長の位を望まぬ者と契ってはいけません。そして村長の位を求める者には、狙われる事になります』 「ちょ、ちょっ、ちょ、あの、よくわからな……」 『女は貴方の腰に跨ろうとして、男は貴方のケツにぶちこもうとするでしょう』 「ちょ、あ、貴方、穏やかにおっかない事言わないで下さいよ!」 『小奇麗に言っても、する事は同じですから』  上品な雰囲気で丁寧に喋っていたのに、いきなり下品になって驚いた。しかも開き直られた。もうわけが判らない。これは壮大なセクハラなのか? 「いやあの……本気で言ってるんです? キツネさん」 『私はずっと本気ですが』 「はぁ……その、つまり……俺と夜の関係になった最初の一人が、次期村長?」 『ご理解頂けてなによりです。そして、現時点で貴方が御子だと知っているのは、私だけです』 「……じゃ、じゃあ、その……あ、貴方に、襲われたりするんです、か?」  思わず後ずさったが、キツネは「いいえ」とあっさり首を振る。 『私は村長になんてなりたくありませんから。貴方をぶち犯したりはしません』 「あの……もうちょっと言葉遣いに……」  指摘してみたが、見事にスルーされた。 『ですが、他の魔法使いは違います。御子が決まったとあれば、必死で探すでしょう』 「ど、どうしてですか?」 『自らが村長になりたい者も、あるいは村長にしたい人物がいる者も、そうした人物に恩を売りたい者も……御子を探すのです。貴方は、貴方自身が村長にしたい者が居ないなら、その正体を隠し、貞操を守らなければいけません』 「……ふぅん……」 『この村ではそういうしきたりなのです。出来れば私が力で守って差し上げたいですが、残念ながら私は最も弱い魔法使い、大した力は持っておりません。むしろ私が側に居る事で、貴方様が御子だと悟られる可能性も……』  この話、いつまで続くんだろう。ご老人の与太話より酷い話だ。尤も、ボケてるわけでもないのにこの手の妄言をスラスラ吐く人は重症だ。精神病か中二病をこじらせている可能性がある。 『それでですね。貴方様の身の安全を守るために、私からこれを』  そう言って、キツネは銀色の質素な指輪を渡してきた。手に取ると、一瞬蒼く光った。 「なんですか、コレ」 『魔法使い避けの指輪です。貴方様が持ち主と決まりましたから、これからその指輪に触れた魔法使いは撃退される事になります』 「触るだけでいいんですか?」 『はい、触られると魔法使いは、』  何か言いかけているキツネに少し触れてみると、彼は「びひゃああ!!」と電撃でも走ったようにのたうって、地面を転がった。迫真の演技だ。これは少し評価してもいいかもしれない。 『……と、ま、まあ、このように、なりますので、貴方の身を守れます』 「なるほど、こうですね」  もう一度、今度はしっかり触ると、また「びひゃああぁああああ!!!」と悲鳴を上げてゴロゴロ転がる。これはなかなか面白い。少し笑っていると、キツネは粗い呼吸をしながら、ヨロヨロ起き上がる。 『あ、あの、その』 「もう一回触っていいですか?」 『お、お許し下さい、刺激が強過ぎます故』  キツネは慌てたように後ずさって、頭を下げる。 『と、ともかく、そういう事でございますので、貴方様のご無事を祈りつつ、私はこれにて……』 「え、もう帰っちゃうんですか? もう一回触っちゃ……」 『お、お許し下さい、お許し下さい、ではっ』  キツネはそう言い捨てると、懐中電灯も持たずに、夜の暗闇の中に飛び出して行った。外を見てみたが、暗いばかりですっかり姿も見えない。ゴロゴロ転がる演技はなかなか面白かったので、ほんの少しだけ残念に思った。が、この村にも変人は居るのだな、と思いつつ、もらった指輪は机の引き出しに放りこんで、それでこの件については忘れる事にした。

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