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一二、七月一日
七月一日。その日の朝は、昨夜までの雨が一転、とても穏やかに晴れ渡っていた。
結局、シカ君の用意してくれた蔵の中で一晩を過ごした俺は、堅い床で寝たせいも有るし、とても疲れていた。それでもようやく御子でなくなった朝は、太陽が眩しくて清々しい。心も晴れ晴れとしていた。幸せとは本当に小さなモノかもしれない。いつも通り、この村の医者でいればいいだけの、朝。
それでも疲れていたから、ノロノロと診療所に戻る。外では長谷川のお爺ちゃんが既に待っていて、ぎょっとした顔で俺を見る。
「どうしたんじゃあ、た、た、田村、ま、まさ……」
「橘翼です」
「おおそうじゃ橘先生、こんな朝早くにお出かけか、それとも朝帰りかの、酷く疲れて見えるが」
心配してくれるので、大丈夫ですと返しつつ、ちょっとだけシャワーを浴びさせてもらった。それで少しスッキリする。
そういえば昔から、身体はそこそこ丈夫なのかもしれない。仕事柄、夜勤やら徹夜やらが続く事も有ったが、体調を崩す事はまずなかった。普通、あれだけ濡れたままでは、風邪でも引きそうなものだが、特に異常も感じられない。なんとかは風邪を引かないと言うが、子供の頃はそれを気にしていたような気もする。
診療室に戻ると、長谷川のお爺ちゃんが腰かけて待っていた。「次の御子様は、キジ様が選ぶんじゃよ」と教えてくれる。そうなんですか、と軽く返事をして、それで魔法使いと御子の話は終わりだ。俺も今度は無関心でいられる。なんて素晴らしい事だろう。次に誰が御子になったのか、誰が村長になるのか、俺は干渉しなくていい。この村の政治の事は、この村の人間に任せたほうがいいと思う。だってなんだかんだ言って俺が好きなこの村は、ここの人達が作って来た村なんだから。
長谷川のおじいちゃんが帰ると、由良君がやって来た。なんだか熱っぽくてねェ、と由良君が愚痴る。そりゃあ、由良君だってあの雨の中に居たんだから、普通は体調も崩すかもしれない。診察してみたが、今のところはただの体調不良程度だったし、俺は熱は出るに任せた方が良いと思っていたから(高熱ならその限りではないが)、栄養の有る物を食べて寝てて下さいと指示した。
「それでさァ、センセ、お願いのほうなんだけど」
そう言えば勢いで、何でも言う事を聞くとか言ってしまった。何を要求されるんだろう、と少し不安になって、「う、うん」と頷けば、
「センセもネトゲやろうよ」と言い出す。
「ネ、ネトゲ、かい?」
「うん、パソコン有るから出来るでしょ? それで、フレになってよ。そしたら特典アイテムももらえるし」
「そ……そんな事で、いいの?」
「そんな事って何だィ、センセ。こっちにとっちゃ大きな金額が動く話なんだよォ? ま、ゲーム内通貨ってやつだけどさァ」
「いやでも……何でもいいんだよ? それに、それなら現金を要求したほうが早いんじゃ……」
そう言うと由良君は、「判ってないなあ」と呆れたように首を振った。
「ゲームにリアルマネーを持ちこんじゃいけないんだよォ、世界観もゲームバランスもブチ壊しちゃうんだからさァ。向こうで工夫するのが醍醐味なんだよねェ」
「そ、そういうもの……?」
「それにさァ、アカウントだけ作って、コードもらったら終わりって言ってるワケじゃないんだよォ、センセ。折角フレになってもらうんだから、こっちだってクエストなり装備なり手伝いたいしさァ」
「???」
ゲームはあまりやらないから、由良君が何を言おうとしているのか判らない。困惑していると、彼は溜息を吐いていて言った。
「要するにね、センセ。一緒に遊びたい、……って言ってるの。もちろん……センセがさ、嫌じゃなかったら、だけど、さ……」
何でも言う事を聞く、っていう話だったのに、何故か由良君のほうが下手に出ている。曰く、友達なんて居ないから、ネットゲーム上でも人間関係はあまり上手くいってないらしい。だから一緒に遊んで欲しいとか言われるっていうのは、もしかしたら由良君にかなり好かれているんだろうか?
由良君は本当にウシを呼んでくれたようだし、おまけに一緒に駆けつけてくれた。良くしてくれたと思っているし、俺だって由良君の事は嫌いじゃない。それなりに忙しいから、どれぐらい遊べるかは判らないが、由良君と一緒に遊ぶんだったら、別に嫌とも思わない。だから、いいよと承諾すれば、彼は一瞬だけ子供のように嬉しそうな顔をして、それからまたいつもの少々ニヒルな表情に戻った。
センセはいい人だねェ、と由良君が呟く。よく判らない。俺は別段いい人間ってわけでも無いと思う。好き嫌いは有るし、無償で誰かに尽くしたりもしない。特別な事をしているつもりはないが、どうも由良君には気に入られたらしい。俺も別にそれを嫌と思わないというか、むしろ嬉しいので、色々有りはしたが、俺と彼の関係は元通り、というか、やや親密さを増した、ような気がする。
「あ、そういえば由良君、猫が鉢植えを……、……あっ! 猫……!」
そういえば黒猫の事をすっかり忘れていた。隅に置いてあったケージを診ると、中はもぬけの殻になっている。
「あ、あれ……?」
「センセ、どしたのォ?」
「あぁ、いや……昨日、見た事のない黒猫が怪我してたから、ここに入れてたんだけど……、あっ、由良君ごめんね、その猫が鉢植えを壊しちゃって……」
そう言うと、由良君は何故か楽しそうに笑った。
「そう、そうなんだァ、猫がねェ……フフフ」
「ど、どうしたの由良君……」
「いやいや……フフフ、センセ、この村にはねェ、生意気な『黒のネコ』っていう魔法使いがいるんだよォ。それとねェ。あの鉢植え、片方はキャットニップっていうハーブが植わってたんだよねェ」
「……え、……ええっと? それって……もしかして……?」
まさか、と眉を寄せると、由良君はいよいよ愉快そうに笑う。
「いやいや、何もかも偶然なんだけどねェ。センセ、ネコは猫と会話が出来るのさァ。だから部下としてセンセのトコに行かせてたのかもねェ。で、何かのきっかけで、センセが御子だと気付いた。喜んで黒のネコ直々に出向いて来たものの……、センセ、キャットニップはその名の通り、猫にはたまらない匂いがするらしいんだよォ。間抜けな黒ネコはついつい、植木鉢と戯れちゃったんだねェ。で、センセに見つかって、挙句ここに閉じ込められた。折角のチャンスを恥ずかしいカンジで逃したわけだ。いやァ、恥ずかしいねェ、穴が有ったら入りたいだろうねェ」
由良君はとても意地悪そうに笑う。もしかしたら由良君は、ネコの正体を知ってるんじゃないかと思うぐらい楽しそうだった。
そういえば、伸幸さんに御子だとバレた時、いつもの猫は部屋に居た。あの時に猫も知ったのかもしれない。それで、主人の黒猫に報告に行ったんじゃないか。黒猫をケージから出したのが誰か判らないけど、もしかしたらいつもの猫達が開けたのかもしれない。いずれにしろ、俺は間一髪で危機を乗り切っていたらしい。
「……キツネ以外も、変化は出来るんだ」
「面を付ければ、体格と声ぐらいは変えられるしねェ。あと、名前の動物の姿には全員なれるよォ。もっとも、クマなんか変化したら大騒ぎになって最悪射殺されちゃうし、変身出来る子は限られてるけどねェ」
いや、とっても愉快な話が聞けてよかったよォ。鉢植えはまたおふくろ殿が作るから気にしないでねェ。
由良君はご機嫌で帰って行く。ちゃんと温かくして、今日はネトゲは控えめにねと見送った。布団の中でやるから大丈夫と言っていたが、はたしてそれは大丈夫の部類なんだろうか。まあ由良君だって魔法使いなんだから、風邪ぐらいに負けたりしないだろう。
その後何人かの予約患者を診た後、俺は荷物を持って出かける事にした。
目指すは、九条家の屋敷だ。
チャイムを鳴らすと、文彦さんが飛んで来た。
「いやあ、先生、実はお呼びしようと思っていたところで」
「おや、どうしました?」
「実は坊っちゃんが熱を出しましてね」
「それは大変ですね、幸い薬も幾つか持って来ていますし、すぐに診ましょう」
文彦さんが急ぎ足で案内してくれる。その間も「全くあんな雨の中、歩いて帰って来るなんて無茶をするから」とか「大体最近の坊っちゃんはしょちゅう夕方に出かけて」「リンゴ飴だって持って帰ったのに大事に飾ってるもんだから食べられなくなっちゃいましたし」となんだかんだ愚痴っている。ふむ、なるほどなあと色々納得しながら、後を着いて行く。
「それじゃあ、先生、俺はちょっと用事が有るので、席を外しますが、坊っちゃんをよろしくお願いします」
楓君の部屋の前まで来ると、文彦さんはそう言って何処かへ行ってしまった。なるほどなあ、とまた納得しつつ、ノックをして楓君の部屋に入る。と、布団で大人しく寝ていたらしい楓君が、俺の顔を見るなり飛び起きて、また沈み込んだ。
「せ、先、生、ど、どうして……」
文彦が呼んだんですか、と言うから、「ううん、たぶん風邪を引いただろうなと思って様子を見に来たんだけどね」と返して、側に寄る。
「え、そ、それは、どうして……」
「だって君、雨の中に飛び出して行ったろう? ここまでの道のりは結構長いし、帰る頃にはずぶ濡れだろうからさ」
「え、え……」
「さ、楓君、ごめんね、少し触診するよ。冷たいけど我慢してね」
「や、あ、あの……っ」
隠れようとするので、容赦なく布団を剥いで、パジャマの中に聴診器を押し込む。そうすると楓君は身を縮めたまま大人しくなった。鼓動がとても速いのは、何も熱が出ているから、というわけだけではないだろう。体温も少し高い。肌がしっとりと汗ばんでいる。リンパにも触れてみたが、腫れている様子は無い。
体温計を口に咥えさせて、布団の中に戻してあげると、困った顔で俺の事を見上げて来た。
「熱は有るけど、他は大丈夫そうだね。高熱にならなければお薬は飲まないほうが早く治るし……少し様子見かな。熱が上がるようなら、文彦さんに連絡してもらえれば、解熱剤とか点滴とかも……食欲は有るかな?」
「だ、だいじょうぶ、です」
体温計を取って見ても、高熱というほどではない。「うん、ならやっぱり、少し様子見だね」と頷きながら、道具を片付ける。
「全く、無茶をするんだから。命をかけたりするなんてさ。こんなオジサンのお尻より、君の若い命のほうが大事に決まってるだろう、そうまでしてくれる事は有りがたいけど、こっちとしてもそんなに大事にしてくれた君を犠牲にしたいなんて、これっぽっちも思わないんだからね」
「え……あの……先生、何を言って……」
「何って。君なんだろう? キツネ君は」
楓君は一瞬ぽかんとした後で、真っ青になってしまった。そして何故だか布団で顔を隠そうとする。
「ど、どうして、そう、思うんですか」
「うーん、まあトドメは文彦さんだよね。君がリンゴ飴を持って帰ってたって言ってたし」
「う……じゃ、じゃあ、いつから……」
「ん、否定しないって事は、やっぱり君がキツネ君なんだね?」
楓君は困ったように目を泳がせて、やはり否定しなかった。その感じが何とも可愛くて、少し頭を撫でてやる。
「きっかけは二回目にキツネ君と会った時かな。足元にね、白い物が見えた。最初はそれが何か判らなかったけど、そういえば楓君の左足首に、包帯を巻いたなって思ってね。そして君がお守りをくれたろう? あの中には神社の名前入りの紙が入っていて。インターネットで調べてみたら、学業成就祈願のお守りだったよ。それで君は通信制の高校に通ってるって聞いたりして。それでなんとなくね。よーく見てたら、俺が足首の包帯を取ったら、キツネ君の足首の白いのも無くなったし、おまけに君ったら、俺のしおりも忘れて行くし……まあ確定かなって」
「あっ、あのしおり、先生の所に……」
「うんうん、返すつもりじゃなかったんなら、はい、これ」
そう言ってしおりを手渡すと、楓君はそれを大事そうに受け取って、また俯いた。
「……じゃ、じゃあ、ずっと判っていて……」
「うん、ずっと判ってたけど。でも、……君の本音が判らなくてね。君は九条家の人間だ。家は俺の事が嫌いみたいだし、君も俺に対してあんまり親しい態度はとってなかっただろう? だから、キツネ君の時にだけ俺に良くしてくれるっていうのが不思議でね。よく判らなかったんだ、そこが」
「う……」
「でも楓君の方はそっけないままだろう? だから色々考えてね」
「ぼ、僕は、……その、……先生の事は、嫌いじゃ、ない、です……」
「そうだろうねえ、今となってみればよく判るんだ。誰かの為に命をかけるなんて、普通じゃない。するとしたら、それはそれだけ相手が大切だから……って事だと思うんだ。つまりその……文彦さんに少しは聞いてたけど、……たぶん、楓君は俺が思ってるよりずっと……俺の事が好き、だったんじゃないかな……?」
楓君は顔を真っ赤にして、俯いて、布団で顔を隠してしまう。ああ、本当にそうなんだなあ、と改めて思う。
俺が外部の人間として、何も知らずに、楓君と接したから。楓君はすっかり、俺に好意を抱いてしまった。それは最初は、普通のモノだったのかもしれない。でも、普通の憧れとか親愛とかそういう感情で、毎日様子を見に来たり、偉いさんに情報提供をするのを突っぱねたり、ましてや命をかけて守ったりするだろうか。少なくとも、俺と楓君自体は、ただの医者と患者の関係でしかなかったんだから、それが不自然だった。だけど、楓君の気持ちが判ってしまえば、話は早い。
楓君の好き、は、普通の好き、じゃなかったんだ。
「ぼ、僕は……ずっと、……九条家の人間でも、佐久間家の人間でもなくて、……でも何処に居ても、そういう目で見られて、……ぼ、僕は、皆にとっては、どっちつかずの、ダメな、人間で、……だけど、先生は、そんな風に見なくて、それで、……捻挫した時に、先生、僕に、よく我慢してたね、辛かったろうって、言って。それがなんだか、……すごく、……」
楓君は言葉が足らない。キツネ君の時の方がスラスラ話していたような気がする。誰しも仮面を持っている、とは心理学の言葉だったか。楓君にとっては、肩書きの全くない「赤のキツネ」のほうが、過ごしやすかったのかもしれない。とても不憫な事だが。
「だから、先生が御子になったって、知って、……絶対に、誰にも、渡したくないって……どっちかっていうと、僕が、ぶち犯したいぐらいだって」
「……楓君、そういう言葉を何処で覚えてるの……」
「う、……ね、ネット……」
全く、インターネットは良くも悪くも偉大だ。こんな初心でどうしようもなく可愛い子に、なんて言葉を覚えさせるんだ。
「ぼ、僕も、こういうのはいけないって、思って、でも折角先生の側に居られるんだからって、色々聞いたり、して、そしたら、……僕はなんてダメなんだろうって、僕は何にも持ってなくて、僕でさえなくて、……僕も、先生みたいに誰かの為に何かがしたいって、……だから、最後の日に、ここに先生を連れて来ようって、ここなら文彦も居るし、守れると思って……、……僕は、この村では……嫌われてるから……」
楓君は元々あまり喋らないほうなのかもしれない。彼の告白は取りとめが無くて、それでも断片から、彼の悩みぐらいは推測出来る。彼はきっと、自信が無い。俺と同じぐらいか、俺以上に。だから、そっと頭を撫でてやった。
「楓君、あの後ね。ヒマだったから、あの蔵の中を色々見てたんだ。そうしたら、古い本が出て来てね。ほら、あの神楽の内容みたいだったよ。案外最近の言葉で書かれていたから、読めたんだけど。あの神楽には続きが有ったんだ」
「……続き……ですか……?」
「うん。悪さをしたキツネは閉じ込められてしまってね。それでキツネはうんとうんと泣いてたんだ。でも村人達は見向きもしない。泣き疲れるほど泣いていたら、龍神様がやって来て、キツネに尋ねた。どうしてあんな事したんだって。そしたらキツネは、皆と仲良くしたい、でも柄じゃないって判ってたから、ああしてしまったんだ、本当は皆と一緒に暮らしたいってね。でも一度イタズラをしてしまったら、皆が自分の事を嫌いになってしまった、こうなったらとことん嫌われてやれって、やけになってしまったんだけど、でもやっぱり、実際そうなったら悲しくて、涙が止まらないってね。
それで龍神様はキツネを許してあげたんだ。信用を回復するにはとても時間がかかる、とても辛いかもしれない、でもお前がそれを望むなら、きっといつかその願いを叶えてあげよう。龍神様がそう言うと、キツネは誰にもバレないぐらいの変化の術を取り戻したんだ。そうして真っ当な人間として、きちんと生きて、皆に愛されて、その上で自分はキツネだってバラせばいい。それで怒るようならその人間はお前を愛していないんだ、お前を愛してくれる人を探しなさいって。そうしてキツネはこの村の住人として、ひっそりと生きて行きました、とさ。……っていう続き」
「……キツネは……許されたんですか……」
「どころか、村に受け入れられている。本当はただ寂しがりで、怖がりな子だったんだよ。面がその人間の本質なら、……楓君だって同じさ。確かに君の評価を変える事は難しい。でも……少なくとも、君の中での、君の評価ぐらいなら、きっと変えられるし、……そうしていれば、周りだって君の見方を変える事だって有ると思うんだ。まあ、最悪この村を出たっていい。でもその時に、この村の、今の楓君のままじゃ、きっと同じ事が起こると思うんだ」
「……変われ……ますかね……」
「きっとね。……俺だって、楓君にお礼が言いたいぐらいなんだ」
「え? ぼ、僕は、何も……」
楓君は困惑していたけど、俺には確信が有った。
「君は命をかけてまで俺を守ろうとしてくれた。そんなにまでしてくれる君を、助けなきゃって思った。こんな気持ち、初めてだよ。君とまだ一緒に居たかったんだ。そうしたら、全然役に立たないと思っていた、自分の持ってる物が見えて来たんだ。それなりに丈夫な身体とか、若い頃に作った体力、柔道の技術、そんな小さな物でも、無かったら君を助けられなかった。逆に言えば、俺には何かがちゃんと有る。そう思えた。俺も……俺もさ、変わろうと思ってここに来たけど、たぶん何も変わってなかったと思う。でも今は違うんだ。君のおかげで……少し、判った気がするんだ」
「……」
「だから……もし楓君も何か変わりたいって思ってるんなら、俺もその手伝いはしたいって思う」
「……で、でも、……でも、僕は、その……先生のケツを狙ってたんですよ? 気持ち悪くないんですか」
「だからその定期的に下品になるのを……まあいいや。ええとね、楓君。俺はここに色んな理由で来たって言ったよね? 都会の人間関係に疲れた、とか。その一つがさ……その……俺は、どっちでもいいんだよね」
「……どっちでもって言うのは」
「女でも、男でも」
楓君はまた混乱しているらしく、何も答えない。そう、俺は好きでもない男に抱かれる趣味は無いが、趣味が無いとは言ってない。自信が無いものだから、好きだと言ってくれるなら嬉しいし、そうしてくれる人と長く居ればそれなりの事をした。だから男相手だって未経験じゃないし、抱かれるのだって同じだ。楓君は色々考えた結果、どういう意味なのかを理解したらしく、「で、も」と首を振る。
「ぼ、僕の、事は」
「俺は楓君の事、好きだよ?」
「で、も、お互い何も」
「でも好きだよ。だからそのまあ……君の想いに応える事も出来る。というか、応えたい……というか……」
「ほんとうに、ですか?」
「うん、本当に」
まあ若い男の子が勘違いをしているだけかもしれないから、そこのところは気を付けるつもりだけど。そう思いつつ楓君を見ていると、彼は泣きそうな顔で、「でも」と首を振る。この上何が不安なんだろう。
「……ぼ、僕、タヌキと、佐久間さんに……色々、されそうになって、……というか、ちょっとされたんですけど……す、すごく怖くて……だから……先生にあんな怖い事したくないから……」
「ん? 俺は大丈夫だけど……」
「ぼ、僕が、嫌なんです、だ、だから、出来る事なら、ぼ、僕が、……だ、抱かれるほう、で……」
語尾がどんどん小さくなって、楓君の顔はどんどん赤くなって、布団の中に隠れて行った。ああ、これは犯罪かもしれない。そう思いつつ、「う、うん」と頷く。
「とりあえず、風邪をしっかり治して、それからまた色々話そうね。ね?」
「は、い……」
布団の中から小さな返事。たぶん若い楓君の頭の中はいっぱいいっぱいだ。だから、今はそっとしておこうと思った。
そんなこんなで、高校生の恋人が出来てしまった……のだった。
+
楓君の事はとりあえずそっとして置く事にして、少し文彦さんと話そうと思い、廊下に出る。と、話声が聞こえて来た。
「この間は捻挫、今日は熱、一体アレは何をしてるんだ。それに村の医者は呼ぶなと言っただろう、文彦」
「す、すいません、ですが、その、櫟坊ちゃんもお熱が有るなら、お医者様に見て頂いたほうが……」
「どうして私があんな男に……」
どうやら文彦さんと櫟さんが話しているようだ。廊下を進むと、出くわした。櫟さんは確かに少し熱っぽい顔をしていて、こちらに気付くと慌てて目を反らした。
「あ、どうも、すいません、お邪魔しています……、櫟さんも体調が悪いなら、診ますけど……」
「け、結構だ。私はかかりつけの医者が居るのでね。とにかく、文彦、アレの体調管理には気を付けるように、あれでも私の弟には違いないのだから……」
櫟さんはそう言って、そそくさと家を出ようとした。その時に、左手に包帯が巻いてあるのが、ちらと見える。
「ん? お兄さん、その手……」
指摘すると、櫟さんはハッとしたように手を隠して、そのまま飛び出して行ってしまった。まさかまさか、と色々考えると、とんでもない可能性に気付いた。
黒のネコは、黒猫で、左前足を怪我していて、櫟さんは左手に包帯を巻いていて、風邪をひいていて。もしかすると、俺はお兄さんの体どころか股の間までバスタオルでゴシゴシしてしまったんじゃ……。
そう考えれば、お兄さんが逃げて行くのも当然だ。まずいなあ、いやでも、キャットニップの匂いに誘われてしまうお兄さんも、何処となく抜けていて、なるほどなんだかんだ言って兄弟なのかもなあ……などと思っていると、文彦さんが「すいません」と頭を下げる。
「結局御子が見つからなかったとあって、櫟坊っちゃんもナーバスで……」
「ああ、いえいえ、お気になさらず……、それより、その、文彦さん」
「なんでしょう?」
「文彦さんは、その……青のウシさん、ですよね?」
「……」
文彦さんは固まってしまっている。
「だって楓君が昨日外出している事を黙認しているんですし、楓君はお祭りに行ってないのに、リンゴ飴を持って帰った事を不自然だと感じてないですし。事情を知っていたと考えるのが妥当じゃないですか。少なくとも、楓君がキツネ君だと知っていたはずだし、それならウシさんがキツネ君に味方してる理由も判るんですよね」
そう言うと、文彦さんはしばらくして、ハハ、と笑った。
「その……お恥ずかしい話ですが、先生、当たりです。その……俺は色々事情があって、この屋敷に引き取られ、楓坊っちゃんの付き人になったんですが……俺も捨て子みたいなもんですし、坊っちゃんの境遇に情が湧きましてね。坊っちゃんがキツネだって事はずっと前に知ったんですが、俺がウシに選ばれてからは、守って来ました。……坊っちゃんからは、先生への気持ちも聞いておりますし、……たぶんその様子なら、先生も坊っちゃんの事を受け入れて下さったんでしょう」
前にウシの姿で会った時は失礼しました、正体がバレると面倒になるので、普段は演じておりまして……。
文彦さんはすまなそうにそう言って頭を下げる。別に気にはしてないけれど、いや、この村は本当に随分狭いなあと思った。若い人間も減っているし、魔法使いに選出される人も限られてしまってるんだろう。知り合いに随分と魔法使いが増えてしまった。そしてそれを隠さなければいけないんだから、少し大変だなと思った。
+
診療所に戻ると、伸幸さんが座っていた。
「よっす、先生」
「あっ、な、伸幸さん、何の用ですか……!?」
「んにゃ、ちょっと打撲が痛んでさ。なんてーの? ウシって魔法使い(物理)だからさあ、相手するの痛くって痛くって……」
「……やっぱり伸幸さんが、タヌキ、だったんですね。よくもあんな酷い嘘を……」
「ははっ、まあタヌキは人を化かすのが本性ってね。……俺の事、診察するのは嫌かい、先生」
そう笑顔のまま言われる。俺は少し考えて、一つ溜息を吐くと、診ましょう、と返事をした。
打撲が痛い、とは言われても対処法はあまり無い。とりあえず折れたりなどしていない事を確認すると、湿布を貼ってやる。痛がったが、多少は痛い目をみて欲しいような気もした。
「あててて……まったく、ウシもすんげぇ怒ってるし、あのシカの野郎まで来やがるし、ホントに大変だったんだぜ」
「……」
「……先生も怒ってる、よな?」
判りきってるだろうに、問うてくるのは何故なのか。
「そりゃあ、騙されて犯されかかったんですから、多少思う所は有りますよ」
「でも治療してくれるんだ。……っててて! 先生、痛い」
「ちょっと我慢して下さい。私は医者ですから、患者は診ますよ、そりゃあ」
「いてて……ならさ、俺も魔法使いなんだよ。それに佐久間と誓いをした、俺は佐久間……昴を裏切れねえ。だから、先生を捕まえなきゃいけなかった。……でも、これでも悪い事したとは思ってるんだぜ?」
「でも、キツネ君まで殺そうとしたじゃないですか」
「ありゃ方便だよ。キツネなんかの魔力を食っても、そうメリットが有るわけでもないし。昴からもらっておいて、後はテキトーに逃がしてやろうと思ってたさ。キツネにだって譲れねえ理由が有ったんだろ、化けて自分が犯されてでも先生を逃がそうとしたんだ。別に憎いとは思わねえさ。人殺しなんて俺もしたくなかったし」
「……本当に、ですか?」
「はは、まあ腹黒タヌキの言う事だ、信じるか信じないかは先生に任せるさ」
伸幸さんは本当に、いつも通り笑う。俺は溜息をついた。伸幸さんはタヌキだ。一度はまんまと騙された。大嘘吐きだという事も知っている。だけど、疑ったって仕方が無いじゃないか。そうして楓君を危険にさらしたわけだし。伸幸さんの事は好きだった。タヌキとしての伸幸さんと、いつもの伸幸さん、どっちが彼の本当の姿なのかは判らない。判らないが、キツネ君の事も考えると、きっとどちらも伸幸さんなんだろう。その葛藤の中で生きてたりするのかもしれない。
「ところで先生。魔法使いは正体を隠して生活してる。シカの野郎ぐらい判りやすいのは稀だ。あんな気持ち悪いの抱きたいとも思わないが、バレたら他の魔法使いに何をされるか判らんから、普通は隠してる。だから俺の正体も秘密にしておいてくれよ」
「……他意は無く?」
「あっはっは、疑われるなあ。大丈夫、もう先生を騙す理由は無いさ。少なくとも、今はな」
「……まあ、……なら、いいですけど」
また一つ溜息を吐いて、伸幸さんの服を元に戻す。「いや、少し楽になったよ先生」と伸幸さんが笑いながら服を正す。打撲の事かと思ったが、どうもそれだけではないようだった。
「先生って本当にいい人だなあ」
「はあ……そうですかね」
「先生もお医者なら判るだろ、誰にも言えない秘密が有るってのは、それなりにしんどい事なんだ。まして俺達魔法使いは、ごく親しい、本当に信頼できる人ぐらいにしか打ち明けられない。まして魔法使いの姿で悪行三昧なんかやっちまった日には……絶対にバレちゃいけない。……先生は俺の、そういう秘密を知ってるんだぜ。利用だって出来るだろうに」
「そんな事しませんよ。俺が悪者になるのも嫌だし、伸幸さんとは出来る事なら、今までどおりのお付き合いがしたいですし、俺のほうはそれでいいと思ってるんですから」
「ははは、だから先生はいい人なんだ。キツネが惚れる理由も判るってもんだな」
事情を詳しくは知らないだろうが、伸幸さんから見ても、キツネ君の行動原理はそう見えるらしい。それについてはこれ以上語らない事にした。御子だった事と同じで、だんまりを決め込む事にする。
伸幸さんがタヌキだろうと関係無い、少なくとも、伸幸さんがそれ以前の関係を望むなら。
「あ、そうだ。先生、コレ」
伸幸さんが白いハンカチに包まれた何かを手渡してくる。恐る恐る開いてみると、中にはあの、魔法使い避けの指輪が入っていた。
「コレ……」
「いやあ、そいつは効いたわ。流石に御子選びが終わった今となっちゃ、威力もかなり落ちてるけど、まあ先生の持ち物だと指輪の方がまだ思ってるらしい。ちいと魔力が残ってるんだ。拾うの怖かったぜ」
「まだ魔力が残ってるんですか……どれどれ」
えい、と伸幸さんに指輪を引っ付けてみたけれど、彼は「あーピリピリして気持ち悪い……」と言う程度で、吹っ飛びも悲鳴も上げはしなかった。
「なんていうの、あの、軽めの静電気が起きてるぐらいの、痛いほどじゃないんだけど、あーピリピリ……みたいな……ほら……」
「あー、言いたい事は判ります」
語彙力に少し問題は有るけれど、大体判った気がする。「じゃあ、ありがたく」と指輪を受け取り、ハンカチを返す。その時に、なんとなく、そのハンカチは伸幸さんの趣味の物ではない気がして、じゃあ誰の、と考えたら、あのイケメン村長なんじゃないか、と思う。手触りもいいし、刺繍も入っているし。
「あ、そういえば……佐久間さん、どうなりました? 俺、夢中で落としちゃいましたけど……」
今更心配になって聞いてみたけど、「ああ、大丈夫」と伸幸さんは笑う。
「昴はあれでまあ、タフだから。あとあれでいて爽やかな奴だから。先生の事を恨んだりはしてないさ、早速次の御子探しに御執心だから、心配要らないよ」
いきなり襲って落とした相手を恨まないなんて、イケメンだ。いや、俺もそもそもあの人に尻を狙われていたんだっけ。お互い様、という事にして、ともかく無事だそうだから安心した。
「俺とアイツは幼馴染だけど」
伸幸さんがポツリと呟く。
「アイツの為に悪い事ばっかりしてるから、俺の正体は知られたくない、だからアイツにも秘密なんだ。アイツも綺麗な事だけで村長やってるわけじゃない、アイツだって、俺に何をやってるかは知られたくないんだろう。伸幸には何も明かさない、ただの昔ながらの親友、さ」
だから、こうして秘密を打ち明けられるのは、少し、怖いけど、少し嬉しい。
伸幸さんはそう、俯いて言った。なるほど、魔法使い達も、色々と苦労をしているようだ。まあ魔法使いでなくたって、オンオフの切り替えは有る。昔の友達とは昔の楽しい話をしたい、そんなのも有る。だから、考え過ぎじゃないですか、と言おうかと思ったが、止めておいた。きっとこれは、魔法使い達の悩みなんだろうから。
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