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第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 3
二人の視線が、かちり、と合うと、しんと沈黙が落ちた。そのまま時が止まったかのように、どちらも動かずに互いだけを見ている。
(それでも文彦は、人ってやつが好きなんだよ)
突然に、文彦の脳裏によみがえる、あけっぴろげに笑って、そう言った温かな若いままの笑顔。
そんな思い出の中の遠い言葉をたよりに、ようやく歩いているというのに。
気付いているのか、気付いていないのか。
淳史の言葉は、文彦には鋭くて、やわらかな心は痛みに覆われた。
「俺……は、だって、ちゃんと……」
竜野とも、セイとも、生きている。それから、武藤とも。
文彦はそう言いたかったが、細い指先は、無意識にシャツの下のシルバーリングをまさぐって、握りしめていた。
「そのうちに、すべてを手放して消えてしまいそうな気がする」
文彦を鋭く見つめたまま、淳史は低く囁いて、奥まで見透かしたいかのように、ぐいと近寄った。
(そういえば――そんなことを……)
竜野にも言われた覚えが、文彦にはあった。
笑いながら、どこか諦めたように、のっそりとした表情で。
(文彦は、根なし草やからなァ)
そんな風に言い出したのは、誰でもない竜野だった。
「あ……」
文彦は、片手でうねる栗色の髪を軽くかき乱した。
それは、どこにも根を張らずに、流れていく文彦の心。
ふっと寂しそうに笑った竜野の面長の顔は、文彦の中でずっと引っ掛かって、記憶に残っていた。
どう言葉を返すべきか、文彦は戸惑って、視線を彷徨わせた。
最近は、さして動揺するべきこともなく、文彦の人生においては平穏に日々は過ぎていた。
仲間に囲まれて、目の前にはピアノがあって、誰かにではなく自分が演りたいから音楽に飛び込む。
そこへ分け入ってきた淳史の視線を、文彦はどう捉えるべきか逡巡した。
間近で見える淳史の魂の鋭さが、文彦にとっては珍しく、そして慣れなかった。
色素のうすい唇を閉ざして、うつむいた時だった。
「あ」
文彦は、視界の端に、ある黒い一点を見留めた。
しばらく店の横側の壁際を注視して、すべての動きを止めている。
それから、怪訝そうに眉をきつく寄せて、次の瞬間には、ガチャリと突然に車のドアを開けていた。
「おい。どうした?」
かけられた低い声を気にすることも、振り返ることもなく、文彦はすとん、と軽い身のこなしで車から降り立った。
突風が嬲っていた栗色の髪を乱したままに、ドアも開け放したままで、どんどんと歩いていく。
淳史は急いで細い背を追うように飛び出し、後ろ手に車のドアを強く閉めた。
地下へと続く、闇色に染まった階段の前で、文彦は横目にふっと何かを見咎めた表情で、急に立ち止まった。
何か嫌なものでも見たように、弓なりの眉を険しく寄せて、一度息を吸い込んだ。
「ちょっと待って」
いつもの文彦の声色とは異なる、やや硬い緊張を孕んだ言い方だった。
文彦は辺りを視線だけでぐるりと見回して、人気がないか確認してから、店へと続く階段を下りていかずに、右手の壁際沿いに音もなく歩いていった。
壁際の奥まった場所は、紫色の宵に、灯りもささずに暗かった。そこに、黒いゴミ袋がいくつも乱雑に積まれていた。
異臭のような、腐臭のような、鼻をつく匂いが漂ってくる。
淳史は一瞬険しい表情を浮かべたが、文彦はもう無表情になって手を伸ばした。
「おい。一体何を――」
「エウレカ」
文彦は、まるで神殿の奥の巫女のように、栗色の柔らかな髪を風に吹かせたまま、人差し指を持ち上げた。
その白い横顔は、どんな表情も浮かべずに、ただ託宣するように無心だった。
淳史は導かれるように、指がさし示す先を見た。
そこには、夜になり染める瞬間のまどろみ、ゆるやかに落ちていく時間、そんな様々なものが吹き溜まりのように重なっていた。
そして、灰色のビルの影の暗がりで、ゴミ袋にまるで紛れるようにそれは転がっていたのだ。
地面に投げ出されていたのは、ブラウンの汚れたズボンと、力を失くしてだらりとした手。
その先はゴミ袋と薄闇に紛れて判然としなかったが、確かに一人の人間がそこにいた。
文彦は迷いもなくひざまずいてゴミ袋を払うと、目の前の指を取った。
「今井――ミチル」
「ミチル……!」
二人の声は、ほとんど同時だった。
「ミチル」
淳史は駆けて文彦の横に並ぶと、倒れている体に近寄って、どこかが痛んだかのように一度だけ強く眼を閉じた。
萩尾淳史のカルテットのピアニスト。小柄な姿、脱色した短髪を流して、小作りな顔は青ざめている。
汚れたモノトーンのカットソーで、フェスで見た時とはずいぶんと身なりが違っている。
「見つかったね」
それが、良かったことなのか、悪かったことなのか。
この町へと入って来た時と同じように、文彦は細い息を吐いて、それから静かに唇を引き結んだ。
たちの良くない店も多い。
だが、そういう町なのだ。
「眠っている?ミチル?」
淳史はミチルの体をゆっくりと引き起こすと、注意深く検分した。
ごく静かにだが胸は上下し、呼吸は小さく繰り返されている。
とにかく生きていること、そして容態が急を要さないことを確認して、淳史は低く安堵の息をついた。
「深酒でもしたのか――?こんな場所で」
「さあ。どうだろうね……?」
文彦は顎に指を当てて、考え込むように呟いた。
こうしてミチルを間近に見ると、ステージでプレイしていた印象よりも、がくりと痩せ細っていたことに、なんとなく思いがけない気持ちだったのだ。
ふっと、文彦は思案気に手を伸ばした。
アスファルトにひざまずいたまま、淳史に引き起こされてその肩に力なく寄りかかっているミチルが怪我を負っていないか、確かめるために文彦は触れていった。
頭、頬、首筋、肩、腕へと探るように掌を下ろしていく。
掌に感じる、あまりにも冷たい肌、痩せて骨ばった体、そして浅い呼吸――かすかな違和感を感じて文彦はうすく唇をひらいた。
じわりと染み入るように、胸に抱えた違和感をもてあますように、文彦は骨ばったその肩にゆっくりと手をかけて、耳元に口寄せて、なるべく穏やかに呼びかけた。
「……大丈夫?」
その問いに応えはない。
唇がひらき、青ざめて頬がこけた顔は、服と同じように汚れていて、ゴミ袋の異臭の中に沈んでいる。
淳史も文彦も、そのことにはもう構わずに、ただミチルだけに集中していた。
「聞こえる?大丈夫?」
地面に落とされていた指ががわずかに持ち上がって、文彦のほうへと少しだけ伸ばされた。
その指にも汚れが纏わりついていたが、文彦は取り落とすことなく、冷えた指先を素早く掌で包んだ。
「だ……れ……?」
「俺は――」
そこまで言いかけて、文彦はハッと口を噤んだ。
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