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第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 2
この界隈へと入ってしまえば、あまり安全ではない、どちらかといえば物騒な区域になっていく。
(また――望みもしないのに)
この一帯こそが、本来は「ストリート」とだけ呼ばれている場所だ。
竜野や文彦がいるミスティなどのジャズバーが並ぶ通りは、区別されて「リフレイン・ストリート」と総称されている。
この雑多な区域から、文彦の生まれた町も遠くない。
治安の悪さは、文彦の育った町のほうが悪いくらいだったろうが、その代わりにストリートでは大きな抗争がよくあった。
絶えない抗争は、町を疲弊させ、荒廃させていった。
当たり屋にからまれる面倒を避けて、文彦はなるべく表通りを選んで、ゆっくりと車を走らせていく。
とある低いビルの前で、文彦は車を寄せた。
地下へと続く階段、道端に散らばったゴミ、一階に設置された看板は傾きかかっていて、かろうじて「ルナ・ロッサ」と判別できるペイント。
「ここだ」
「ミチルは、こんな――」
こんなところに、と言いかけたのだろう淳史は、途中で声を低めて途切れさせた。
(そりゃそうだろうな)
文彦は真顔でそう思ったが、途中で言葉を切った淳史にむしろ少しの感嘆を覚えた。
以前よりも荒廃した雰囲気がビルを覆っていて、文彦の記憶の中よりも、どこか禍々しい雰囲気が漂っていた。
「こんな……」
ふっと文彦は囁くように言った。それを取り落とさずに、淳史は文彦を横目で見た。
「何だ?」
「こんな……ところだったんだろうかと、思って」
文彦はハンドルの上で手を組んで、その上に顎を乗せた。視線は淳史を見ることもなく、けぶるような眼差しで正面を眺めていた。
文彦のいつかの記憶――その中では、もっとあやしく派手でさえあった店。
町の荒廃はこうして現れていて、過去とは違う景色を映している。
雑居ビルの前には地下への矢印。
階下へと続く階段の先は、ぽっかりと暗い。
それは冥府にでも続いているかのように闇色で、まるで何も見えない。
文彦はぼんやりとちいさく唇を開いて、その階段の先の暗闇を見た。
夕刻が過ぎてラベンダーに空が染まる時間は、何かに出遭う、逢魔ケ刻。
「今井ミチルがいないか見に行って来る?もし彼がいたら、連れて帰るんだろう――待ってるよ」
「ああ」
淳史の応えは、簡潔で明瞭だった。
文彦は細い溜め息をついた。
待ってるよ――そんな言葉を、二度も繰り返した日。
(調子が――狂う……)
ハンドルを握った手の甲に、文彦は白い額を落として、疲れたように瞳を閉じた。
文彦は、うすい色の唇をほとんど動かさずに、囁くように歌った。
「I`ll sing to the sun in the sky……」
ドアに手をかけて開けようとしていた淳史が、急な物憂い歌声に思わず振り返った。
しん、と静まり返った狭い車内に、「カーニバルの朝」だけが美しく、どこか胸狂おしく、かすかなBGⅯのように響いている。
それは昼間に文彦がピアノで弾いたボサノヴァだ。
美しい朝。それはただ、あなたの瞳、あなたの微笑み、あなたの両手を歌っている――
(俺を、俺をどうか、安らかにさせて)
淳史は、目の前で、長い睫毛が紫色の影を刷く、閉ざされた瞳の青白くさえある横顔を見た。
日本人にしては珍しく、ボサノヴァもフォービートも体感して表現できるリズム感、正確でいて微細にあえて揺らぐ響き、圧倒的に空気を持っていってしまう強さを秘めて、淳史の手の届くすぐそばで、歌は啼いている。
文彦はしかし、その淳史の視線を気に留めることもなかった。
音の他のすべては、文彦の意識の外に押し出されて、色を失っていく。
文彦は、ただ己の心だけに沈んで、戻れない海の底へと落ちていく。
(どうして、ここへ来たんだろう……)
その答えは、文彦自身でも判然としない。
いかなる場所でも、人は、どこかで過去へと振り戻りたいものなのか?
(勝手に探すに任せておけば良かった)
引き受けてしまったのは、何のせい?
淳史のためなのか? 自分のためなのか?
(どちらにせよ――)
ブレスはわずかに乱れて、その心を透かしたようだった。
舌打ちしたくなる思いを、文彦は噛み殺した。
セイがフラッシュバックに倒れたこと、淳史がやって来て再びこの町へと訪れる扉となったこと。
(今日は、厄日だね――ああ、そう、厄日だ)
歌は、苦しいようにぷつりと途切れた。文彦は、そのまま息を止めた。
「Will love come my way……」
思いがけず、艶のある低い声だった。
文彦は驚いて、伏せていた顔をハッと上げた。
わずかに息を漏らせて広がっていく歌声、精確なリズム、遊びはないが風景画のように浮かび上がっていく言葉。
(え――違う)
ジャズフェスで聴いた淳史の、ドライさと奇妙な切なさの混ざり合う超絶技巧の音楽と。
CMでアルバムで、収録された音源として文彦が聴いた、緊張を伴う均衡の攻撃的でさえあった音楽と。
文彦が途切れさせたところから、正確にすくい取って、淳史は静かに終わらせた。
その余韻は、何かをなだめるようで、隠し事を共有するように神秘的にさえ感じられた。
(どうして?)
文彦の大きく見開いた瞳がくるりと回り、唇が息を求めてわずかにひらく。
「その――それは、どうして……?」
「え?」
淳史は突然の文彦の言葉に、理解しかねて、問うように眉を寄せた。
文彦は、何かを反芻したいかのように、無心に指先でリズムと取っている。
「ひとり、だから……?誰かと、演ってるんじゃないから……?あ、うん。誰をも引っ張らなくても良いから。だから、俺はフェスで、孤高の――と思った……?」
「何を、言ってるんだ?」
文彦の呟きを、淳史はわかりかねて、呆れたように溜め息をついた。
「いつも、そうなのか?」
「え?」
今度は、文彦が淳史の言葉を理解しかねて、視線を投げた。
「音と本人が違う」
「本人……俺のこと? そう?」
「演ってる時は圧倒的なのに――色気と心地良い安堵とアンニュイさ――それに時折の不安定さが人の心を惹く」
「何? 俺のこと評価してくれてた?」
文彦は悪戯そうに微笑すると、白い首筋を指先で撫でた。
「本人は、不安定さに時折の安堵、だ。逆だ」
「それはどうもありがとう」
文彦は大人びた微笑を浮かべて、それから鳩のように咽喉でくっくっと笑った。
「意外と、面白い言い方するね」
「そんなに頭が飛んで、しんどくないのか?」
「……?」
文彦は、掌をひらりと軽く振って、言葉を紡いだ。
「この世界と、半音高いところに扉はあって。そこに行くんだよ」
文彦の囁きを、淳史はただ黙って、じっと聞いた。それから、おもむろに口を開いた。
「何だか、ある日ふらっといなくなりそうな気がする。音楽の中では、人と演り合って、確かで、愉悦さえ感じるのに――現実では誰を見て生きてるんだ」
「え……?」
戸惑うように、文彦は瞳を大きく開いて、淳史を見上げた。
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