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第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 1
「え、まさかこれで行く気?」
文彦は目の前の白い車を、辟易したように細い指で示した。
低重心の車体は、風に流れていくような流線型のラインを見せて、すぐ近くで静かに美しく停まっている。
「何が?」
「だから、良い場所じゃないって言ってるだろう?」
「それが何だ?」
文彦は、ジャズバーミスティの外壁にもたれて、示した指先をくるりと回した。
「目立つ車では行きたくないな。例えば高級そうな、例えばポルシェとか」
文彦はわずかに微笑したものの、その奥で何を考えているまでかは計り知れない。
「俺の車をまわしてくるよ。あ、でも、こんな車をこの辺りに置き放しもな――住んでる場所は遠い?」
「ここからなら車で二十分というところだな」
「じゃあ、近くまで迎えに行くよ。連絡先と、あと家の近くで待ち合わせになるような場所を教えて」
淳史は黙って腕組みしていたが、やがてゆっくりと頷いた。
普段の現実に興味もなさそうな気だるげな文彦とは違う、冷静に手早く物事を進めていく様子を、淳史は意外そうな表情で見直した。
宵に薄紫に染まる空の下で、やわらかくうねった栗色の髪は、白い頬に落ちて風にわずかに揺らめいている。
長い睫毛の瞳を、淳史にだけ向けて、尋ねるようにゆっくりと瞬いた。
淳史は、秀でた額に幾筋が落ちた前髪を指先で払いのけると、奥底まで見透かしてしまいたいかのように、切れ長の両眼をすっと細めた。
「連絡先は?」
「ここに」
淳史はポケットからスマホを取り出した。
連絡先を交換して、淳史が家の近くの目ぼしい場所を伝えると、文彦は、ひゅう、と細く口笛を吹いた。
「?」
「いや、良いところに住んでんね。知ってる人の近くだ」
淳史が伝えた場所の周りは、どっしりとした低層階のマンションや、大きい一軒家が並び、輸入家具屋や隠れ家的カフェ、セレクトショップが合間に建つ街だ。
駅前にまで行けば高層マンション、オフィスビル、複合施設などが近頃どんどんと建設され、改めて注目されている。
「じゃあ、わかるか?」
「まあね。俺には縁のない場所だけど。この辺りに何度か行ったことがある」
ふっと唇だけで微笑すると、文彦は軽く片手を上げた。
「じゃあ。三十分くらいで行けると思うよ」
そのままくるりと背を向けて、すいと歩き出した文彦に、後ろから声がかけられた。
「また後で――待ってるよ」
思いもかけず、艶のある澄んだ声だった。
(また後で。待ってるよ)
肌の上で弾けるように襲ってきたデジャヴュに、文彦は思わず振り返った。
「公……」
そこまで言いかけて、文彦はハッと口を噤んだ。
強く吹きすぎていく風――髪を乱し、シャツの裾を乱し、心を乱して、ただ吹きすぎていった。
その後には、現実だけがあって、文彦の振り返った先に立っていたのは、長身に黒い服を纏って、すらりと立っている淳史の姿だった。
「あ……」
文彦は瞳を閉じた。
はにかむような微笑み、温かな指先、文彦の記憶からこぼれおちていく思い出の花びら。
「どうした?」
低く通る声は、淳史のものに外ならず、他の誰かに似ているわけなどなかった。
「いいや、何も」
文彦は自嘲気味に、悲し気に笑った。
淳史は何かを問いたげに唇をひらいたが、文彦がそれを遮るように言った。
「じゃあ――また後で」
文彦は数歩後退るようにして、それからはもう、振り返りもせずに歩き去っていった。
その細い後ろ姿を、淳史はしばらく唇を引き結んで見送っていたが、やがてホワイトメタリックカラーの外車へと乗り込んだ。
「『ルナ・ロッサ』までは時間がかかるのか?」
「そうでもないよ――埠頭のほうへ出るけどね」
文彦は、ビートルを運転しながら、助手席に座る長身に答えた。
ツードアの、丸みを帯びたアーチラインの車体は、安定感をもって走っていく。
ストーンウォッシュの外装色と同じ色のインストュルメントパネル、適度な硬さのシート、文彦はその中で手馴れた運転をした。
淳史はレザーシートに深く静かに座って、自分の思いに沈んでいくようだ。
流れていく景色に正面を見据えて、彫刻のように鼻梁の高い端正な横顔で、薄い唇を閉ざしている。
上がり眉は少しひそめられて、切れ長の眼は移り変わっていく街並みを見ている。
(まあ、そうだろうな)
灰色の町並みは、淳史が住んでいる場所とは大きくかけ離れているのは明白だ。
海沿いを走って、工場のそばを抜け、並ぶ倉庫を後にしていく。
まばらな雑居ビル、忘れられたかのように、たまにポツンと現れる小さな店。
文彦は軽い仕草でハンドルを切ると、隣に萩尾淳史がいることに、かすかな不思議さを感じずにはいられなかった。
ジャズシーンでは時の人、ジャズの貴公子などと言われて、文彦とは行く道が違っていた。
フェスで初めて直に顔を会わせて、それから間もなくこうして、狭い車内で隣り合っている。
ましてや、こんな淳史に似合うすべもないグレーの寂寥とした風景の中を分け入って。
(何の因果なんだ)
文彦は、もうあまりいざこざには巻き込まれたくない。
それなのに、案内など引き受けてしまった。
そのことは文彦をの心を深く沈ませた。
遠くを見るように瞳は揺らいで、唇は細く息を吐く。
灰色の町並みがすぐ近くまでやってくると、文彦の体にわずかな緊張が走っていく。
遠いあの日、しがらみを引き千切るように、振り捨てて出て行った灰色の町。
工場の倉庫横の埠頭で、文彦は一旦、車を停止させた。
ウィンドウを下げれば、重い潮風が舞い込んで、栗色の髪を嬲っていった。細い指はハンドルを握りしめたまま、白くなっている。
曇った空の下で、行き場を見失って戸惑う天道虫のように、ぽつんと車は停まったままでいた。
コンクリートの先でくりかえし、鈍色の波間が白い飛沫を打たせている。
「どうかしたか?」
「いや、何も――」
ぬかるみのように澱んだ波の匂いに、文彦は弓なりの眉をそっと寄せた。
「行くか」
それは誰に言ったのか?
文彦の言葉は独り言のようでいて、見えない誰かに投げかけるようでもあった。
(店先までだ――もうすべては、運命のまま)
文彦は、シャツの下にある、細いチェーンに通されたシルバーリングを布越しにぎゅっと握りしめた。
「頼む」
淳史はそう言うと、すぐ隣で、ぐらりと歪むように雰囲気の変化した文彦を、問うようにわずかに眉をひそめて横目で見やった。
灰色の町を茫洋と見渡すように、文彦はただ前を見て呼吸を繰り返している。
色素のうすい体で、指先は白く胸元を握りしめ、水彩画の中でまどろむような瞳をしている。
それは現在と過去、遠くと近くを、判然としないまま見つめているようで、どこか危うかった。
「大丈夫か――?」
指先を上げて、淳史が文彦の尖った肩に手をかけようとした数瞬だった。
文彦は静かに瞳を閉ざし、そしてすぐに、再び目をひらいた。
「大丈夫って?」
正気を取り戻したようにきらりと瞳を光らせた。
淳史は伸ばした手を留めて、すっと腕組みをした。
「いや、何でもない」
「そう?」
淳史は、文彦の雰囲気が変化するアップダウンを思案気に、それでいて興味深そうに、片眉を上げて眺めていた。
文彦はそれを見るともなく、軽い微笑を浮かべてハンドルを回し、灰色のコンクリートの通りへと向かった。
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