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第一章 ソウル・トレーン (music by JohnColtrane’s album)8
「萩尾……」
ステージ袖に忽然と姿を現した、すらりとした長身が、薄暗さの中でさらに濃い影を落とした。
相変わらず、ひやりとした空気を纏いつかせているようで、首筋へと髪筋の流れた黒髪と、黒い服装がさらに冷たい印象をもたらしていた。
ズボンのポケットに指をひっかけて、文彦を見下ろして立っている。
(孤高の――)
その後に何と続けるべきだったのか?
文彦は心にふと落ちた言葉をもてあますように、誰をも寄せ付けないような厳しいオーラを持った端正な姿を見た。
「俺に、何か?萩尾――さん?」
「淳史で構わない」
言葉は簡潔で、揺るぎなかった。
文彦が顔を上げると、二人の視線が合った。
(あ、また)
ぱちり、と肌が軽く粟立つ感覚があって、文彦はそのことにわずかに首を傾げた。
淳史もまた一度瞬きしてから、何か言葉を呑むように唇を引き結んだ。
それから、うろんそうに文彦を見下ろした。
「あ」
予想だにしない訪問客に驚いていたが、文彦は自分が床に倒れた状態で、さらにセイを体の上に乗せているという異例な状況であることに、ようやく思い至った。
「文彦」
セイもまた文彦と同じだったように、ハッとして起き上がった。
「もう、大丈夫?」
ゆっくりとそう尋ねた文彦に、セイは立ち上がって頷いた。
「ああ」
セイは片手を伸ばして、文彦の細い腕をつかむと、黙って引き起こした。
「ありがとう」
「それは、こっちこそ……」
助け起こされて礼を言いながら、軽く微笑した文彦は、ただ優しい眼差しをセイだけに向けた。
上がり眉をわずかに顰めながら、淳史はその様子を見ていたが、おもむろに口を開いた。
「今井ミチルを見かけなかったか?」
「ミチル……?」
文彦の心は、ふっと追憶に飛んだ。
思い出すのは、あのジャズフェスの夜の中で、瞳を見開いたままピアノを弾いていた小柄な姿。
まるで追い詰められて、断崖に立ち尽くして、嘆くようなピアノの音。
「あ、萩尾淳史のピアノだ」
軽く指を鳴らすような仕草、文彦は真正面から淳史を見た。
「俺の?」
淳史は、深い縹色をした文彦を瞳を受け止めると、問うように見返した。
「だって、そうじゃないの?あのピアノは、萩尾淳史のサックスを支えることしか――あ、そうか。だから、カルテットなのに演り合ってなくて――何だかとても必死で、サックスについていきたいって音だけだったよ。ドラムとベースにまでトークが回ってなかったよ?だってそれは、萩尾淳史が技巧を上回るから、その隙間を埋めて支えたいんだよね?もう自分のピアノなんて弾く余地もない――」
「文彦!」
遮ったのは、関西弁のイントネーション。
のっそりとした見かけや、普段の間延びした口調からは思いもよらない強い語気に、三人はいっせいに竜野を振り返った。
ともすれば、そこにいることも忘れていたくらいだった。
淳史は、複雑な表情のまま腕組みをして、形の良い顎を、考え込むように指先で押さえた。切れ長の眼は、鋭い光を帯びて、文彦を見据えた。
いつもは受容的で優し気な雰囲気をした文彦が、音楽のことになると、ことさらに直情的で核心をついてしまうことを、竜野はいやというほど見てきていた。
文彦の中にある厳格さは、まったくをもって音楽だけで、その他には見当たらない。
それは、あまりに恵まれない環境で、あまりに厳しい人生で、それでも弾き続けることを止められなかった文彦の、容姿とはかけ離れた、秘められた激情だった。
その激情がなければ、文彦はピアニストにはとてもなれなかっただろう。
今も顔を上げて歩いていはしない。
その非凡な魂が人を引き寄せることもあれば、鋭いナイフになって人を襲うことも、竜野は知っている。
「文彦……ええんやで。人は人で」
その言葉を、文彦はうすく唇をひらいたまま、遠くを見つめるように、首を傾けて聞いていた。
煙るように焦点があやしくなっていた瞳は、一度瞬きすると、ふっと目が覚めたように辺りを見回した。
竜野はかすかに目尻を動かして、悲しそうにそのほっそりした姿を見た。
恐らく、あのジャズ・フェスでの演奏に、文彦の頭は飛んで行ってしまっていたのだろう。
ふっと現実からすぐに手を離してしまいそうな。
何処にも場所を決めずに、ふらりといなくなってしまいそうな。
文彦のそんな危うさが、竜野に「根なし草」と一番最初に言わせてしまったのだ。
「今井ミチルのことを、どうして俺に?」
文彦は、瞳を瞬いて淳史に向き直った。
「この辺りで見かけなかったかということと――それから、『ルナ・ロッサ』で」
「え……?」
すうっと文彦の顔が白く色を失った。
「ミチルが最近、そういう名前の店に行っていたみたいだと、人から聞いた。正確に言えば、ミチルが同棲している彼女、だ。その店の話の時に、高澤文彦という名前を聞いた、と」
「何……を?何を、聞いた?」
「以前に、そんな名前のピアニストが店にいた、と。もしも場所を知っているなら、教えて欲しい」
「子どもでもあるまいし、電話でもすりゃいいじゃない。本人に直接聞けば」
「いやー―スマホが繋がらない」
「警察には?」
「いや、まだ大きな沙汰には。目ぼしい場所を探してから」
「他に当たりはあるの?」
「いや、もうだいたいは探して来た。後は、かすかな痕跡をたどるしか」
(それで、最後に俺のところへ来た、というわけか)
文彦は、物憂げに唇だけで微笑した。武藤と並んで立っていた文彦を、冷たい視線で見やった淳史の姿を、ふっと思い出したからだ。
「この辺りに、今井は出入りしてへんで」
うっそりと、しかしはっきりとした真意のこもった口調で、竜野が呟いた。
「見かけてたら、わかる」
淳史はしばらく竜野の面長な顔を眺めていたが、しばらくして、文彦に向き直った。
「『ルナ・ロッサ』を知っているなら、案内してくれないか?」
口調は丁重だったが、人に有無を言わさない強さを孕んでいた。
文彦は無表情になって、ただ言葉を紡いだ。
「あまり良い場所じゃない」
「それなら、なおさら――ミチルが出入りしていたのなら、確かめに行く」
「いい大人なんだろう――?一人になりたい時だって、あるんじゃないのか?そんな探し回らなくたって」
「それは、知らないからだ――ミチルは以前もこんな状態になったことがある」
「ふうん。それは、もっと根本的な問題だね」
推し量るように、淳史は鋭い眼で、文彦を見据えた。
文彦は心の動きを表情に浮かべておらず、ただじっと淳史を見返しただけだった。
二人の間の空気は張り詰めて、ピリピリと一触即発しそうだった。それはまるで敵意のような、それでいて、お互いに避けたいかのような。
二人とも何かに苛立ったかのように、そしてその感覚から回避してしまいたいように、交わしていた視線をすっと外した。
セイは一歩下がって、驚いたようにアーモンドアイを見開いて、文彦を見た。
出会った時から、セイにとっては兄のようであり、美しい優しさをもって接してくれていた文彦から、初めて見る姿だった。
「ああ、もういい。店先まで案内してやる。その先は自分ですれば」
文彦は視線を下げて、細い指先を弄びながら、呟くように言った。
「ありがとう」
その声は低く、ゆっくりと沁み入るようだった。
文彦は思いもよらなかったように、ふいと顔を上げた。
再び交わった視線は、今度は花びらが地に落ちていくように、かすかで静かに溢れていく。
文彦はわずかな戸惑いを浮かべて、不思議そうに一度だけ瞳を瞬いた。
「外に俺の車をつけてある」
淳史は指先をズボンのポケットに引っ掛けると、促すように文彦を見た後に、踵を返して大股に足早く歩き始めた。
「ちょっと、行ってくる」
「ああ」
奇妙に緊張感の漂う二人のやり取りに、しばらく押し黙っていた竜野だが、頷くと文彦が歩き去るのを目を細めて見送った。
(さあ、ゲームスタート――厄日だな。あの場所にまた行くなんて)
文彦は白い横顔で、沈んだまま心を決めたように、ドアを開けた。
それが、淳史を深く関わり合う一歩になるのだと、この時はまだ知らないままに。
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