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第一章 ソウル・トレーン(Music by JohnColtrane’s album)7

「そうか……俺がいて、良かった。俺は、大丈夫だからね……」  そっと驚かさぬように注意しながら、文彦は手を伸ばして、にじんだ汗で額にはりついた黒い前髪を、ふわりと払った。  びくりと痙攣したが、さして抵抗はなかった。 「俺はわかるから――大丈夫だよ。竜野さんは、来ないように止めたから。あの人は、セイがこういう時は俺じゃないと駄目だって、うすうすわかっているんだろうし」  うつろう夜に人相手に商売を続けてきた竜野の、間の抜けたようでいて、人に問わぬままに心を汲み取る能力に、文彦は信頼と安心を寄せている。  あの日、セイに起きたこと。  その場所へと一番最初に赴いたのは文彦だったこと。  そしてセイは、文彦には心を許していることで、竜野は二人を見守っていることに決めた節があった。 「……どうしてだ」  焦点の合わぬ眼を見開き、セイは文彦を見上げた。  震える手で薄い肩をつかんで、文彦をすがるように見つめている。 「……どうしてだ。どうして、俺なんかに――あいつは……」  その先を言い続けることが出来ずに、おこりのように震え出し、やにわに思いがけない力強さで文彦の腕を引いた。  突然の出来事に、反動で文彦は床に押し倒された。  セイが同時に、急に力を失ってしまったように、ぐらりと倒れて、文彦の胸の上に突っ伏した。  文彦は、セイの重みを体の上に感じながら、なされるままじっとしている。 「セイ」  声は、母親があやす素振りに似ていて、甘く響くほどにひどく優しかった。 「あれは……ぽかりと空いた黒い穴みたいな、冷たい両目で――」  文彦の胸に、セイは頭を乗せて、嗚咽していた。 「ゆっくり、息を吐いて――そう。自分を責めたら駄目だ」  細い指が、限りなくそっとセイの黒髪に触れ、しばらくしてから、髪先に指を絡めるようにして、さらりと梳いていった。 「ゆっくり……息を吸って、吐いて。セイ……」  セイは文彦の白いシャツを握りしめたまま、言われるままに呼吸を繰り返している。 (あの日もこうして、セイに声をかけていた――)  破壊されたように散らかった、真っ暗なセイの部屋で。  それは、セイに付き纏っていたストーカーによって、もたらされた凶悪な出来事だった。  野性的にさえ見える雰囲気をして敏捷な体を持ったセイは、わずかに年下の男に、通常なら抗えたのかもしれない。  男は、セイの留守中に部屋に不法侵入し、真っ暗な部屋で一人待ち、セイが帰宅してドアを閉めた瞬間を狙ってバッドで殴り倒したのだ。  大きく呻いて昏倒したセイは、そのまま引きずって行かれて、服を剥がされた。  殴られながら争い、抗い、暗闇に互いの荒い呼吸が響く。 乾いた手が撫でまわし、唇を押し付け、探ってくるのへ、セイはぞっとして凍り付いた。  その途中で警察が飛び込んで来たのは、帰宅したはずのセイを追って、文彦がその古いアパートを訪れたからだった。  閉まっているドアの中で、不審な物音が続いていて、文彦は悪い予感に胸騒ぎがして、すぐに強い口調で警察を呼んだ。 「セイ。俺は、ここにいるから」  あれから幾度と繰り返してきた言葉を、今日も飽くことなくゆっくりと穏やかに囁く姿は、幼子にむかう母親の優しさに似た。  セイは頭をそっと撫でられながら、静かに目を閉じた。  少しずつ落ち着いてきたことを確かめて、文彦は安堵の吐息をふっと漏らした。 (可哀そうに。俺とは違うもの)  突然の暴行、突然に襲い掛かってきた真黒な執念。 (思いもよらないことだっただろう……)  破壊によって知らされる、自分が無力であること。  ただ殴りかけられた欲望は、自分をずた袋のようにしてしまう。  文彦の胸の中に朧にのぼる、過去の心を蝕んだ衝撃が、ゆるやかに広がっていった。  裏切り、欲望、金、それから―― (あの男はセイのファンだった)  文彦でも何度か顔を見た覚えがあった。  セイはシンガーとして、ステージで歌っていただけだ。  鋭い感受性と、心の皮の薄いような繊細さを併せ持ったセイは、相当な衝撃を被って、ステージに立つことも困難になっていたのが、ついこの間のことだ。  また必ず戻る、セイはそれだけを繰り返し続けた。 (そう、セイは俺とは違う)  堕とされていくからこそ、弾き狂い、歌い狂わなければ生きていけなかった文彦とは。  弾き続けろ!と揺さぶられ続けた運命を、あまりにも酷い、とうつろに微笑した幾つもの瞬間。 「Lullaby of birdland……」  文彦は子守唄のように低く歌い、セイの温みのある背中を、トントンと指先で軽く叩いた。 「バードランドの子守唄」はリンキングされた英詞で、やわらかく水面に葉がたゆたうように、歌われて続いていく。 (肉体はどうあろうとも魂まで汚されたりはしないんだよ)  言葉にならずに心でそう語りかける。  セイにも語らなくてもいつかわかるだろう、と文彦はひっそりと思う。  なぜならセイもまた音楽を求め、やはりミューズを追う人間に違いないのだから。  どれほど誰かが心を尽くしても、どれほど身体を砕いて与えも、本当の最後には人は、自分自身で己を救っていくのだ。  差し出された手を選ぶのも振り捨てるのも、愛に心ひらくにも閉ざすにも。  いつもその時は、己の手の中にある。 「文彦」  ふっと、セイは名前を呼んで、きらりと光る黒い瞳を上瞼に引き付けて、文彦を見上げた。  その瞳が確かな光を帯びているのを確かめて、文彦は軽く微笑んだ。 「もう大丈夫だね」  そっとその頬を掌で撫でた。 「――ありがとう」  ごめん、とこの時に口にしないのが、セイの美徳だと文彦は思っている。 「文彦、ええか?」  少し離れた距離から声が飛んできた。  竜野の関西弁が、文彦とセイの意識を現実のステージ袖へと引き戻した。 「文彦に、人が来てる。ちょっと訊きたいことがあるいうて」 「誰?」 「萩尾淳史」  文彦はジャズフェスで見た、冷ややかでさえある端正な顔立ちと、瀟洒な姿を思い出した。同時にそのサックスの超絶技巧の音が、頭の中で否応なしに鳴り響いた。 「え? どうして、俺に――」  何の用で? そう続けようとしていた文彦の言葉は途切れた。  目の前に、萩尾淳史の長身が現れたからだった。

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