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第一章 ソウル・トレーン(Music by JohnColtrane’s album)6
「昨日の今日やもんな」
文彦は後ろ手に扉を閉めながら、問うように片眉を上げた。
「大きいところで演った日はあまり寝れんやろ? いつものことや」
のんびりとした関西弁でそう言いながら、手は素早く動いている。
入ってすぐに銀色のスツールの並ぶカウンター、右手の奥にライブステージ、その前はライブ客席、それから後方に薄暗いボックス席になっている。
ステージに上がるプレイヤーを組んだり、売り上げの管理、それから酒出しまでを竜野が切り盛りしている。
ドラマ―としてより、こちらが本業のようになっている。
文彦はこの店に居ついていた。
文彦はステージに上がらなければカウンターにでも入るし、バーテンもやる。
求められればピアノも、弾き語りもやるし、今ではこの店の看板になっていると言っても良かった。
「はい」
「?」
竜野はカウンターに硝子皿をすべらせた。
そこには綺麗に盛りつけられた、トマトと海老の冷製パスタ、蒸し鳥スライスのソースかけ、温野菜などが並んでいた。
「またどうせ食べてへんやろ?」
「あー……ウィスキーは飲んだな」
「それは食べた言わへんで」
「まあ、そうね」
「とりあえず食べよし」
また竜野が作業に戻っていくのを見ながら、文彦はスツールに腰かけて、フォークを手に取った。
「文彦も料理覚えたら?いつまでも不摂生やんか」
「あー……俺、味わかんないんだよね」
「まさかそれも不味いとか思うてないやろなぁ?」
「それは、ないよ」
文彦は慌ててフォークで料理を口に押し込んだ。
しかし、咀嚼は遅く、飲み込むまでに時間がかかった。
「ほんま作り甲斐がないなぁ。こうやっぱり喜んでくれる人にはどんどん出したくなるで」
「それはまあ、そうだろうね」
「ありがとう、とか、美味しい、とかたまにはリップサービスくらいあってもええんちゃう?」
とぼけた顔で言う竜野が、本気で言っていないのは文彦にはわかる。
そういう見返りも求めないくらい、竜野という男は本気で世話好きなところがある。
文彦は微笑して、じっと竜野を見つめた。
「いつもありがとう」
「なんや急に。改めて文彦に言われたら照れるわ」
「ほら」
文彦は声を上げて笑って、もう一口頬張った。
その時に、ガタン、と音がして二人は同時に顔を上げた。
すぐに言葉を発したのは竜野だった。
「セイ!」
「え?」
「セイが、そこのステージ袖で楽譜を探してたはずや」
「セイがいたのか!じゃあ、あの物音はセイ?」
竜野が曇った表情で頷きながら、カウンターから出ようとした。
文彦は、日頃の気だるさを置き忘れたような軽い俊敏さで、弾かれたようにスツールを滑り下りて駆け出していた。
もう竜野を見もせずに、セイのいるほうへと竜野が動こうとしていたことだけを、ひらりと片手を振って制止した。
竜野がふっと止まったのを横目で見て、影になっているステージ袖へと素早く踏み込んだ。
照明の落とされた、道具が雑多に置かれた狭い空間で、一つの人影がうずくまるように倒れていた。
「セイ」
そこまで駆けて来た文彦は、ステージ袖に入るなり、まるで物音を消したいかのように足音を潜めた。声も囁くように静かだった。
「セイ。俺だよ」
何度か見てきた光景に、文彦は柔らかな睫毛の瞳を、一度だけ瞬いた。
その肩が呼吸に上下しているのを確かめてから、静かにしゃがむ。
過去の多くの人間から読み取ってきたこと、そして、何より文彦が遭ってきたこと。
それらが一気にセイの上に重なって、文彦は息を吸い込んだ。
(いやな感慨だ)
セイにではない。
セイがこうなってしまった出来事に。
「俺だよ、文彦だよ。セイ」
過呼吸になりそうにないことを確かめながら、低くもう一度、名前を呼んだ。
セイからは何の応えもない。
ただセイの顔がほんのわずかに動いて、切れ長の黒い瞳が、文彦を捉えようとした。
(今日は、それほどひどくない)
それは、文彦の体に染みついた嗅覚だ。
「……文彦」
耳をそばだてていなければ聴こえなかっただろう。
それほど微かな、おののくような声。かすれた、まるで乾いた唇で絞り出したような。
文彦はめまいがするようだった。
できる限り、内心を透かさない、穏やかな微笑を浮かべながら、文彦はセイの体が大丈夫かを確かめようと近寄った。
「……ッ!」
悲鳴にはならない、声なき叫びを上げて、セイは飛び退った。
文彦は急なことに驚いたが、それを顔に出さずに、ゆっくりと唇を引き結んだ。
セイは壁際で、両腕を抱えて、開いた口を掌で塞いでいた。
一重のアーモンドアイは光を失って、今は黒ずんだ隈を刷いている。
浅黒いなめらかな若い顔には、ついこの間のジャズフェスで見せた、全身から立ち上るような生気は、何処にも見当たらなかった。
体を硬直させて、わずかに震えている。
「……大丈夫。俺は大丈夫だからね……」
怯えた子どものように文彦を見上げると、セイは苦悩に顔をゆがめて、頭を抱えた。
(だからといって、このままじゃいられない――)
ただ遠巻きに見て、その傷から避けていたって。
たぶん遠回りに、セッションだけを共にして、熱い時間を過ごしているだけでもかまわないのだ。
どんな傷痕もセイにはなかったのだと――そう口をぬぐって、新しい楽しい記憶だけを重ねていくだけでも。
(でも、それは、あまりにも……孤独。こんなフラッシュバックの中で)
誰も知らない、このセイの傷痕。
この若い友人を、文彦は自分が癒せるとは思わなかったが、ただ寄り添うことだけはやめたくなかったのだ。
(それは、セイのため?それとも、俺のため?)
時折、文彦はわからなくなる。
目の前で、怯えて混乱するセイの空気にのまれて、文彦も黒い渦の前に立っているような錯覚に襲われた。
「俺が、そばに行ってもいいね?」
なるべく柔和な微笑をするように努力して、文彦はセイに近寄った。
セイがそれ以上、身じろぎもせずに壁際に座り込んだままなのを見て、文彦はすぐそばへと跪いた。
「――俺が、触れてもいいね?」
そう繰り返し確かめた、その理由こそ文彦は言いはしない。
けれど、文彦の言葉の奥にある、密やかに含めた口調に、セイは力なく首を横に振った。
「またフラッシュバック、した?」
文彦は、今度ははっきりと訊いた。
セイは唇を震わすと、かすかに頷いた。
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