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第一章 ソウル・トレーン(Music by JohnColtrane’s album)5

 文彦の一日は長い。あまり眠らぬたちなのだ。  昨晩はジャズ・レイク・フェスから、自分の車でふらりと気まぐれに大回りして、帰宅したのは夜半も過ぎて朝焼けも昇る頃だった。  ふっと文彦の頭の中で一つの声が鳴る。 (ねえ、知ってる? 朝焼けは金色なんだよ)  それは過去という鳥籠に閉じ込められて、二度とは羽ばたくことのない思い出の中だけの、とても清らかな声だ。  明るくなる空を見つめながら朝方に眠り、半覚醒のままベッドにゆらゆらと起き上がった時には、昼も間近になっていた。  白い部屋の中で、昼になりそめる不躾で遠慮のない陽射しが、カーテンを透かして部屋のあちこちを照らしていた。  文彦はその陽射しが痛いかのように目を細め、そのままぼんやりと座ったままでいた。  簡素な部屋は、冷蔵庫、縦長のミラー、棚に分けられ整理されたスコア、壁際で黒く光るアップライトピアノくらいだ。  手さぐりで眠る前に飲みかけていたウィスキーのグラスを取り、文彦は細い咽喉を反らせて一気に流し込んだ。  時間は文彦のまわりととろとろと過ぎていた。  袖をまくった白いシャツ一枚の姿で、つと掌で、太腿から平らな腹、なめらかな胸、首、そして小さな顔へと撫ぜた。  ゆっくりと顔を振りやり、ミラーを見た。  そこには、細くて白い一匹の生物が映っている。  文彦は鏡へと這い寄ると、手を伸ばして冷たい鏡面に触れ、検分する凍てついた瞳で自分の姿を眺めた。 (ち――)  ふいに生気なく瞳を閉じて、だらりと腕を下ろした。 (これほど時が経っても――)  体についてしまった習慣、とは取れ難いものなのだろうか?  自分はまだ美しいだろうか? と推し量っていたことに、咽喉の奥から苦々しい味がのぼってくるような気がして、文彦は軽い吐き気に襲われた。 (俺の外見がどうでもあろうとも)  強い想いは心に満ちて、溢れてこぼれ落ちていく。 (もう俺の音には何ら変わりはない。それを人がどう思おうとも。人が俺をどう呼ぼうとも)  たまに一部の男に、淫売と揶揄的表現をされているのを、文彦は知っている。  好意的には文彦のジャズはセックスだ、程度に語られることも、文彦は単純には喜べない時期があった。  自分の人生の何かが透けて見えるのだろうかと、そんな気持ちに苛まれて、夢見は悪い。 (セックスが一体何だ。それが望もうと、望まなかろうと、やってきただけだ。そしてそれが一体何なんだ? 俺のピアノには変わりはない。この想いは誰にもわからない)  とんと床へ下り、壁際のアップライトピアノの前で、素足の膝を抱えた。 白いシャツのボタンを二つほど外すと、くっきりとした鎖骨を垣間見せながら、胸元から細いチェーンを引っ張り出した。  そこには細かな彫りのシルバーリングが通されていた。二羽のよりそう鳥が流れる文様のように彫銀されている。  限りないやさしさを込めて、指で触れる。 閉ざした瞳は夢幻の狭間にたゆたい、ひっそりと一つの名を呼んだ。 (公彦)  兄弟みたいだね、と笑った若い顔は、未だ文彦の中にある。  果たして文彦が去ったのか、公彦が去ったのか、一つの悲しみはひっそりと、静かに文彦の心の一部になってしまっていた。  棚のスコアの並ぶ端から、はみ出てしまった折り皺のついた紙切れ。  それは文彦の瞳を物憂くけぶらせる。  薄暗いジャズスポットの写真、日時や場所が印刷され、メンバー四人の名前が銘打たれて印刷された古びたチラシ。  過去にただ一度だけ文彦が契約したカルテット。  今も過去を映す、チラシの中の変わらぬ小さな写真。  ドラムの前に口髭の堂々たる体躯が立ち、その横でねじれた縄のような太い腕にベースを抱えた男が笑い、右側にサックスをかまえた若い姿が映っている。  そしてピアノの前に座る文彦自身の姿もあった。  それは今より若く、どこか頼りなげに佇んでいる。 (在りし日の――か……公彦)  サックスをかまえた青年のままで変わることのなくなった幻影。  誰かの魂を信じるなど、考えてもみなかったあの頃。  文彦は、いたずらそうに澄んだ瞳が見えるような気がした。  外からは工事の音が響いている。近々完成予定のマンション工事だ。  その音に現実に引き戻されるようにして、文彦は軽やかな巻き毛を片手で乱した。  アップライトの蓋を開けるとその前にゆっくりと座り、思いつくままに細い音で弾いた。  ボサノヴァの「カーニヴァルの朝」のリズムを静かに刻み、物悲しい音を細く繋げていく。「黒いオルフェ」の主題歌は哀愁と美しさが共存していて、白い指がそれをきらめきの朝光の粒のように放っていった。  そして、それはその先で吸い込まれるようにして消えた。  美しい朝。それはただ、あなたの瞳、あなたの微笑み、あなたの両手を歌っている――  それはどんな朝だっただろうか?  文彦はかすかな感覚を呼び覚ますように、音をピアニッシモにまで下げた。 (まるでオルフェだった――俺にとっては)  そう、過去のすべてはかえらずに、掌からさえもこぼれ落ちていく。  ふと指を止めて、文彦は椅子に背をあずけた。  両手をひらくと、目の前にかざし、何処を見るとでもなく眺める。  しばらくそのままぼんやりとしていたが、やがて軽い仕草で立ち上がった。  ポケットに指をかけて、文彦はすべるように海沿いの街を歩いていく。  少し奥まった路地の中を進んでいくと、並ぶ建物の合間のとある通りへと辿り着いた。  煉瓦倉庫や、建物に港町の情緒を醸しつつ、その通りには「ミスティ」、それから「キャナル」、「トップ・オブ・ザ・ワールド」などのライブバ―が軒を揃えている。  この界隈で最も歴史や高名さがある大きな店が「キャナル」だ。かつては萩尾淳史がここでよく演奏していた。  「ミスティ」は小さめでセンスがあり、通の穴場として名が通っている。  この一帯はリフレイン・ストリートと呼ばれていた。  店を出ても音の余韻をいつまでもくり返す通り――また別にストリートと呼ばれる地区があり、それと別つためにもリフレインとだけ呼ばれることもある。  まだ午後の陽射しの中では、通りはひっそりとしていて、人影もあまり見かけられない。 夜のざわめきはまだ予感の中に留まっていて、ただオレンジに染まる夕暮れを密やかに待っている。  その中を勝手知った足取りで、軽やかに駆けていく。  秋の青空にはうっすらと白い雲がたなびき、風に乗って運ばれてくる潮の匂いは文彦の胸を満たした。  深い色のどっしりとした木製の扉の前で、文彦は足を止めた。  MISTYと記された看板には、まだいつもの青白いネオンも灯らずに、扉にはCLOSEDのプレートがぶら下げられている。  文彦はかまうことなく扉を開いて、店の中へとひょいと白い顔をのぞかせた。 「今日は早いやんか」  カウンターの中から面長の顔を上げて、にやにやと笑ってみせたのは、レイク・フェスでセッションを共にした竜野だった。  文彦が以前の拠点から流れてこの街へと来た時から、カウンターの中に佇む竜野の姿は変わらない。 (もう何年になるのだろう?)  この扉を初めて開いてから。

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