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第一章 ソウル・トレーン(Music by JohnColtrane’s album)4
「ここなら邪魔されずに聴けるだろう」
「本当だ、武藤さん」
ステージへは少し斜めに外れているが、夜の木陰の下は暗がりに誰が立っているか見え難く、文彦には有難かった。
さらに音は綺麗に響いて来て、武藤の耳の確かさに、文彦はふっと笑った。
「何だ?」
「いや武藤さんは武藤さんだと思って。それだけさ」
「くだらない」
「武藤さんはもう帰るんじゃ?」
「萩尾淳史で終わりだろう?文彦が聴き終わったら帰るさ」
武藤はパーラメントの箱を指で叩き、煙草を一本取り出した。
文彦は武藤の左手からするりと銀色のライターを取ると、武藤が煙草を指で挟んで咥えるのへ、カチリと火をつけた。
すぐにまた左手へとライターを戻す。
文彦も武藤もそれ以上はもう喋らず、野外ステージのほうへと顔を向けた。
既に萩尾淳史のカルテット、ルナー・エクリプスの演奏は始まって、今夜最後の夜間音楽がそこで鳴っていた。
スタンダードはまったく演奏されなかった。イージー・リスニングでもない。
むしろそれと対極だったろう。
くつろいで聴けるようなものではない。
張りつめて難解な前衛的なものばかりだ。
プレイを聴いているには緊張感を伴う。
淳史がサクソフォンを構えて音色を出せば、技巧の入り組んだドライさと、胸苦しいほどの奇妙な切なさが、アンバランスとでもいうべきバランスを醸し出していた。
(支配的なサックス――か)
そんな評を、文彦は読んだことがあった。
ピアノ線の上を歩いているような均衡は、突き放すような冷たさを内包して、好き嫌いをはっきりとわかれさせる。
だがそれは同時に「ああ、なんとなくいいよね」といったような、曖昧な関心の持たれかたをされない。
文彦はゆっくりと瞳を閉じた。
心臓の音のように底ごもるベースが肌へと響き、ドラムのリズムが心地良い。
複雑な音階でアルトサックスが鳴っている。
(どこに――着地する?)
かなりのテンポの速さで、技巧がなければこなせない旋律だった。
サックスからベースへ音が投げられる。
淳史の音は後ろへ引きながら、ベースへとからみ、或いは突き放す。
(何か――引っかかるな。何だろう?)
文彦はパチリと瞳をひらいた。
ピアノの今井ミチルが淳史を見、タイミングを計っていた。
小柄で、ピアノの音と同じ繊細で小作りな顔立ちだ。雪崩れるように転がるようにピアノを鳴らす。
淳史のかきあげた髪から秀でた額へと、汗の滴が伝って落ちた。
汗を滴らせた長身をくの字に折った姿は、眉を寄せ、圧倒的な技巧の合間にセクシーさを見せた。
(あ)
ステージでは、ピアノの指がたまにすべっている。
(心地悪いのは、これが原因か。それにしても……)
文彦はまじまじとステージを凝視した。
(これだけ激しくやっていたらついていくのも大変だろう)
すべては、速まるリズムと超絶技巧についていくため。
唇をぎゅっと引き結んで、ただ音を追いかけていくだけになっているピアニストは、もう一度ほんのわずかに指をすべらせた。
そのかすかな音は、ピアノの嘆きのように文彦には聴こえた。
文彦はいやなものでも見たかのように、下唇を吸い込んだ。
(演り合ってない――どうして?そこで入れ違って、ここでせめぎあって)
無意識に指を空中で動かして、文彦はリズムを取った。
雨が降るように、雲が流れるように、音を投げ合って支え合って、時にあしらって、つむぎ合う。
それが何より高まる瞬間。
文彦にとってセッションは、いつも互いに求め合い、投げ合うリズムは生まれたてのように啼いて、限りを知らない。
いつしか文彦の脳内では淳史のサックスだけが鳴って、それに波が引いては打ち寄せるように、幻想のピアノを鳴らした。
あわい色の唇がうすくひらいて、長い睫毛は震えて、上気したその表情からまるでセックスの姿態を連想するのは難しくないだろう。
すぐそばに立っていた武藤は、口に煙草を挟んで紫煙くゆらせたまま、じっとその文彦の変化を眺めていた。
「あ、駄目だ。今井ミチルがいるのに」
「どうした?」
パチリと大きな瞳を見開いた文彦を、武藤は煙草を吹かして言葉だけで尋ねた。
「いや、そこにピアニストがいるのに。俺が弾いちゃ駄目だって」
「やってみたいか?萩尾と」
武藤は、頭の中で文彦が誰と演っていたかを違えない。
「いや、ごめんだな――俺は。方向性が違いすぎる。頭で作る音楽はツラい。この技巧の遣り合いは、俺がツラいんじゃないかな。ヒドイ目に遭わされちゃいそう」
「そんなタマかよ」
武藤は半ば呆れたように、片頬を歪めて笑った。
文彦が何か言い返そうとした時、客席はワッと拍手が鳴って、演奏が終盤になったのを知って、二人は黙ってステージに向き直った。
アンコールの拍手が鳴り続いて、ステージではもう一度楽器を構え直す姿が見られた。
ごく静かに硬質な音でピアノが鳴って、そこへとサックスが被さった。
「あ……」
ゆったりとしたリズムに、哀しいほど静かでいて、胸溢れるほど切ない旋律が夜を満たしていた。
「珍しいな。萩尾淳史が『レフト・アローン』とは」
マル・ウォルドロンのスタンダードナンバーが響いて、ふっと武藤は文彦に気付いて見下ろした。
指先は首筋に止められたまま、白い顔はさらに色を失って、唇は喘ぐようにかすかに細く一つの名前を呟いた。
それは聞き取れないほどかすかな声で呟かれた名前。
しかしその名前を武藤は知っていて、文彦のさらに近くへと数歩寄って行った。
一人で行ってしまった――そんな哀切なメロディが繰り返される。
「聴くな」
武藤は大きな掌で、栗色の巻き毛を払うと、文彦の耳をぴったりと覆った。
その白い頬に、絶望の雫が伝って落ちてしまわないように。
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