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第一章 ソウル・トレーン(Music by JohnColtrane’s album)3
軽快なリズムで名曲「サテンドール」は、薄暮から移り変わる、夜の空の一番最初の色の中へと放たれていく。
竜野のドラムが得意とする軽妙さで曲は進む。
細いが勁い文彦の指が、白黒のピアノの鍵盤を制し、ヴォーカルを支えるようにコードをつけた。
ひとつひとつの音が噴水の飛沫のようにきらめきながら、そのくせ物憂く色気がある。
セイのヴォーカルから文彦へのピアノソロへと変わり、幾度となくその指でつむがれて、そして変幻するピアノソロが、夜空から降るオーロラのアーチのように瞬いた。
(まだ、この先へ――)
さらに高みへと昇っていく心は押し留めることはできない。
視線で指で音で会話して、音はからまっては離れ、それはまるでくちづけのように文彦の頬を上気させる。
あわい色の唇から溜め息はこぼれて落ちて、頬は仄赤く染まり、白い額にはわずかに無心な少年の面影が浮かび上がった。
睫毛まで濡れたような大きな瞳は潤みをたたえていて、あらぬ方向を見たと思うと、パチリと音に流れて、この音の共犯者たちに向かって悪戯な微笑を投げた。
そのまままたピアノへと視線を落とし、うつむいた姿は、オスロ・ムンクの「吸血鬼」の女に似た風情がある。
(文彦と一度演ると、ヘンな気分になるなァ)
それは竜野の言葉だが、体験したプレイヤーで否という者はいないだろう。
(ねえ、つぎ――)
圧倒的にその白いかいなを拡げて、この場を圧して、矢面に立ってセッションを引きずるように進むのは、明らかに文彦だ。
客席から、数多の熱っぽい視線が注がれて、両手を組み合わせている女性客も見受けられた。
(さあ、ここから、ボン・ボヤージ――「航海の日」へ)
黒白の鍵盤に軽い仕草で指をすべらせ、コードを押さえれば、すぐに竜野が意を察してドラムでリズムをすくい取った。
文彦が作曲した「航海の日」が、波飛沫を上げて大海へと進んでいくように、音は何度も重なっていく。
文彦は音を揺らめくようにドラムのリズムに重ね、ベースのわずかなブレをあおる。文彦が視線で合図を送ると、セイはブレスしてふたたびテーマへと戻る。
(さあ、ここに来い――)
舞いに舞うサロメの白い肢体のごとく、文彦の白い指先は吐息とともに狂おしく、そして時に物憂く沈んで鳴った。
この宴に自ら進んで分け入ったものでないと感じられない、湿っぽい熱っぽさが伝染するように広がっていく。
(さあ、ここへ来い。遠まきにしているだけでは感じられない、この揺らめきの渦へと)
文彦は白い咽喉を仰け反らせ、それからくちづけするように首を傾けた。
そこにセイのヴォーカルが被さるように乗ってきて、文彦はわずかに瞳を閉じて微笑した。
セイはむしろブルージィなほうで、人に語りかけるようなヴォーカルをする。
浅黒い横顔は端然としていたが、その一重のアーモンドアイの眼は苦悩している青年像のように黒く瞬いている。
セイがテーマを歌い終え、その後も文彦はしばらく忘我の中にいた。
ふっと顔を上げて、時が経っているのに気が付いて、文彦は空ろに辺りを見回した。
ステージにはすでに文彦一人きりになっていて、ソロのタイミングになっているのにようやく気付いた。
こうして文彦の意識が茫洋としてしまうのは初めてのことでもなく、客席からは拍手が続いている。それはもう一度、文彦を目覚めさせるかのように。
文彦はけぶるような笑顔を見せて、丁寧に挨拶した。
もう一度ピアノの前に座ると、客席は波が引くように静かになった。衣擦れの音さえ聞こえそうな夜の中で、文彦の声だけが遠くまで響く。
「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」
ここからは、文彦だけの世界となる。
ピアノとともに歌い出す。
物憂くゆらめく声がゆったりと歌う。
荒ぶることのない包み込むような声が、深海へ沈むごとく空気を覆うと、会場に満たされるのはいくつもの細い溜め息だった。
文彦一人となった途端、漂う空気はまた変革を迎えていて、さきほどとはまた違うステージなのだと聴くものに思わせる。
そのインティメイトでありつつ、不安と安堵を交互に誘うような演奏が、文彦の特徴だ。
甘い優しさなのか、性質の悪い蠱惑なのか――
曲はそのまま、この前にセイと共に作曲した「それは決して愛ではない」へと続いていく。
破綻しそうでいて、まったくブレずにゆるりとリズムは鳴る。低い讃嘆の声が上がって、終盤には拍手で満たされていた。
(良かった。でもまだ足りない)
そう、今夜も。
高揚して微熱に浮かされた体のまま、文彦がステージ袖へと下がると、すぐにセイが現れた。
「文彦」
「大丈夫だったろう? 俺となら――セイ。良かった」
「ん」
頬を紅潮させて、プレイの余韻を引きずって呼吸の速まっている文彦を、セイは眩しいものでも見るかのように眺めた。
サッとすぐ横を、背の高い人影が通って行って、文彦はわずかにそちらを見た。
目が合った瞬間に、バチリ、と何かが弾けるような気が文彦にはした。
(萩尾淳史)
人を凍えさすように冷たく、鋭い視線がそこにはあった。
無表情にさえ見える端正な横顔に、普通なら臆するかもしれなかったが、文彦はわずかに肩をすくめただけだった。
次の出演となっていた敦史は、しかしすぐに歩を速めた。
「笑ってミロール、だな」
「え?」
「シャンソンさ。ほらもっと上手に笑ってミロール、さ」
文彦は誰にともなく呟くと、安心させるようにセイに笑いかけ、セイをステージの外へと促した。
客席のほうへと行こうとした途端、ワッと文彦は人波に囲まれた。
「高澤さん」
「文彦ー」
女性たちからプレゼントを手渡され、握手を求められて、文彦は微笑を崩さずに対応した。
「ありがとう」
囁くようにそう言ったが、文彦はちらりとわずかにステージのほうを見やった。
もう萩尾敦史たちのカルテットの演奏が始まろうとするところだった
かけられる声に応えながら、文彦が悩んでいると、後部のざわめきが止んだ。
「失礼」
有無を言わさない、低く腹に響くような声だった。
「こっちへ」
命令に慣れた声であり、人を制するのに慣れた態度であり、その大柄な体躯も彫りの深い顔立ちも、女性たちをやや怯えさえた。
文彦が連行されるかのように引っ張って行かれるのを、女性たちは遠まきに見ているのが精一杯だった。
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