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第一章 ソウル・トレーン(Music by JohnColtrane’s album)2
「高澤文彦様、出演時間まもなくです」
「ありがとう」
スタッフの呼び掛けに笑みで返し、文彦は軽い仕種で踵を返して控室を出て行った。
すぐ裏の野外ステージ袖への設置された階段を登ろうとした時だった。
「文彦」
大声なわけでもないのに、腹にびいんと響くような声がして、文彦は顔を上げた。
「武藤さん、来てたんだ?」
「そんな言い草はねぇだろう」
低く笑う声は、言葉の割に楽しんでいるようにも聞こえた。
「よくまあ、ここまで入って来れたね?」
「まあな。出資者は関係者、だろう?」
武藤はそう言うと、眼をすいと細めて、にやりと片頬で笑った。
オールバックの髪、シルバーグレーの三つ揃いのスーツに、傷一つない黒い革靴。
文彦よりも年上の男は、音も立てない動きで、文彦にすいと近付いた。
長身に服の上からでもわかる広い肩幅をしていて、鍛えられた体の動きは非常に静かだった。
それは同時に獰猛さも秘めた静けさだ。顔立ちは彫が深く、どこか危険そうな近寄り難い雰囲気がまとわりついている。
力強い指が、文彦の白い顎をつかんで、ぐいと上向きにさせた。
「美しいな。あの時から変わらず」
「まさか、冗談。もう二八歳だよ」
文彦は抵抗もせずに武藤に上を向かされたまま、ふっと笑った。
その微笑には夜の風が香り、白い肌の下から気だるさが立ち込めるようだった。
「最近忙しかったんじゃない?」
「まあな。文彦を聴いたらすぐ帰る。これは今日のリクエストだ」
「フェスでリクエストをするのは武藤さんくらいだな」
「なぜ? お前にはどうせ変わりないんだろう。ミスティであろうと、このステージであろうと」
「そうかもね」
武藤は茎を短く整えた白い薔薇を、指先で挟むと、すとんと文彦の胸ポケットの深紅のチーフの前へと差し込んだ。
それは、疵一つなく、肉厚な花びらが珍しいほどに純白に輝く、真珠のような薔薇だった。
それから文彦の手を取ると、その掌にカードを握らせた。
武藤の大きな手の上で、文彦のほっそりした手は小さくさえ見えた。
「またピアニストに歌えなんて酔狂を言うのも、武藤さんくらいだな。『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』を俺の歌で?」
「竜野たちとカルテットなんだろう? ラストはお前のソロで」
「かしこまりました」
文彦の微細な表情は、アルカイックスマイルを浮かべて、その内面まで推し量ることはできない。
武藤は片手を上げるとゆっくりと文彦の肩へと置いた。
「秋波セイにも成功となるように。じゃあ、客席から見ている」
「ありがとう」
音もなくゆっくりと離れて行った武藤を見送ってから、文彦はふっと息を吐くとくるりと踵を返し、ステージへと続く階段を駆け上がろうとした。
動いていく視界の中で、文彦は控室の出入り口の外で、腕組みをしてじっとこちらを見ていた人影に気付いた。
(?)
ぐるりと回る視界の端に留めたのは、長身の萩尾淳史の姿だった。
すいと淳史が視線をすべらせた。
はっきりと真正面から文彦を見たその眼は、鋭く光って、文彦を射抜いてしまいそうなほどだった。
端正な顔は無表情になり、底冷えするような冷たさに沈んでいた。
侮蔑するような、疎むような眼差しは、一度瞬きすると背を向け、控室へと去っていった。
明らかに武藤とのやり取りを目にしていたのだと、そうして遠目からこの一幕についてどう思ったのかを、文彦は悟った。
文彦は、何も表情にのぼらせないままにその視線の余韻を受けていたが、淳史の姿がなくなると、うつむいてちいさく嘆息し、足早にステージへの階段を駆け上がった。
「文彦!」
ステージ袖には、今日一緒に演奏するセイ、竜野、堤がすでにもう待っていた。
「セイ、調子は?」
「ああ、大丈夫そうだ」
「そう」
文彦は年若い友人に向かって、やんわりと微笑んだ。
長い前髪の間からのぞく、セイの一重の眼は、完璧なまでのアーモンドアイだ。
浅黒い肌に、尖った顎、引き締められた唇。秋のバイオレットの薄暮の中で、黒い瞳が引き上げられて三白眼になり、白目がきらりと美しく光った。
黒いシャツにダメージジーンズ、腰から鈍色のチェーンをゆらり揺らしている。
生来のきかん気さと、まだ大学生である若さが相まって、噴出するような生気をまとっていた。
「遅かったやんか」
隣で、間伸びした面長の顔で、うっそりと関西弁で言ったのは、この中で最も年長の竜野だ。
「武藤さんが来てた。リクエストは俺が歌う『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』だってさ」
「ああ、あの人らしいなァ。相変わらずおかまいなしや」
その口調に、文彦は竜野との長年の付き合いの気安さでもって、声を上げて笑った。
「文彦、今日は俺の我儘で――」
「セイが何か我儘言った?」
文彦は不思議そうに瞳を瞬いて、セイの引き締まった顔を見た。
「レイク・フェスで俺らとやって欲しいって」
「セイがもう一度ステージに立つのに俺を選んでくれたこと、嬉しかったよ。セイがトライするなら、俺もいないとね。俺も、メンバーは集めないといけなかったし」
文彦は過去にカルテットと契約していたが、そこを出てからは誰とも組んでいない。
竜野、セイ、堤の三人が組んでいることで、文彦がそこに加わって演奏することも多かった。
「さあ、行こうか。セイの復帰戦へ」
文彦はゆるく微笑して、セイの肩に手をかけた。瞬間、セイはビクッと文彦を見た。しかし、文彦が安心させるようにやわらかく瞳を瞬くと、セイは大人しく視線を落とした。
文彦の視線は、兄のような、母のような、どこか甘やかすほどの年上の優しさが含まれていた。文彦は、この年下のジャズシンガーの粗削りな才能を買っているのだ。
「Parlez-moi d´amour, Redites-moi des chose tendres Votre……」
聞かせてよ、君の優しい言葉を――文彦はそうセイに歌いかけて、吹き抜ける風のように微笑んだ。
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