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第一章 ソウル・トレーン(Music by JohnColtrane’s album)1
(ああ――いいな)
ジャズ・レイク・フェスの野外ステージ裏の控室で、端のほうで腕組みして立ったままついた溜め息は、スウィングするリズムとともに落ちていく。
ステージから聴こえてくる音に合わせて指を動かし、頭の中でコードを鳴らす。
「あの、高澤文彦さんですか?」
振り向くと、出演が今しがた終わって引き上げて来た女性シンガーが、真紅のドレスも色鮮やかに文彦のそばに立っていた。
「ええ、そうです」
「ファンなんです。握手……してもらえませんか?」
「それはどうも、ありがとう」
スッと差し出した文彦の白い手を、女性は大切そうに両手で一瞬だけ包み、頬を赤く染めて
一礼して去って行った。
高澤文彦――それが近頃、頭角を現してきた若手ジャズピアニストの名前。
今日のジャズ・レイク・フェスの客演――それは高澤文彦、萩尾淳史、樋田正――のうちの一人だ。他は選抜審査によって出演が決定された。
すらりとした身に、黒いスキニーパンツを履き、ゆったりとした白いシャツの袖をまくりあげている。
そこから覗く細い腕には、幅広のスリ―カラーゴールドの透かし彫りの腕環を嵌めて、首元に民族的な織りのシルクタイを奇妙に結び、胸ポケットに艶のあるチーフをさしている。
栗色の髪がやわらかくうねって白い頬にかかり、ちいさくひらかれた唇の色素はうすい。
文彦を最も印象づけるのは、睫毛があわい影を刷く、二重瞼のくっきりとした物憂い瞳の美しさだった。
その瞳に夜の揺らぎを閉じ込めてしまったかのように、深い縹いろをしている。
そこには、永く生きたもののような、人生に疲れてしまったもののような、哀しい憂いを潜めている。
「すみません、そこからは入らないで下さい!」
控室の外からスタッフが怒鳴る声が聞こえてきた。
「文彦さんにこれを渡すだけです」
「それはこちらでお預かりしますから……」
揉め合うような音が聞こえて、それは遠ざかっていった。
「その小奇麗な顔で、音なんか聞いちゃいない女子供を集められても迷惑なんだよ」
控室で低い囁きのように男の声がして、そこからざわめきのように笑いが広がった。
文彦は腕組みしたまま、微動だにしなかった。文彦のプレイにはより女客が多い。
「だいたいフェスで客演なんて、枕でもして媚売ったんじゃないのか。噂通りの色売りが」
吐き出すような言葉が終わらないうちに、控室に背の高い人影が入って来た。
しん、と辺りは一瞬で、水を打つように静まった。一斉に視線が、出入り口へと集中していた。
そこに、今日の客演でもあり、フェスの最もたるビッグネームでもある、萩尾淳史の姿があったからだ。
都会的で瀟洒なプレイヤー、技巧に裏打ちされた前衛さは、文彦のインティメイトでかつ揺らぎのあるプレイとは一線を画している。
CMで流れていた曲と、CDアルバムのジャケット写真を思い出しながら、初めてこれほど間近に見た萩尾淳史の姿に、文彦は不思議な印象を感じて、しばらく眺めていた。
(これが、萩尾淳史なのか)
端麗、という言葉が当てはまる人間に、文彦は久々に出会った。
しかしそこには、女のような美しさはまったくない。
一八十センチほどあるだろう体躯はすらりと高く かきあげられた髪は幾筋かはらりと額に落ち、ごく淡い色のついたサングラスをかけている。
黒く薄い生地のジャケットの衿を立てて、秋の宵待つ時間に、ひやりとした空気を纏っている。
文彦とあまり変わらない年齢――二十代後半だ。
その奥の切れ長の両眼は鋭い光を浮かべていて、ぴしりと厳しさをもった雰囲気は、冷淡と言ってさえ良かった。かたちの整った唇はやや赤みを帯びていて、それだけがわずかに甘美なスパイスとなっていた。
CMでの演奏が話題になり、本人のジャケット写真が出るや否や、ジャズの貴公子として一躍時の人となった。
「高澤文彦――」
呟きは低くて、サングラスを外した顔を、文彦は思わず尋ねるように見た。
視線が合った、と感じた瞬間、文彦の目の前で、淳史の両眼がきらりと光った。
それは相手の魂まで見抜いてしまいたいかのように深く底がなく、それでいて幾重にも複雑な色をしていた。
(あ)
自身でも名付けることのできないような感情がせり上がってくるのを感じて、文彦は問うように、淳史をけぶるような眼差しで見返した。
恐らくそこに立っているのは只者ではなく、年齢をも外見をも飛び越えた何かを、文彦は淳史から感じた気がしていた。
淳史はその文彦の様子を、サングラスを外した手を止めたまま、目を細めていぶかるように見据えていた。
その瞬間は、オルフェに導かれて否応なしに音楽の命運に放り込まれた者同士が、お互いに出会った偶然だったのかもしれなかった。
「枕?」
「さあ」
淳史の問いに、文彦は軽く肩をすくめただけだった。
「何も思わないのか?」
「別に何でもかまわない。根なし草の客商売だしね」
文彦は上瞼に瞳をひきつけて、意味ありげに微笑した。
文彦はジャズバー「ミスティ」を活動拠点としており、かつては弾き語りやバーテンもやっていた。
地味な活動を重ねてジャズピアニストとしての評判を呼び、人を惹きつける外見も相まって、最近の集客には目を瞠るものがあった。
淳史のような派手な露出も、バックにエージェントがついているわけでもなく、一部から反発があるのは文彦も感じていた。
それは一見すると優しげに見える文彦の外見のせいでもあったろうし、骨太ではない揺らぎのあるプレイのためかもしれなかった。
文彦のプレイには圧倒的に女性客が多く集まり、年齢層も若かった。
他のプレイヤー――主に男の――からの反発は、妬み、嫉みも含み、毛色の違う新たな存在の恐れもあるように文彦はうっすらと感じていた。
(別に何だろうとかまわない)
そうはっきり文彦は思っている。
(このプレイする時間が続いて、この存在が照明されるならば――何と言われようと)
激しい思いはひっそりと、文彦の胸の内に折りたたまれて、しまわれている。
誰かに評価されるためではない、込み上げるようにリズムを留めることができないから、文彦は今日もピアノの前に座る。
それが苦痛だった時も、悦びだった時も。
(誰かのために弾いていた時も、すべてを失ったと思って弾いていた時も)
その肌の下で、今にも破れそうなほど渦巻いている血脈は、誰にも触れられないままに魂に巣食っている。
「演奏と違って、本人は人を不安にさせるな」
そんな淳史の言い分に、文彦はもう一度軽く肩をすくめただけで、何も答えなかった。
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