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第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 5

 バスルームのドアを押し開いて、文彦は、ひゅう、と口笛を吹いた。  バスの壁の上部はガラス窓になっていて、夜空を映している。  広い浴室の中で、間接照明はやわらかい光で、天井から床までの細い縦長のミラーがその光を反射している。  壁は珍しく深いグリーンの磨かれたタイルで、水滴を美しく丸く弾いていた。  足音もなく入っていって、シルバーのシャワーを手にすると、ザッと熱い湯を被った。  水流は、ぐるぐると広い床を流れていって、文彦はしばらくそれを見つめていた。  ミチルを見つけてから、淳史に運転をまかせたビートルは、目的地の住宅街を縫うように走った。  どちらかといえば地価の高い、戸建と、エントランスの瀟洒なマンションが並ぶ街だ。  文彦には幾つか見覚えがあった。  この街の反対側に、武藤が私的な拠点の一つにしているマンションの部屋があったからだ。  かといって、武藤は一つの場所に居つくわけでもなく、ここを所持しているだけで、住んでいるわけでもなかった。  武藤が以前にそこにとある人を匿っていたのを知っているが、さして関係があることでもないと文彦は思う。  夜の中でも、生活のある街。  帰る家、家族とのささいな時間、あるいは友だちとの明日の約束、灯りの下で交わされる会話、テレビからの笑い声。  きっと本当は、文彦にも武藤にも住み続けることのできない街。  ただ慣れない、という理由だけで、人は居心地の悪さを深めてしまう。  かたぎの、日々の暮らし、という幻にも思えるものが、目前いっぱいに広がっていた。 (どの人々の暮らしの中にも愛憎があって、苦悩がある―――)  そんなことが、今はなんとなくわかる、と文彦は思う。  あまりにも遠すぎて、過去には思いを寄せもしなかったもの。  車は、赤茶色の煉瓦壁のエントランスをもった車寄せに、停車した。  オートロックのエントランスの分厚いガラスの向こうには、ロビーとそれからコンシェルジュが立つカウンターがあった。 「すぐシャワーを浴びたほうがいい」 「ああ。このまますぐ帰るから」 「俺の家で浴びていったらいい。その服も洗うから」 「え?いいよ」  文彦は辟易したように、軽く首を横に振った。 「今日はすまなかった。ほら――早く」  差し出された手を、文彦はただ見下ろした。  その手を取るべきなのか、取らないべきなのか、文彦にはまだよく判断できなかった。  差し出された手を、文彦はただ見下ろした。その手を取るべきなのか、取らないべきなのか、文彦にはまだよく判断できなかった。  ただ文彦を真正面から見据えた、切れ上がった両眼が思いもかけず深く澄んでいて、文彦は何も返事をできないまま、ふらりと車を降りていた。 「とりあえず先にミチルを運んだら、車は移動させるから」 「ああ――」  文彦の答えを待つ様子でもなく、淳史は踵を返して、ミチルの腕を肩で担ぐと歩いて行った。  しんとしたエレベーターで、ふらふらとしているミチルとともに、淳史に導かれるまま最上階に上がって、その角部屋が淳史の住まいだった。  全体的に深いトーンでまとめられたインテリアは、ダークブラウンの床やドアとよく相まって、本人と同じ瀟洒な雰囲気がした。  部屋に入るなり、風呂場へと押し込まれて、今こうしてシャワーを浴びている。  白いディスペンサーが綺麗に並ぶ中から、shampooと表記されているボトルを選んで、文彦は洗い始めた。  こうしてソープを容器に入れ替えていたり、どこも丁寧に整えられていたり、そこかしこに細やかな気配りが点在していて、文彦には物珍しかった。 「Time keeps moov`in on……」  頭に浮かんだ、ジャニス・ジョプリンの「KOZⅯIC BⅬUES」を鼻歌にして、シャワーの栓を止める。  両手で軽く髪の水を切れば、幾つもの水滴がきめの細かい白い肌の上をさあっと転がり落ちていく。  ほっそりとした肢体だったが、しっかりと引き締まっていて、青年としてのラインがあえかに息づいていた。  下肢には、髪と同じ栗色の淡い翳りがあり、なだらかな胸の色づきもまた淡かった。  歌はまだ続いていく。  人は手を伸ばした時、他の誰とも違うもう一人の相手を求めているもの。でもその人が、今はいない――  ジャニスの絞り出すようなハスキーボイスとはずいぶん違う歌声と、リズムの刻み方もジャージィになっていたが、不思議とそれでも曲調には合っていた。  それは、この歌が、文彦の一つの真実だったからかもしれなかった。 「あれ……?」  バスルームのドアを開けて脱衣所に立ってから、文彦は辺りを見回した。脱ぎ散らかすように置いてきた服はどこにも見当たらなかった。 「ん?」  そばに籐かごが置かれて、その中に、真っ白なふわりとしたバスタオル、きちんと畳まれた服と下着が折り目正しく入れられていた。 「……」  文彦はどうしたものか、細い指でタオルや服を、逡巡するようにいじった。 「おい。出たのか?」  脱衣洗面所の閉められたドアの外から淳史の声がして、文彦は顔を上げた。 「ああ」 「タオルと下着は新品だから」 「え?」  そんなものが新品で家にストックされていたことに、文彦は驚いた。 「サイズが合うかは知らないが」 「いや――ありがとう」  文彦は少し笑って、白一色のバスタオルを手に取った。  軽く拭いてから、下着と白いカットソー、ベージュのズボンを身に着けた。  どれも緩かったが、文彦は特に気にするでもなかった。  カットソーの袖は長く指先あたりまで隠し、裾もやや長い。  ズボンの丈が少し余る分は折り返し、文彦はバスタオルを肩に引っ掛けると振り返って、洗面所に歩み寄った。 「あれ?」  さっきと同じ言葉を口にして、しかしその顔は険しく、眉をぎゅっと寄せた。 (ない……)  パッパッとその辺りを手で払って探すが、シャワーを浴びる前に、洗面所の横に置いてきた、シルバーリングとそれを通したチェーンはどこにもなかった。 「ない」  文彦の形相が変わり、さらに手荒く、その辺りをひっくり返してリングを探し始めた。 「ない!」  一通り探してしまうと、焦りなのか怒りなのか判別できない表情で、脱衣洗面所のドアを開けて飛び出していた。  すぐに入ったところのリビングで、淳史は深緑色のソファに浅く座っていた。 「リング!」 「え?」  咄嗟の文彦の、いつもの様子からは想像もつかない形相と、飛び出してきた勢いに、今度は淳史が面食らって驚いた。 「リングがない!」 「リング……?ああ――ひょっとして、あのチェーンにかかっていた?」 「そう――それだ!洗面所に置いてあったのにッ」  文彦はどんどん歩き寄ると、今にも淳史をひっつかみそうな勢いで、言い募った。 「あれも汚れているかと思って、いま洗浄液につけてある」  淳史は、長い指で目の前のローテーブルを示した。そこには、ガラスボウルの中で、液体のシルバークリーナーに浸けられたリングとチェーンが沈んでいた。 「これだろう?」  淳史は液体から素早く引き抜くと、文彦に指し示すように見せた。そしてそのまま、シルバークロスの上に取り、丁寧な手つきで拭った。 「そ……う」

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