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第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 6
文彦は気が抜けたように、リングを拭いていく淳史を見ていた。
しかし、淳史の手の中から、パッと奪うように手荒にリングとチェーンをつかみしめた。
「勝手に……」
触るな、と言いかけて、文彦は感情をどうして良いかわらかずに、途中で言い止めてしまった。
「大切なものだったのか?」
「……」
文彦はぎゅっと唇を引き結んで、何も答えなかった。
沈黙は、感情が高ぶったからではない。
説明することを諦めた、どうせ誰にもわからないだろうという、深い諦念だった。
文彦は視線をゆっくりと落とすと、細く息を吐いた。
長い睫毛がうっすらと下瞼に影を刷いて、物憂いたゆたいが、表情を失くした顔を覆っていく。
掌にある冷たいリングの感触を、温めるように握りしめて、文彦はその手ごとズボンのポケットの中へと突っ込んだ。
しばらくして、文彦はようやく、テーブルの向こう側の一人掛けのソファに、人が寝ているのに気付いた。
「今井……」
淳史は、文彦の見ている先に気付いて、視線を移した。
「ああ」
「大丈夫だったか?」
「ミチル?今は、寝ているみたいだ」
「そう……」
文彦は思案気にミチルを眺めた。
深緑色のコンパクトなソファで、目を閉じた小作りな顔は、さっきと変わらずに青白い。
しかし、さっきと違うのは、ミチルはどこにも汚れが見られないことだった。
テーブルの端に置かれた透明な洗面器と、絞られたタオルを見て、淳史が綺麗に拭ったのだと、文彦は悟った。
ミチルの服もすべて楽そうな部屋着に替えられ、膝にはタオルケットをかけられて、静かな呼吸を繰り返している。
低い音が響いて、淳史は説明するように言った。
「服は浸けた後に、今、洗濯しているから」
「え……」
「そう」
他に誰のがあるのだと、淳史はむしろ問いたそうな顔を向けた。
文彦は、淳史の言葉に面食らった。
確かに洗濯機が回っている音だった。
「別に、そんなことまで――」
「あのままでは、持って帰れないだろう?」
「いや、でも」
「しばらく、ここで待っていてくれ」
(しばらくって――まだ、俺はこの部屋にいるのか)
文彦は、落ち着いた深いカラーでまとめられた整然とした部屋を見回して、所在に迷うように立ち尽くしていた。
ふと、思いついたように顔を上げた。
「誰かと、住んでる?今、どこかにいる?」
淳史は、質問の意味を図るように、目を細めて見返した。
「なぜ?」
「彼女?奥さん?部屋も整然としているし――綺麗だし。服にシワもなかったし、洗濯も早いし、それに」
文彦は、清潔になったミチルを見やった。
「何かと、手が早いから―――今、手伝ってくれたり、いつも部屋も手入れしてくれている誰かがいるのかと。もうしそうなら、俺も手間をかけてしまっただろうから、お礼を」
それから、ここに他の誰かがいるのなら、ミチルの話をするのは憚られた。
首は突っ込まないつもりではいたが、注意を促すことだけはしておきたかった。
それは、何のためなのか? と問われれば、文彦はきっと複雑な面持ちになるだろう。
それは、同じピアニストだから。
それとも結局は、興味がないようでいて、誰かを気にかけることを止められなかった生まれもっての性なのか。
「人と住むのは好きじゃない」
思いもかけず強い語気の返答で、淳史は鋭い眼をして言い切った。
「別に誰もいない」
「――そう。え、じゃあ、全部やってくれた?」
「ああ」
「すごいね!どこも綺麗だし――俺にはとても出来ないや」
軽く肩をすくめながら、心から感嘆したように、文彦は大きな瞳をきらめかせて見開いた。
「すごい。あ、そうだ。どうもありがとう」
無心に整えられた部屋を見回しながら、はにかむように、にこりと微笑した顔は、いつもの物憂さを払って、いつかの少年のような透明な面影を浮き上がらせた。
「いや――別に。何か飲むか?」
淳史はその変化を横目に見ながら、立ち上がった。
「え?大丈夫――用が済めばすぐ帰る」
「濡れたままじゃないか」
淳史はキッチンへと入るのに文彦の横を通りすがり、足を止めた。
文彦は肩にひっかけたままだったバスタオルをぐいと取られ、驚いて振り向いた。
しかし、視界はそのままバサリと頭から被されたタオルで見えなくなって、頭を両手で包まれるように拭かれていた。
「シャツまで濡れてるじゃないか」
「あ、ごめん。借りた服なのに」
「別にそういうことじゃない」
どこか怒ったように返したが、淳史の手つきは殊のほか丁寧で、優しかった。
文彦は思いもよらなかった淳史の行動に、どうしたものか戸惑って、されるがままに立ち尽くしている。
文彦は背後に、淳史の繰り返される呼吸や温もりを感じて、瞳を瞬いて身じろいだ。
その感触は、なぜか文彦を落ち着かなくさせ、思いもよらず心の水面を波打たせていく。
「大丈夫。自分でするから」
「洗面所にドライヤーがあっただろう?」
「あー……」
(あったかな?)
見かけたかどうか思い返していると、淳史はその表情を見落とさなかった。
「普段しないのか?」
どうしてバレたのだろう、とでも言いたいような不味い表情を、文彦は憮然と浮かべた。
「そもそも、そんなものは家にない」
「……まあ。どう見ても生活感はなさそうだが」
それ以上に何か言いかけて、淳史は呆れたのか、諦めたのか押し黙った。
文彦はぞんざいに髪の毛を拭きとると、軽く頭を振って、バスタオルを素早く畳む。
「今井ミチルの話だけ」
「何だ?」
大股に歩いて入った、カウンターキッチンの向こうから、淳史は端正な顔を上げた。
それから、ふっと壁掛け時計を見た。
もう夕飯の時間もずいぶん過ぎている。
「腹が減ったな――」
「そう?」
「ミチルのことに付き合わせたから悪かった。まだ服も上がらないし、軽いものでもよければ食べていけばいい」
文彦が答えるよりも早く、淳史は背後のシルバーカラーの冷蔵庫を開けると、手早く食材を出し始めていた。
料理などした形跡もないような、シルバーとブルーでまとめられたキッチンだったが、備え付けの棚を開いていけば、どんどんと様々な調理器具が出てくる。
文彦は驚いたのと物珍しさで、そっと近寄ると静かにじっと見入っている。
並んだスパイスのボトル、文彦にはわからない調理器具は銀色にきらめいて、ただ文彦の目には美しく映った。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
文彦は、キッチンの壁にもたれて、ゆっくりと瞼を下ろす。
ただ淳史の手によって変化していく食材の匂い、それから淳史の手によって起こされている調理の音――それらに身を浸して、文彦はじっと感覚を研ぎ澄ませた。
まるで、それらが快いものでもあるかのように。
文彦自身も、まだ自覚することもないままに。
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