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第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 7

 まるで得体の知れないものを探るかのように、そっとつついた。  フォークの先はぷすりと、白く丸まっていたポーチドエッグに刺さり、中から一気にとろりと黄身があふれ出てきた。 「あ」  小さく声は上げたものの、慌てる様子もない。ただ無心な横顔で、そのままトマト、ベーコン、レタス、マフィンへと濃い黄色がとろとろと流れていくのを、面白そうに眺めている。 黄色は、エッグベネディクトから、その周りに盛られた温野菜や、レタスの上のパプリカやトマトのタブレ、丸められたスモークサーモンにまで広がっていった。  楕円形の大きめのブラックプレートの上の料理は、まるで店のように美しく盛られて端々しかった。  白ワインが波打つ磨かれたグラスを指先だけで持って、文彦はさっきから酒しか口にしていない。  汚れ一つない真っ白なダイニングテーブルで、淳史は無言で、ナイフとフォークを器用にひらめかせて食事を半分がた平らげてしまっている。  手を休めて、ワインボトルを差し出すと、文彦は淳史を見もせずにグラスをテーブルに滑らせた。 「……」  淳史は何か言いたげだったが、黙ってワインを注いで、また食事を続けることに決めた。  テーブルで向かいあう文彦と淳史に、呼吸の違う奇妙な沈黙が落ちて、淳史の鳴らすフォークとナイフの音だけが静かに響いている。  跡形もなく綺麗に食べ終えて、淳史は呆れたように声をかけた。 「食べないなら、もう片付けようか?」 「え?」  意外なことを言われたように顔を上げた文彦を、むしろ淳史のほうが驚いて見返した。 「嫌いなものでも?」 「え、どうして?」 「つつき回して食べてない。口に合わないようなら下げようか」 「ちょっと、待って」  文彦は今になって気付いたように、皿の上に手を伸ばした。  手づかみでマフィンの間に崩れたポーチドエッグを押し込んで、慌てて口に運んだ。  咀嚼が遅く、飲み込むまで時間がかかる。 「ふっ」  淳史は唇に手をあてて、笑いそうになるのを押し殺した。 「何?」  もの問いだげな文彦の仕草は、手づかみながら軽やかなのに、食べている表情はひどくしかめつらしかった。 「いや、すごく不味そうに食べるなと思って」 「え?」  眉間にしわを寄せたままで、文彦は食べていく。そのことに気付いていないのか、不服そうな声色を出した。 「そんなことないよ」 「そんな険しい顔で?」 「あまり、好きじゃないんだ――食べている時間が……」  そこまで言って、文彦は言葉を止めた。 (何を、言ってるんだ、俺は――こんなところで)  さらに眉を寄せて、いっそ不機嫌に見える顔で、噛んでいく。 「あ――いや。綺麗だなと思った」  突然に飛んだ文彦の言葉に、淳史は面食らってグラスを置いた。  文彦は気にする様子もなく続けていく。 「あの、料理をする音とか。動いていくリズム、色んなきらめき、重なっていく音――また竜野さんと違う。たぶんきっと一人一人違うんだな。誰も同じじゃない。さっき聴いていて――綺麗だなと思った」  料理をしている間、ずっとキッチンの片隅でもたれて立っていた文彦が、そんなことを感じていたのだと淳史は初めて識った。 「あ、うん。完成されたような。それで、出来上がった料理も、とても綺麗だった。それで、眺めてた。味は、俺はよくわからな……」  そこでぶつりと言葉を切って、重ねるように言い直した。 (また竜野さんに怒られそうだ) 「おいしいよ」  ひどく生真面目に、静かにそう告げた。文彦はうつむいたまま、押し込むようにして食べ続けた。  淳史は首を少し傾けて、何かを考えるようにその様子を眺めていた。  懸命、と言ってもいい様子で文彦が少しずつ食べ続けるのを、ただ黙って待ち続けた。  テーブルマナーが良いとも言えず、料理した人間に対して笑顔を向けて美味しそうに食べるわけでもない。  楽しそうにテーブルトークをするわけでもなく、食事の時間を共有している認識もない態度だ。  料理した側からすると、甲斐もないような反応に違いない。  ただ、指先は軽やかに流れるように動き、眼差しは真剣なことを、淳史は見てとった。 「あの」 「ん?」  あらかた食べ終えた文彦に、淳史はティッシュケースを差し出した。それを取って、文彦は汚れた指を拭っていった。 「どうも、ありがとう」  真っ直ぐに上げた文彦の深い縹色の瞳を、淳史は真正面から受け止めた。  やわらかな静謐さが落ちて、二人は向かいあったまま、しばらく沈黙の中にいた。  窓際のソファで、ミチルが身じろぎする音が聞こえて、淳史は食べ終わった食器を片付け始めた。  文彦は座ったまま、ミチルをちらりと見て、華奢なグラスをぎゅっと握りしめた。 「今日、倒れてたことだけど」 「ミチル?」 「そう」  再び淳史が席につくのを待って、文彦は口を開いた。 「病院には、連れていく?」 「明日目が覚めて、まだ具合が悪いようなら」 「そう……」 「何だ?」 「少々深入りしてる」 「どういうことだ?」  淳史は冷静な口調で、表情を変えずに問うた。 「あの店には出入りさせないほうがいいよ。まっしぐらに深入りするよ」 「深入り――」 「わかんない?それは、ラリってる状態が?それとも、ピアニストとしての状態が?」  秀でた額に幾筋かの前髪を落とした、端正な顔のまま、淳史は冷静な口調で応えた。  冷たくさえ聞こえるような反応に、文彦は胸の奥にざわめきを感じた。 「まさか、ミチルが?」  切れ上がった両眼は、一度瞬きすると、すいと真剣な暗い色に変わった。  長い指をあごに当て、ミチルを振り返って大股に近寄った。 「どうして、わかる?」 「そういう人間を見てきたからだ。それに、あの店では売ってるから。この痩せ方は尋常じゃないじゃない」  胸が煮えて早口で言ってしまってから、自分が思うより強い口調になっていたことに気付いた。  文彦は、ふっと嘆息した。力を抜こうと、片手で波打つ栗色の髪をかき乱す。  相手の領域に多く立ち入らずに、ミチルの状態を端的に説明して、そうしたらすぐに部屋を後にしよう、と思っていた。  文彦の心の傾きは、淳史の冷静さが引き出したものかもしれなかった。  ソファのミチルの前に、長い脚を折って座り込んだ淳史を見下ろしながら、文彦は言葉を続けた。 「この調子なら駄目になるだろう。今で止めておかないと――あんなところで倒れているくら いなら、そのうち行き倒れになるだろう。この状態を知っていた?うまくトリップ程度で付き合えているうちは、まだ――でも、そのうち、もしもプレイできなくなるくらいになったら――そんな可能性に落ちてしまうまでになったら――」

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