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第二章 トライ・ア・リトル・テンダネス (music by Chris Connor) 8

「プレイできなくなる可能性に落ちたら?」  淳史は、文彦の言葉を遮りたいように、口を挟んだ。  ミチルがまた身じろぎして、今度は苦し気に小さく唸った。 「それは、別に……」 「ミチルがそうなるなら――」  淳史は考え込んだ表情で、一度言葉を切った。溜め息をついて、わずかにうつむいた。 「それは――俺の、せいだ」 「え?」  背後に立っている文彦からは、淳史の表情は見えない。  ミチルが呼吸を浅くして、再び唸ったのへ、文彦も心配げにソファの前にひざまずいた。  淳史はすぐ隣にきた文彦を、首を捻って見やった。  ふっと、唇を歪めて、淳史は笑った。  文彦はただ押し黙って、その顔を見据えた。  淳史はその視線を見返したまま、目をそらさない。   緊迫した空気が部屋に満ちた。  やがて、淳史はぽつりと呟くように言った。 「 こいつはもう、俺についてこられない」  それは、天からの宣託のように、淳史の唇を伝って、無残に落ちていった。 「解放してやるべきなのか、どうなのか――すべての元凶は、俺だ」 「……」 「俺から離れる時が、ミチルの悪夢を止められる時なんだろう」  淳史は、タオルケットの下に隠されていたミチルの手を引き出して、力を込めないよう注意しながら掌でつかんだ。  プレイを見た文彦からは、そのミチルの指も手首もすべて痛々しかった。  淳史は、ゆっくりと続けた。 「ずいぶん無理をしているだろう。鍛錬をしてきたといって、ハードなプレイを続けていくに耐えうる指はしていない。このままいけば慢性の腱鞘炎になるか――ミチルが壊れてしまうか。隠し遂せていると思っているらしいが、それ自体がもう、自分の演奏に対する冷静さを欠いている。もう自分の音を客観的に聞く余裕もない証拠だ」  抑揚もなく話す淳史に、文彦は眉を寄せた。 「でも、ミチルは、俺についてこようと思ってくれている……」  その先の言葉は、紡がれずに虚空に消えた。  文彦はすぐ目の前で、入り組んだいびつなパズルを見るような気がした。  すぐ横に座る、貴族的なおとがいを持つ淳史の中に、悲哀を含めた昏い色彩が終わりなく渦巻いているのを感じた気がした。  文彦は軽い衝撃を受けて、唇を引き結んだ。 「ミチルを切り捨てたところで、他に誰かいるのか? こう純粋なまでに俺の音楽といようとしてくれる人間が」  文彦は、水面に浮上するように気付いた。  いま、文彦は、淳史のやわらかな内面の前にいるのだと。文彦の見た色彩は、鮮らかでいて、溶け合うように闇色に入り混じる。  それは、悲哀、諦念、そして失いきれない希望――  この開かれた心の扉の前で、文彦の胸に淳史の感情の波が雪崩れ込んでくるようだった。隣り合った体の、震えるような鼓動。  息遣いまで手に取れる距離で、偶然にも交わされていく心の潮流。 (どう――)  どうして? と文彦は問いたかったが、言葉には成らなかった。  ただ、淳史の心の扉は、文彦のと同じ高さにあって、だからこの瞬間に淳史の想いが流れ込んでくるのだと、文彦は無意識に感じた。 それはジャズマンとして、一介の表現者として、根深い部分で二人は共有するものがあったからかもしれなかった。 「すべての元凶……放っておく……そう、俺がミチルを放っておけば、手放してしまえば済むのか」 (萩尾淳史のピアノ)  そんなことを言ってしまったのを、文彦は思い出した。さっき、言い放ってしまったことも。  技術、才能、感性、それらのすべてにおいて、ミチルは淳史を下回っている。 それは、現実だ。 ただ淳史の技術に拮抗しながら、音楽性においてもカルテットを組める、という人間を得ることが難しいことは想像につく。 「俺の隣には、いない」  文彦はその言葉に、瞳を大きく見開いた。 「それは、だって、淳史が引っ張っていかなくてはと思っているから――」  そんな言い様が、慰めにならないことは文彦が知っている。ただそう言うほか思いつかなかった。 「隣には誰もいない。いられない。俺がいられなくする」 「あ……」  カルテットで演っていた淳史と、さっき一人で歌を口ずさんだ淳史と。あの違いの答えを見つけたような気がしたが、文彦の頭の中ですぐに霧散していった。  文彦は何も考えずに、無意識のまま、ミチルの手をつかんでいた淳史の手に、上から手をそっと重ねた。  淳史は目を一瞬見開いたが、文彦は深い縹色の瞳で見つめた。視線と視線は離れずに、ただお互いだけを見ている。  二つの魂は、孤独さの中で、ただ一人で立っている――今までも、今も、ずっと。  心と心が目に見えないまま渦巻いて、青白い炎がはぜるように不思議な燐光が灯っては消えていく。  淳史はふっと息を吐くと、苦し気に目を閉じた。  文彦が身じろぐと、淳史は離れ難いように、ゆっくりと白い首筋に顔をうずめた。 繰り返される呼吸が文彦の鎖骨に触れ、高い鼻梁が肌に押し付けられている。 文彦は、じっとそのまま動かなかった。 何かピースがパチリと合ったように、二人とも無言で、無意識の波にたゆたうように身を寄せている。 「今は、このままで……」  淳史が掠れた声でそう言うのへ、文彦は長い睫毛を下ろすと、受容するようにその黒髪を優しい仕草で撫でた。  ひどく静謐で、やわらかな空気が二人に降りて、お互いの呼吸と鼓動だけが、触れ合う肌から響いている。 文彦はその空気の中で、不思議な感慨に満ちて、淳史の肩を撫でて宥めた。  部屋の時間は透明なまま、静かに文彦と淳史に過ぎていった。  この先に待つ未来の、嵐の前の静けさのように。

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