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第三章 クライ・ミー・ア・リバー(music by Julie London)1

「ない」  昨日も繰り返したはずの言葉を、文彦は再び口にしていた。 「ない……ない」  昨晩は淳史の家から、洗濯乾燥してもらった自分の服に着替えて、帰宅したのだった。 借りて履いていたズボンのポケットに、淳史との会話の合間にリングを急いで突っ込んだことを思い出す。 それから、いつものようにチェーンに引っ掛けた記憶はなく、明らかに忘れて来てしまったことは明白だった。 「淳史の――」  部屋であることは間違いない。  恐らく借りたズボンのポケットに入ったままなのだろう。  いつもチェーンで首にかけていて、そこにあるのが文彦にとって当たり前になっていた。 淳史との時間の後、どこかぼんやりしたまま、いつも通りに首にかかっている感覚で帰宅してしまったのだと、文彦は長い嘆息をした。 (だから、本当に、昨日は厄日だね)  こんなことは、まったく初めてのことだった。こんな風に忘れて来てしまうなど。  ミチルのことに首を突っ込んでしまったことも、あの店の前まで行ってしまったことも、すべては淳史によってもたらされたようなものだった。 (何もいらない)  文彦は本当にそう思っていたのだ。  どうしても何か文彦に贈り物を与えようとやっきになっていた、かれ。 (公彦)  過ぎ去っていってしまえば、ものがこれほどに心のよすがになってしまうとは、文彦にとっては皮肉なことだった。  いつか、自分が選び歩いてきた道の理由も、心の変化をも、あのやさしい理解に満ちた瞳に話せたら、と思っていた。 (文彦は、それでいいんだ)  きっとそう応えて、あの賢しい眼差しで笑いかけてくれただろう。  どうしても文彦自身でいるために、捨ててきたものは何なのか。 どうしても引き換えにしなくてはならなかったのか。 (……おれは)  文彦は白い朝日射す部屋で、一人立ちすくんだ。  咲きそめた花びらの重なりのごとく、青年の始まりに瑞々しく過ぎた、かえらぬ季節。 そう、あの日は永劫にかえらない。  やがてのろのろと白い壁際まで行き、しばらくうなだれるようにもたれて座った。 膝を抱えて、無意識に唇を指先で引っ張る。 とがった舌先がわずかに見えて、淡紅色の唇を湿した。じっと光る目で宙を見据えて、しかし、瞳は何をも映していなかった。  簡素な白い部屋で、床に放り出されていたスマホが突然に鳴った。 文彦は横目で光る画面を見て、コールを取ることに決めた。 「――竜野さん」 「起きてたか?」  朝からうっそりとしているのに、どこかとぼけていて、愛想よく聞こえるのが不思議な声だ。 それは恐らく、竜野の人柄によるところが大きかった。 「まあ。どうかした?」 「いや、昨日どうやった?」 「どうって――ああ」  文彦は、淳史がミスティにやって来て、ミチルを探しに行くところで竜野と別れたのを思い出した。 「結局、見つかったんか?」 「うん。見つかって、良い状態じゃなかったから、送って行った」 「良い状態じゃない? 大丈夫なんか」 「さあ。それは、これからどうするか、かな――ピアニストとしても。色々と道はまだあると思うけれど、自分でやっていかないと仕方ない。誰かが決められるものじゃないし。自分で決めないと後悔する」 「後悔? なんや、えらい話やな。まあ、ええわ。あっちのカルテットで何とかするやろ。萩尾淳史もおるんやし――基盤もあるし、あちらさんは」 「基盤?」 「うちに来たお客さんが、萩尾淳史は、テレビのプロデューサーをやってた取締役の次男やって言うてたで。そら、環境ととのうわな。横にのばす手はいっぱい持ってるやろう。エージェントもついてるし、CMの音楽から有名になったのも、流れはあったんかもしらん」 「そうなの?」 「何も知らんね、相変わらず。そういうダルなとこ、好きやけどな。浮世に興味ないもんなあ。音大卒業してから渡米して帰ってきたらしいけど。ほら、オリジナルの『オネスティ』、あのバーニン! って感じのやつ。あれを夜ドラマの挿入曲で使うってのも決まったらしいし」 「へえ……凄いね」 「凄いと思ってる声かいな」  竜野は、心底面白がっているように、快活に笑った。 「なにせイケメンの世の中やからなぁ。メジャーになって、ジャズ界に新風になってくれれば、それに越したことないわ。若手の双璧、どちらもイケメンやし。そういう新風が現れないと、この業界も廃れるわ」 「若手の双璧? 淳史と――ああ、樋田正?」 「冗談もほどほどにし。文彦やん」 「え?」  文彦は、眉をひそめて低く言い返した。 「冗談」 「文彦には、貪欲、てものが欠ける」  面白がっているのか、真面目に言っているのか、判別のつかない声で竜野は応えた。 「どうでもいいよ。こうして日が過ぎて、いつか老いて、もう何も弾けなくなって野垂れ死んだら。その時に、俺が俺であればいいんだ」  自分が、自分の音楽であり続けるために、それだけに生きていられるのなら。それが最も我儘な生き方ではないか――と文彦は思うのだ。  それが出来ずに倒れてしまったのは、誰だ?  見えない才能に翻弄されて道を踏み外していったのは、誰だ?  文彦の閉じた瞼の裏に、在りし日の身近だったジャズマンたちが現れては去っていく。  自分らしいとは何なのか――それをも追究すれば、きっと人一人の一生などで足りないに違いない。 「まあ、やり方はそれぞれやな。土台もそれぞれ――あっちはアカデミックで、文彦は叩き上げって感じやし。パッと見は、文彦と萩尾淳史じゃ畑が違うくらい“違う”けど。似てないし、やってることはまったく違う。せやけど、だからって――」  何かを言いかけて、竜野は言葉を切った。 「あ、店に電話かかって来たわ。じゃあまた、待ってる」 「うん。また」  待ってる――  文彦は、自分がそう言われる人間関係を構築できていることに、今更ながら、かすかな驚きを感じた。 しばらくスマホを握ったままでいたが、やがて細い指先で画面を軽くタップしていく。  冷蔵庫のモーターの音だけが、ぶーんと部屋に響く。  交換した連絡先を見つけて、文彦は唇を引き結んだ。 (どうしてもあれだけは手元に戻さないと――)  いけないのだ、と文彦は独りごちた。  初めて取り忘れてきまったことも、そうだ。それに、明後日には気乗りしない予定が入っていた。 お守りのようにしていたものを手元から失って、明後日に向けて、文彦はさらに気が重くなっていた。  掌の画面で、一つの名前を選ぶ。 この時間帯が電話に出られるのかはわからなかったが、コールしてから、長らく相手は出なかった。  いったん切って、さてどうしようか、文彦が考えあぐねた時だった。 スマホが鳴って、文彦は軽い仕草で耳にあてた。 「文彦か?どうした?」  昨晩に聞いたばかりの、低く通る声が響いた。

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