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第三章 クライ・ミー・ア・リバー(music by Julie London)2

「あの――忘れてきたと思うんだけど、昨日、部屋に――リングを」 「ああ」  淳史の答えは簡潔だった。 「あるよ」 「そう――」  紛失はしていなかったことに、文彦は心底安堵して、細く吐息を漏らした。 「今からでも、取りに行っても?」 「いや。もう家を出ているから、今は無理だな」 少し考えるような口調に、文彦の脳裏に、淳史の端正な表情が浮かんだ。 「じゃあ、今晩は?」 「難しいな。今からミチルを家まで送ってしまったら、収録や取材に入るから。しばらくはそっちのホテルに泊まるし、戻れるのは明後日だな。明後日の夜なら」 「明後日……」  文彦はしばらく時間を経なければいけないことに、瞬きしながら掌で頬を探った。  しかも、明後日の夜なら、その日の予定には間に合わない。  しかし、忘れて来てしまったのは文彦であって、淳史に非があるわけでもなかった。  文彦は、呼吸も忘れてしまったように沈黙していたが、やがてどうしようもないことに、しばらくして頷いた。 「わかった」  文彦の口調は硬かったが、きっぱりとしていた。 「じゃあ、明後日の夜に、マンションまで」 「いや」  途中で挟んできた声は、意外にも強かった。 「こっちまで出向かなくていい。R……ホテルの『ハリー・バー』はわかるか?二十二時。そこへ持っていこう」 「……いいよ。俺もその時間なら行けるから」 「奥のテーブル席で。それと」 「何?」 「会うなら、話がある」 「話って? 俺に?」 「ああ。じゃあまた」  それ以上は言わせない口調で、淳史は話を終わらせた。文彦は返事をする暇もないままに、電話はあっけなく切れた。 ツーツーと鳴る音を耳にしながら、文彦は掌で、首筋から頬をまさぐった。 (明後日……)  眉をよせて、か細く喘ぐ。 (自業自得だな)  一人で唇を歪めて、ベッドの上にシャツのまま、どさりと体を投げ出した。  寝返りを打ったが、深い色の両の瞳は見ひらかれたまま、じっと動くことはなかった。  季節が晩秋から初冬へとむかう中で、情景は一日一日を過ぎるたびに、ゆるやかな変化を重ねていた。空気に嗅ぐ秋の匂いが入りまじり、新たな季節への新鮮な憧憬と、終わりゆく季節へのかぎろいがあった。  晴空のつづく穏やかさのうちに、二日は過ぎた。  ミスティに現れなかったセイに、文彦は電話で体調を尋ねた。 「ああ――大学のほうも、ちょっと色々」 「俺にはわかんないけど、忙しくしてるんなら良いよ。大学OBの竜野さんのほうが様子わかるね」 「その――ごめん。心配かけて」 「謝るようなことじゃないでしょう。俺が勝手に立ち入っただけで」  年上らしく説くような口調で話してしまったことに、思わず文彦はくすり、と笑った。 「ああ――いや、俺が渋ってただけだから」  悪戯をばらしてしまう時の子どもみたいに、セイははにかんだように、どこか気重そうに訥々と言った。「大学云々じゃない……本当は」 「うん」  文彦は、慎重に返事をした。 「文彦に甘えてしまったところを、人に見られて立つ瀬がない、だけ」 「何だって?」  予想していたことと違った理由に、文彦は軽く面食らった。 「重大だろう?」 生真面目にセイが言うのへ、文彦も真剣に返した。 「そりゃあ、重大だ」  しばらく沈黙が落ちたが、二人して低く笑い出す。  思うよりもセイが安定して落ち着いていたことに安堵して、文彦は電話を終えた。  淳史との約束の日を迎えて、まだ日の明るい午後から、文彦はネクタイを締めた。  オフホワイトのワイシャツの首もとに、濃紺のなめらかな生地のネクタイをきっちりと結ぶ。  ネクタイはウィンザーノットにオーソドックスに手早く結び、地味なダークカラーのスーツに袖を通す。  いつも頬や首筋へと落ちかかっている栗色の髪を、後ろでゆるく束ねた。  ステージに上がる際には、ネクタイをテイルノットという変わった華やかな結び方にしているが、今日はごく真面目なスーツ姿だった。  元から予定していた用事の行き先と、夜に淳史と会うホテルを考えて、指先がタイピンを選ぶ。  彫銀細工の燻銀の色のタイピンを軽く留めた。  文彦は、ミラーで姿を確かめた。  細身のダークスーツをまとったからといって文彦の雰囲気が払拭されたわけでもなく、むろんサラリーマンには見えなかったが、クリエイティブ業界の人間くらいには見えた。  むしろ文彦の繊細な容姿が際立って、どこか見てはいけないもののような不埒さが漂っている。  車のキーを、手の中でチャリンと鳴らし、文彦は時計を見た。 (まずは、親父の定期参りか。それから二十二時なら、余裕で間に合うな)  駐車場で主を待っていた、忠実なビートルに乗り込んで、文彦は郊外へと向かう道路へ出てアクセルを踏んだ。  高速の出口を降りてから、しばらく走っていくと道はだんだんと細く寂しくなる。遠くに山の端、道路脇にさかりを過ぎたまばらな紅葉、平たい家々が過ぎていく。その中を文彦はスピードを落としてゆっくり進んだ。  雑木林を抜けると、細い川沿いに道は続く。  郷愁を誘う――そんな人のどこか心の片隅に思うような田園風景だったが、文彦には何の記憶も引き起こさなかった。  ただ梢からひとひら舞い落ちる梔子色の葉を、目前に見てちらりと追って、また葉が落ちて過ぎていくのへとかすかに微笑した。  道路は舗装が緩慢なのか凹凸があり、栗色の髪が振動に揺れる。  坂道の途中で、車は静かに徐行して、開いたコンクリートの門扉の中へ徐行して入っていく。  「介護ホームせせらぎ」と掲げられた鉄筋の建物が平たく建っていた。 (どうしてここに来るのだろう)  それはすべてを捨て切れない、自分の甘さなのか。  責任がある、といえばそうかもしれないし、責任がない、といえばたぶんそうなのだ。  一度捨ててしまったものを、また拾って、束ねて、その手にもてあまして、文彦はわずかなかぎろいの中で彷徨っている。  行く末はきっと誰も知らないし、文彦にさえわからない。 (ただこうしている他にどうしようがあるのだろう)  駐車してから、文彦はしばらく遠くに続いている山並を見つめていた。 (お前はあいつによく似やがって!)  悲鳴のような怒号は、いつから耳にするようになったのだろう?  知らない母親の顔を、その言葉から、鏡の中の自分の顔から思い浮かべるようになったのは?  あの灰色の街の片隅で、古いアパートの一階の部屋で。  少年の頃の追憶は、ふいに閃光のようによみがえる。  外の共同の風呂、木のきしむ廊下、壁際にはかたむいたアップライトピアノ。文彦の父親は、演奏家くずれだった。  ピアノの白鍵は黄色く変色していたが、貧しい生活の中で、女に裏切られた男が、最後まで手放さなかったものだ。  男は女の帰りを待っていたのか、それとも子どもを少しでも愛おしんだのか。  幼かった文彦を、自分の仕事場の片隅や、音楽仲間の間へと連れて行き、ごく小さいうちから音楽の手ほどきをした。  大人たちに囲まれて、音楽を教え込まれて、文彦は歳を経ていった。その時に体得したことが、文彦の土台なのだ。  しかし、薄氷の緊張をひそめた日々はだんだんと崩壊を迎えた。 (その目で俺を見るな!)  文彦が育っていくにつれて、父親は焦燥し、苦悩を隠せなくなった。 (お前の傲慢な目はあいつにそっくりだ) (幸せにしてやろうと思ったのに!お前も俺を裏切るんだろう!) (お前はあいつにそっくりだ)  それはかえらぬ女への絶望であったのか、文彦への憎しみであったのか、すでにどちらともわからなくなっていた。  もしかしたら、と文彦は思う。  もしかしたら、自分は本当の父親の顔をも知らないのではないか、と。  あまりにも転がり落ち、狂い、アルコール中毒に陥って破滅した男の、心の内はあまりにも荒んでいた。しかし、一緒に暮らした男を父親とする以外、すべを知らなかった。  ふっと軽く嘆息してから、車を降りる。  ほっそりしたスーツ姿がロビーへと入ると、職員の一人が気付いて手をあげて近寄ってきた。 「高澤さん」  よく肥えた体に、丸い目が人のよさそうな五十代くらいの女だった。  生成りのエプロンをかけて、それで手を拭きながら、目をぱちぱちとしばたいて笑った。 「お父さんに面会に? 今はお庭に出てるようですよ」 「そうですか。ありがとうございます」 「あ、高澤さん」  部屋へと行かずに、そのまま庭へと続く出入口のほうへ行こうとした文彦を、もう一度、快活な声で呼び止めた。 「最近は、お父さんは高澤さんのことも覚えておいでで。次はいつ来るんだ、と言われていることもありましたよ。それに、今日はお友達もいらして」 「友人?」 「ええ、今まで何度かお見かけしましたよ。長いお友達みたいですね」  善意的な顔でにっこり笑うのへ、文彦は軽く会釈してその場を去った。  胸騒ぎを引き起こす悪い予感に、うっすらと目を細めながら。

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