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第三章 クライ・ミー・ア・リバー(music by Julie London)3

 車椅子に乗った初老の男が、一人でぼんやりとした顔をして、芝生の上から木々の隙間に見える山際を眺めていた。 「何が見える?」  後ろからかかった声に、白髪を風に荒らされたまま男は振り返り、そして皺の多い赤黒い顔で鈍く笑った。 「ああ……あんた……また来てくれて……」  声はもぐもぐと不明瞭で聞き取りづらい。目の前に影をなして立つ文彦を、一人息子と見分けるようでもなく、顔を不器用な形に曲げてゆらゆらと笑った。  どうしても許せない所業を文彦に加えた男は、自由のきかない体でそこにいた。アルコール中毒の果ての脳卒中で、運ばれた病院での手術もむなしく半身不随となった。  変じはてて、痴呆となった今では、文彦を認識することも難しい。 「俺には復讐の機会もないんだな」 「はぁ?」 「わからなくていい」  かつて、体の回復とともに退院した男を目の前にして、そのまま街路に捨てて、再び遠く去ってしまおうか、という考えは拒否しがたい甘やかな誘惑でもって、文彦の胸を食い荒らし浸食した。  しかし、長い苦慮の末、文彦は金を払って施設へ預けることを選んだ。  その代金を支払うことは、文彦にとっても容易なわけではない。  訪れるたびに、父親である男の姿を見つめるその目は、まだ生きている、という思いと、まだ死んでいないのか、という思いを織り交ぜてけぶった。  辺りを見回しても、誰もいない。 「友達って、誰が来たの」  その問いには答えずに、老人は痩せて骨のういた手を、文彦のほうへとのろのろと伸ばす。  それを避けるようにして、文彦は踵を返した。 「中へ戻ろう」  無表情に、車椅子を押すために手をかけた。その胸の中は、無機質な波紋に満ちていた。 「――おい」  それが自分にかけられた言葉だとは思わず、文彦は腕時計の時間を確かめる。 「おい……文彦じゃねえか!」  弾かれるように目を見開いて、文彦は振り返った。 「驚いたな!ヤスジが病院からここに放り込まれたっていうから、来てみたら。覚えてるだろ?お前に譜面の読み方を教えてやったのによ」  耳にした声が、遠い過去の懐かしい記憶と結びついていた。 「まさか、面会の友達って、治さん?」  はるかな、忘れてさえいた少年の頃の記憶が、文彦の胸に立ちのぼった。  両切り煙草をぶあつい指でつまみ、さもうまそうに煙草をふかしながら、少年の目の前で譜面を指さしていた。 (そうじゃねえよ。それは、前に言ったろ。そのうちコードくらい覚えろよ)  荒っぽかったが、笑いながら、古びていたがこまめに調弦されたベースを抱えて、楽し気に語っていた。  色褪せたジーンズで、ニヒルな男前然として、いつも斜に構えていた。 「あ……」  そこにいたのは、すすけた色の作業着を着て、姿勢悪く曲がった背と、赤ら顔にごましおの無精ひげを生やした年のいった男だった。顔には太い皺が刻まれ、どこか馴れ馴れしい感じを漂わせている。  その格好や雰囲気は、目の前の姿を見ている限り、とても音楽をやっていた者とは思い難かった。  口の横にくっきりと刻まれた深い皺に、性質のよくない笑い方がのぼる。  日に焼けた赤ら顔は、何かあくどさ、ずるさがぬぐい消れずに、べったりとまとわりついている。  胸の中の記憶と、目の前に立ちはだかった姿が結びつかずに、文彦は何度か瞳を瞬いた。 「ヤスジはえらい楽な生活をしてやがるじゃねえかよ。お前は儲けてるのか?最近、名前を聞くようになったから、もしかしたらと思った。おきれいなナリしてるじゃねえか。ヤスジのやつ、得しやがったな」  にやりと笑う顔には凄みがある。 (ああ)  我知らず、文彦は胸の内で呟いた。 (堕ちたんだ)  この男も、また。  言い現しようのない疲れが、文彦にどっと押し寄せて、大きな瞳は悲哀に満ちた。 「そんなことなら、ヤスジじゃなくて、俺がお前の父親になるんだったなぁ。比那子に裏切られたって騒いでいたが、お前に投資得したな」  何を言われたのか判じかねて、文彦はじっと相手を見つめた。うっすらと遠い霞を見るように、その両目は長い睫毛の下で細められている。  治は、文彦へとずいと近寄る。耳元へ口がくっつかんばかりにし、つくった猫なで声で囁いた。 「お前にゃずいぶんと世話してやったな。お前と会うのを楽しみにしていたんだぜ。今日はお前の顔を見られてツイてるぜ、俺は。ずっと長らく会えなかったんだからよ。なぁ、俺ももうこんな歳だぜ。ヤスジをこんなところに入れておく金があるんだろ? 俺にも回しな。ヤスジばかり世話してやる義理もねえだろうが。本当の親か決まったもんでもねぇし。あの比那子なんだぜ?」  文彦は睫毛を伏せたまま、地面を見つめていた。悲哀に全身を侵されて、瞳が暗く翳った。  金がある場所へと、人はたかり、金を失ったことで、堕ちていく。  そんなことを見ていた、あの頃。 (人は、変わるのか。これほど)  なぜだ、と問うたところで、仕様もないのは文彦には痛いほどわかっていたが、問うてみずにはいられなかった。 (金が人を変えるのか――金も持っても、失くしても。困窮が人を追いやるのか。すさんでるよ)  そして俺も、と文彦は自嘲した。 (すさんでるね――) 「最近は仕事もあぶれてよ、可哀想だと思うだろ? こんな歳になってよ。お前の親父より可哀想だよなあ。あんなに可愛がってやったじゃねえかよ、ええ? 飯も食わしてやったし、音楽も、スウィングも、教えてやったじゃねえか」 「ないよ」  文彦は手短にそれだけ告げると、くるりと踵を返して、車椅子を押しだした。そのまま庭から建物へと入って行き、ロビーのテーブル近くへと車椅子を停めた。 「じゃあ、もう帰るから」 「ああ……また来てください……」  くぐもった声は、文彦の名を呼ぶこともなく、まるで歌うようにそう言った。  文彦は、無表情に車椅子に座った老いた男に視線を下げて、何も応えることはなかった。  大きい足音をさせながら、後ろから治がついて来たことを見てとって、文彦はもう父親を気にも留めずに、半ば駆けるようにして足早に施設をあとにした。  人気のない駐車場へと出れば、日は傾きかけていて、西日が射し込んでいる。 「文彦!」 「俺は、払う金は、持ってない」  文彦は車のキーを探りながら、吐き捨てるように言った。舌の奥から、苦々しい液体が込み上げてくるようだった。  ビートルまであと少しの、背の高い木々が茂る隅で、治は文彦に追いついた。 「お高くすんなよ。な?俺は手荒にゃしたくねえよ。こんな細っこいの相手によ。ウェイトが違うじゃねえかよ。穏便にいこうぜ――」  肩に馴れ馴れしい身振りで手をかける。しかし、文彦が首を横に振って拒むと、本性をむき出しにして凄んだ。怒りの形相で、うすい肩を日に焼けた手でつかみ締める。  治は静かにゆっくりと、地面に唾を吐いた。 「わからねえなら、わかるようにするだけだな」  治は憤怒に耐え切れなくなったように、歯を食いしばって強い語気で言い捨てた。  抵抗する隙も与えずに、筋肉の盛り上がった腕でずいと文彦の首筋を素早くつかみ、そばの大木の幹へと叩きつけた。咄嗟に腕で庇ったものの、文彦はこめかみに打撲を受けた。 「……ッ!」 「お前が悪いんだぜ」  抗い立ち上がろうとするところへ、強靭な鍛えられた拳が振り下ろされ、文彦は横ざまに吹っ飛んだ。  木の根元にしたたかに背を打ち付けた文彦を、治は力のままに引きずり、ビートルの影へと押しやった。  治は脚を上げて文彦の頭を踏んだ。  文彦が両腕を上げて抗うと、治は文彦の腹を容赦なく蹴り上げた。  躊躇いもなく、そうすることに慣れた器用さで、文彦のみぞおちに靴の先がめりこんでいった。 「……げ……っ!」  文彦の視界が真っ赤に染まり、くの字に体が折れ曲がる。  治は悪鬼のようにどす黒く染まった顔で、続けざまに腹、脚、腕へと容赦なく蹴りつけた。その度に鈍い音がし、文彦は痙攣した。  足元に転がる肉体が動けなくなったのを確かめて、治はようやく満足したように笑った。  文彦のズボンのポケットから、財布を探り出し、口笛を吹きながら勝手に中の札を取り出していく。  その口笛だけが、どんどんと暗くなっている景気の中で、異様な音のキレをもって響いた。 「一、二、三、四、五……」  治は、ひゅっと口笛を吹いて、笑みを湛えた。  札を慌てて、くしゃりと自分のポケットへ突っ込むと、後は興味を失くしたように財布を地面に捨てる。 「なかなか持ってるじゃねえか。こんだけありゃ当分いいな。ま、またここで待ってるからよ。またくれりゃいいぜ」  立ち去りかけたが、思い出したように戻り、力を失って投げ出されていた文彦の右の掌を、靴の底で踏みしめた。 「うッ!」 「待ってるからよ。忘れんな」  唾を吐いてから、楽し気に去っていく。治が道路のほうへ向かうと、ちょうど停車場にバスがやって来たところだった。楽し気な口笛は、そのバスに吸い込まれて行って、やがて出発音とともに行ってしまった。 「ちっ……!」  文彦は左手で、右の手首をつかみしめた。歯を食いしばり、喘ぎながら身を起こした。はぁはぁと荒い呼吸を繰り返すと、じっとりと脂汗が白い額に玉をなした。  身を確かめるために、文彦は左手を体に這わす。 (これはどうにかしたかな……右手は痛めたな。くそ――)  血の気を失った青ざめた顔で、全身がどこが痛むのかわからないほどズキズキとする中で、しばらく息を整えようと努力した。 (最悪ってわけじゃない、まだ。これよりも酷いのもあった。こんなことに慣れてるってのも、すさんでるな)  ビートルに手をかけて、少しずつ体を検分しながら、痛みを庇うようにゆっくりと立ち上がる。  首を振りやって、よろめきながら愛車のドアを開けて、なんとか乗り込んだ。バックミラーに映った顔は、こめかみあたりに赤い擦過傷ができていた。  時計を確かめ、シートにもたれてヒューと息をする。ゆるく束ねていた髪を下ろし、左手で軽く乱すと、傷のできたこめかみを隠した。  しばらく文彦は動かずに、シートにぐったりと身を沈めていた。どれくらいそうしていたのだろう。薄紫の宵は過ぎて、辺りはとっぷりと夜になっていた。 (R……ホテル。あれだけは、今日、取りに行かないと。淳史から、返してもらわないと。鎮痛剤――薬局) 「行け……」  ギアを入れ、文彦は苦痛に短く喘ぎながら発車させた。  オレンジに白に灯りが並ぶ街へと出て、文彦は駅前で小さな薬局を見つけて停車した。  淳史のもとへと向かうのへ、ひとり、体制を整えるために。

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