21 / 91

第三章 クライ・ミー・ア・リバー(music by Julie London)4

 都会の夜はきらめく夜景を見せて、星々の光を薄くさせる。空には三日月がのぼり、淡く発光していた。  ビートルが瀟洒なホテルの地下駐車場へとすべり込んだ時には、二十二時をすでに回っていた。  幾分よろめいた足取りだったが、文彦は駐車場のエレベーターから、シックな大絨毯の敷かれたロビーへと出て、フロントデスクの前を横切った。  中庭の滝を眺めるオープンラウンジの前の螺旋階段を手すりにつかまって、もたれるようにして降りていき、しばらくして立ち止まった。 「ハリーバー」と掲げられ、青く照らされた店前で、文彦は速まった呼吸を整えた。  血の気が引いた顔は、紙のように白い。  かつて、ジャズピアニストの原功夫が弾いていた店は、ブルーに統一されて、まるで深海のようにここから違う世界へ行くようだった。  バーの入り口でクロークが丁寧に出迎える。 「お一人様でしょうか」 「いえ、待ち合わせを」 「高澤文彦様でよろしいでしょうか」 「……ええ」 「萩尾淳史様がお待ちです。どうぞ、こちらへ」  文彦の顔を見分けて微笑むのへ、痛んだ傷のために文彦はわずかに顔をしかめた。  スツールの並ぶ深い色合いのカウンターテーブル、グランドピアノを囲むライブ席、それから壁際の奥まったテーブル席。  すべては青い光の下で、シャンデリアの繊細な輝きを受けてきらめいている。  いつもならピアノを検分してみたり、店内の音の響き方が気になったりするはずだったが、今日の文彦にはそんな余裕はなかった。  案内されたのは最も奥まったボックス席で、そこへたどり着くのが、文彦にとっては遠い道のりに感じられた。  それでも顔を上げて、スーツ姿に、栗色のうねった髪を垂らした姿は、何人かの客の視線を留まらせた。  文彦はゆっくりそこへと近付いた。異変を知らせないために、鎮痛剤を服用し、痛みを堪えて唇を引き結んでいる。 (もうちょっと保てよ) 「遅かったな」  そこに淳史はいた。  今日は秋冬らしくブラウン地にごくうすくストライプの入ったスーツを着、黒いソファで、長い脚を組んでいた。  緑がかったガラステーブルの上には、半分空いたブランデーボトルと、ふちのうすいクリスタルグラスが置かれている。 「まあ、あいにく暇じゃないもんで」  文彦は軽口を叩いたが、笑う余裕はなかった。 「それは、お互い様だ」 「それなら返してもらえたら、すぐに退散するよ。そうしたら、お互いに時間を無駄にしなくていいだろう――どこに?」  文彦は唇を引き結んだまま、大きな瞳を瞬かせた。 「待たせた割に、その言い草はないだろう。忘れたのか?会ったら話があると言っただろう?」 「え……」  すっかり忘れていた言葉を、文彦は今さらながら思い出して、唇を噛んだ。  テーブルへとやって来たボーイに、淳史がグラスの追加をする間に、文彦は萩尾と向かいあう、手前にあるソファへと注意しながら身を沈めた。 (あ……っ、くそ!)  文彦は痛みにうつむいて眉を寄せた。  すぐに新しいグラスが運ばれてきて、ボーイが淳史に声がけしてから、細やかにグラスへとボトルを傾けた。まろやかな輝きのアルマニャックが注がれて、文彦の前へとコースターと共に置かれた。  文彦はそれを目を細めて眺めていたが、グラスをつかむと、やけのようにぐいと飲んだ。 「味わいも何もない飲み方だな」 「味なんか飲んでしまえば一緒さ、酒なら」 「それなら、食事だって食べてしまえば一緒になるな」 「そうだよ」  事もなげにそう答えて、何かを振り払いたいかのように、咽喉をそらしてグラスを干した。 「話は?」 (早く……)  文彦はいくぶん焦っていた。 「ミチルが、『ルナ・ロッサ』で知ったことについてだ。まさか、本当とは思えない」 「何を?」  文彦の口調は、珍しく苛立っている。 「あの店に通っているうちに、内部の人間から噂話に聞いたと。十年近く昔に、高澤文彦がここでピアノを弾いていて、それは――」  淳史は、次に口をひらくのも重いように、沈黙が長かった。  文彦はその様子を、無表情に細めた目で微動だにせず見ている。  次に言うことが予測できたからだ。 「それは、商売をするためだったと」 「商売ね……」  遠まわしなその言い方に、文彦は小さくくすりと笑った。 「何が、おかしい?」 「おかしいよ。別に話をすることでもない。信じたければ信じればいい。信じたくなければ、信じなければいい。今、ここにいる、俺だけがすべてだ。肯定して欲しいの?否定して欲しいの?俺にわざわざ話すなんて、そのどちらかなんだろう?」 「文彦。だが、ピアノを弾いていたのが、体を売るため、だったなんて――」 「誰かが見たいように見ればいい。誰かが思いたいように思えばいい。俺自身は何も変わらない」  文彦はぐったりと疲れて、わずかに身じろぎして目を閉ざした。もう何も見たくないかのように。  淳史は鋭い眼差しでそれを見つめ、文彦のほうへを身を乗り出して、テーブルに手をついた。 「文彦、本当なのか?そんな噂が流れているなら、いわれのない嘘なら止めるべきだ」 「でも、周りだって他に言ってるだろう?ジャズフェスでも聞いただろう?人は勝手に言う。俺を見て、勝手に決めていく。俺が本当はどうあろうと」 「それは妬みだ。高みに行けば、誰かが引きずり降ろそうとする。だが、あの店では酷い言い様が――」 「それを、俺に、聞かせるの?」  文彦の声は、かすれて、たゆたうように小さく揺れていた。  大きな瞳は悲哀に満ちていて、それから、体の痛みに眉をしかめた。  淳史は、文彦の悲し気な表情を目にして、ハッと口を噤んだ。 「すまない。ただ確かめたくて――」 「本当だよ」  面倒そうに、脚を投げ出して、文彦は少し首を傾けた。 「本当だよ。もう、これでいい? リングを返してくれるかな」 「文――」 「気に入らないなら、もう目の前には現れないよ。だいたい、俺の用事じゃなかったんだし、リングを返してもらえれば、もうこうして会う必要もないだろう」  微笑した顔は、絵画の中に閉じ込めたように動かずに、そして真意は見えなかった。  淳史は衝撃を受けて黙り込んだ。  やがて、端正な顔に、ふつふつと泡立つような憤りが浮かびあがった。 「どうして――だ?なぜ?自分の音楽を、体を売るために使うなどと」  文彦は何も答えなかった。  ただもう淳史を見ることもなく、宙を眺めて、速い呼吸を繰り返している。唇はうすくひらいて、乾いていた。 「文彦の音は、体を売るための付加価値じゃない」  淳史は反応のない文彦に、何をどう伝えるべきか逡巡して、苦悩に顔をしかめた。 「ピアノは、文彦の核じゃないのか?それを、そんなことに利用してしまうなど――それに、どうして、そんなことを……近くに居てみて、とてもそんなことをするように思えない」 「そう? 訳なんてつまんないもんだよ」  特に反応もなく、ぼんやりとしたままの白い顔に、淳史はやるせなさを感じて、しかし諦めきれずに悲し気に眉を寄せた。 「今も、そうなのか?」 「え?」  何を指して言っているのか判断しかねて、文彦は面倒そうに顔をしかめた。 「あの男との話も、そうなのか?」 「あの男?」 「武藤領一朗は、パトロンなのか?『ルナ・ロッサ』で、高澤文彦を武藤領一朗が持っていってしまったと――それも本当なのか?」

ともだちにシェアしよう!