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第三章 クライ・ミー・ア・リバー(music by Julie London)4
都会の夜はきらめく夜景を見せて、星々の光を薄くさせる。空には三日月がのぼり、淡く発光していた。
ビートルが瀟洒なホテルの地下駐車場へとすべり込んだ時には、二十二時をすでに回っていた。
幾分よろめいた足取りだったが、文彦は駐車場のエレベーターから、シックな大絨毯の敷かれたロビーへと出て、フロントデスクの前を横切った。
中庭の滝を眺めるオープンラウンジの前の螺旋階段を手すりにつかまって、もたれるようにして降りていき、しばらくして立ち止まった。
「ハリーバー」と掲げられ、青く照らされた店前で、文彦は速まった呼吸を整えた。
血の気が引いた顔は、紙のように白い。
かつて、ジャズピアニストの原功夫が弾いていた店は、ブルーに統一されて、まるで深海のようにここから違う世界へ行くようだった。
バーの入り口でクロークが丁寧に出迎える。
「お一人様でしょうか」
「いえ、待ち合わせを」
「高澤文彦様でよろしいでしょうか」
「……ええ」
「萩尾淳史様がお待ちです。どうぞ、こちらへ」
文彦の顔を見分けて微笑むのへ、痛んだ傷のために文彦はわずかに顔をしかめた。
スツールの並ぶ深い色合いのカウンターテーブル、グランドピアノを囲むライブ席、それから壁際の奥まったテーブル席。
すべては青い光の下で、シャンデリアの繊細な輝きを受けてきらめいている。
いつもならピアノを検分してみたり、店内の音の響き方が気になったりするはずだったが、今日の文彦にはそんな余裕はなかった。
案内されたのは最も奥まったボックス席で、そこへたどり着くのが、文彦にとっては遠い道のりに感じられた。
それでも顔を上げて、スーツ姿に、栗色のうねった髪を垂らした姿は、何人かの客の視線を留まらせた。
文彦はゆっくりそこへと近付いた。異変を知らせないために、鎮痛剤を服用し、痛みを堪えて唇を引き結んでいる。
(もうちょっと保てよ)
「遅かったな」
そこに淳史はいた。
今日は秋冬らしくブラウン地にごくうすくストライプの入ったスーツを着、黒いソファで、長い脚を組んでいた。
緑がかったガラステーブルの上には、半分空いたブランデーボトルと、ふちのうすいクリスタルグラスが置かれている。
「まあ、あいにく暇じゃないもんで」
文彦は軽口を叩いたが、笑う余裕はなかった。
「それは、お互い様だ」
「それなら返してもらえたら、すぐに退散するよ。そうしたら、お互いに時間を無駄にしなくていいだろう――どこに?」
文彦は唇を引き結んだまま、大きな瞳を瞬かせた。
「待たせた割に、その言い草はないだろう。忘れたのか?会ったら話があると言っただろう?」
「え……」
すっかり忘れていた言葉を、文彦は今さらながら思い出して、唇を噛んだ。
テーブルへとやって来たボーイに、淳史がグラスの追加をする間に、文彦は萩尾と向かいあう、手前にあるソファへと注意しながら身を沈めた。
(あ……っ、くそ!)
文彦は痛みにうつむいて眉を寄せた。
すぐに新しいグラスが運ばれてきて、ボーイが淳史に声がけしてから、細やかにグラスへとボトルを傾けた。まろやかな輝きのアルマニャックが注がれて、文彦の前へとコースターと共に置かれた。
文彦はそれを目を細めて眺めていたが、グラスをつかむと、やけのようにぐいと飲んだ。
「味わいも何もない飲み方だな」
「味なんか飲んでしまえば一緒さ、酒なら」
「それなら、食事だって食べてしまえば一緒になるな」
「そうだよ」
事もなげにそう答えて、何かを振り払いたいかのように、咽喉をそらしてグラスを干した。
「話は?」
(早く……)
文彦はいくぶん焦っていた。
「ミチルが、『ルナ・ロッサ』で知ったことについてだ。まさか、本当とは思えない」
「何を?」
文彦の口調は、珍しく苛立っている。
「あの店に通っているうちに、内部の人間から噂話に聞いたと。十年近く昔に、高澤文彦がここでピアノを弾いていて、それは――」
淳史は、次に口をひらくのも重いように、沈黙が長かった。
文彦はその様子を、無表情に細めた目で微動だにせず見ている。
次に言うことが予測できたからだ。
「それは、商売をするためだったと」
「商売ね……」
遠まわしなその言い方に、文彦は小さくくすりと笑った。
「何が、おかしい?」
「おかしいよ。別に話をすることでもない。信じたければ信じればいい。信じたくなければ、信じなければいい。今、ここにいる、俺だけがすべてだ。肯定して欲しいの?否定して欲しいの?俺にわざわざ話すなんて、そのどちらかなんだろう?」
「文彦。だが、ピアノを弾いていたのが、体を売るため、だったなんて――」
「誰かが見たいように見ればいい。誰かが思いたいように思えばいい。俺自身は何も変わらない」
文彦はぐったりと疲れて、わずかに身じろぎして目を閉ざした。もう何も見たくないかのように。
淳史は鋭い眼差しでそれを見つめ、文彦のほうへを身を乗り出して、テーブルに手をついた。
「文彦、本当なのか?そんな噂が流れているなら、いわれのない嘘なら止めるべきだ」
「でも、周りだって他に言ってるだろう?ジャズフェスでも聞いただろう?人は勝手に言う。俺を見て、勝手に決めていく。俺が本当はどうあろうと」
「それは妬みだ。高みに行けば、誰かが引きずり降ろそうとする。だが、あの店では酷い言い様が――」
「それを、俺に、聞かせるの?」
文彦の声は、かすれて、たゆたうように小さく揺れていた。
大きな瞳は悲哀に満ちていて、それから、体の痛みに眉をしかめた。
淳史は、文彦の悲し気な表情を目にして、ハッと口を噤んだ。
「すまない。ただ確かめたくて――」
「本当だよ」
面倒そうに、脚を投げ出して、文彦は少し首を傾けた。
「本当だよ。もう、これでいい? リングを返してくれるかな」
「文――」
「気に入らないなら、もう目の前には現れないよ。だいたい、俺の用事じゃなかったんだし、リングを返してもらえれば、もうこうして会う必要もないだろう」
微笑した顔は、絵画の中に閉じ込めたように動かずに、そして真意は見えなかった。
淳史は衝撃を受けて黙り込んだ。
やがて、端正な顔に、ふつふつと泡立つような憤りが浮かびあがった。
「どうして――だ?なぜ?自分の音楽を、体を売るために使うなどと」
文彦は何も答えなかった。
ただもう淳史を見ることもなく、宙を眺めて、速い呼吸を繰り返している。唇はうすくひらいて、乾いていた。
「文彦の音は、体を売るための付加価値じゃない」
淳史は反応のない文彦に、何をどう伝えるべきか逡巡して、苦悩に顔をしかめた。
「ピアノは、文彦の核じゃないのか?それを、そんなことに利用してしまうなど――それに、どうして、そんなことを……近くに居てみて、とてもそんなことをするように思えない」
「そう? 訳なんてつまんないもんだよ」
特に反応もなく、ぼんやりとしたままの白い顔に、淳史はやるせなさを感じて、しかし諦めきれずに悲し気に眉を寄せた。
「今も、そうなのか?」
「え?」
何を指して言っているのか判断しかねて、文彦は面倒そうに顔をしかめた。
「あの男との話も、そうなのか?」
「あの男?」
「武藤領一朗は、パトロンなのか?『ルナ・ロッサ』で、高澤文彦を武藤領一朗が持っていってしまったと――それも本当なのか?」
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