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第三章 クライ・ミー・ア・リバー(music by Julie London)7

 文彦はふっと、吹き過ぎる風のように微笑した。 「いやでもどこかで会うだろう。同じ業界で、立場は違えど演奏していれば。むろん淳史がどんどんメジャーになっていけば、もう俺とすれ違うこともないだろうけど。メディアが違う、演るホールも違う、これからどんどんそうなっていけば。でも、それでいいじゃないか。互いの道を、互いのままに」 「そう……じゃない」  淳史の声は抑えていたが、語気は強かった。 「そうじゃない。俺は――ただ、心配なんだ」 「心配? らしくもないね――そうでもないのか、こまごましてるし」  文彦は軽く肩をすくめ、バサリとシャツを広げた。 「このまま帰って誰かいるのか?」 「別に。それに、さして大したことでもないのに、誰も必要ない」 「大した――ことだろう?」  淳史はどう伝えれば通じるにか逡巡するように、ゆっくりと言葉をかけた。 文彦はぐいと顔を上げて、普段は見たこともないような、暗い表情で陰鬱に 笑った。 「大したこと? これが? へえ、そりゃ幸せな世界だね」  馬鹿にしたように投げやりに言い放ち、嘲笑する。  常日頃の軽い仕草も、どこか受容的でアンニュイな雰囲気も消失している。  ふいと出現した、ギュスターヴ・モローの描いたセイレーンのように魔的で蠱惑的な表情に、淳史は息が止まって視界のすべてをとらわれた。 「……それは」 「ごめん」  文彦は、左手で栗色の髪をかき乱し、何かを取り戻そうと頭を軽く振った。  淳史は、忘我の心地にいたところから、失墜したようにハッと我に返った。 「何だ――もう。淳史と関わると、嫌な店に行かなくちゃいけないし、今井ミチルのことに巻き込まれたり、だいたいそんな話だって、関わり合いがなきゃ聞かされないで済んでんだ。こんな言い方、したいわけじゃない――」  一通り髪を乱して気が済んだのか、文彦はふう、と息を吐いた。 「ごめん、わかってる――わかってる。八つ当たり。自分が選んだこと――そう」  自分に言い聞かすように、小さく呟く。  淳史はそれをなだめるように、静かに語った。 「すまなかった。俺が、気になっていたら――だ。初めてプレイを見た時から。その音を聴いた時から。どうして、高澤文彦はこんなふうなんだろう?と。きっと、それがずっと心にあって、知りたかった」 「それで、謎解きはできたわけ?」 「いや……たぶん、まだ。きっと永遠できないかもしれない……」  ふっと横を向いて、心あらずに嘆息した横顔を、文彦は不思議な気持ちで見た。  鼻筋の通った高い鼻梁、冴え冴えと冷たくさえ見える切れ上がった眼差し、ラフにバックに流した黒髪は幾つか額に落ちている。唇は薄いが弾力があって、それはアルトサックスを吹く時にはしっかりコントロールされたアンブシュア、自在なブレス調整をしてみせる。  長身とその強いオーラが相まって、ステージの上で演奏する時には迫力がある。 「俺と、関わっているのは嫌か?」 「え……?」  その言葉に訊き返したわけではなかった。  いつもは強く低い声が、かすかに震えるような響きをして、不安気にさえ文彦に聞こえたからだった。  大きな瞳を見開いた文彦と、それを真正面から見据えた淳史と、視線は絡まったまま、しん、と沈黙が落ちた。  淳史はかすれた声で呟いた。 「心配だった」  長い指で額を押さえ、苦しいように息を継いだ。 「一晩、そばにいて」 「……」 「昨日、どうして会ってすぐ、顔を見て気付かなかったのか……」 「……そんなの、何の責任もないよ。ああ、そう――ありがとう」  文彦は手にしたままだったワイシャツを着ようと、ガウンを脱ごうとした。  その手を、淳史が素早く止めた。 「しばらく、ここに居るといい」 「え?」  文彦は面食らって、淳史の顔を見直した。端正な顔は、ごく真剣な表情で、文彦の反応をうかがっていた。 「一週間でも、右手が回復するくらいは。一人で家に帰すと、何だか心配で――どんな生活をしてるんだか」 「どんなって」  最後の言葉に、文彦はムッとして言い返した。  もし秋波セイがここにいたなら、文彦でもムッとした顔を見せるのだと驚いただろう。 「余計だ」 「その手足じゃ、車を運転するのも難しいだろう。どのみち、帰れない」 「タクシーで帰る。車はまた取りに来る」 「金もないのに?」  ズバリと言われて、文彦は返す言葉もなく、憮然と機嫌わるく黙り込んだ。その膨れ顔の様子に、淳史はおかしそうに微笑を浮かべて、文彦の肩を優しく叩いた。 「まあ、諦めるしかないな。俺は今はしばらく忙しいから、それほど家にいるわけじゃない。好きにしていたらいい」 「……」 「あ、ちょっと待ってろ」  淳史は不機嫌なままの文彦を気にするわけでもなく、踵を返すとベッドルームをさっさと出て行ってしまった。  また部屋に現れた時には、白にシルバー縁のトレーを手にして、それをベッドの上に注意を払いながら置いた。  トレーの上には、卵でとじられ、散らされた葱の緑が鮮やかな粥と、味噌汁、冷奴、箸とレンゲが乗っている。 「この怪我で、昨晩も食べていなかったんだろう?」 「……まあ」 「腹が減っただろう?少しは食べられそうか?」  目の前で、淳史はじっと文彦を見つめている。ズキズキと痛む体のために空腹なのかもよくわからなかったが、文彦はためらいながら左手でレンゲをつかんだ。  体の痛みと、食事の匂い――嫌な既視感にとらわれて、文彦の背中にじんわりと悪寒が広がった。  それでも粥をすくって、半ば無理に口へと押し込んだ。 「……う……っ」  吐き気をもよおして、急いで手で口を押えた。カランカランと陶製のレンゲはトレーに落ちていった。淳史が素早く肩を支えた。 「大丈夫か?」 「大丈夫……大丈夫」  文彦は震える手を伸ばすと、サイドテーブルの上の黒いケースをつかんだ。中からシルバーリングを引き抜いて握りしめ、震えながら胸に押しあてた。 「大丈夫……」  それは自分に向けた呪文のような、小さな囁きだった。 「やっぱり大事なんだな、そのリングが。その人が」  文彦には、淳史の表情はよく見えなかった。 「公彦が」  その名前を、自らが呟くのではない、他の誰かが口にする日が来ようとは。 「やっぱり好きなのか?」 「好き……?」  抑揚のない声で、文彦はこの世の終末のような失意に満ちた顔で、淳史を見上げた。二重の哀切を浮かべた大きな瞳、ひらかれたままの色素のうすい唇、青ざめた小さな顔。  淳史は、自分の言ってしまったことを悔いるように、眉をきつく寄せた。 「公彦は、もう、俺の前には現れないのに」 「すまない」  淳史は、何か開けてはいけない心の扉を叩いたのだと悟った。  身を乗り出して文彦のそばへと寄った時には、もう遅かった。 「俺は、だって――」  文彦の瞳は、さかさまに渦の中へと投げ込まれたように焦点をゆっくりと失っていく。 「文彦……文彦」  淳史は焦りながらも、なるべく優しく呼びかけ、その細い背に手をかけて、何度もさすった。  それでも、文彦の心は、遠雷のようにはるか彼方からやってくる、過去の中へと呑まれていった。 (おーい)  それはかえらぬ過去の日が、呼びに来る声だ。それは文彦の声になり、やがて公彦の声になり、目の前のすべてをさらっていった。

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