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第三章 クライ・ミー・ア・リバー(music by Julie London)6
まどろみの中で、もう得られはしない、ただ一つのものを探した。
それは春の訪れに融けた氷の上にうずまくような、鮮らかな貴方が持ち続けていた温み。
さざめくやわらかな笑い声。
真っ直ぐでいて、はにかんでいるような、清らかな微笑み。
(今日は、文彦の誕生日じゃないか)
それは青年の始まりに手にした、あまりにも早く過ぎ去った、短いきらめき。
(そうだった?)
(そうだよ)
(おねがいごとはないの)
(そうだな)
(何でもいいんだよ)
(何でも?)
生真面目な瞳で頷くのへ、文彦は笑い声を上げた。
たった一つの願いを言えずに。
(目覚めたら、そばにいて)
ずっと――そう言えずに、文彦の唇は固く鎖された。
言ってしまえば、とても悲しく脆い未来になってしまうような予感がした。
公彦との間には、薄い皮膜の下に、密かな悲しみの予感を秘めて、それゆえに輝かしく美しかった。
その願いがひとつの朝に果たされたら、それとも、もしもそれさえ果たされなくても――文彦が願いを口にして、公彦がただ一度頷いてくれたなら、文彦はその一瞬を永遠に忘れえぬものとしただろう。
(俺の……オルフェ)
渦巻く温かさとともに、胸によみがえる、その音。
サックスは特異といっていいフレージングで、リリシズムに溢れていた。
あの太陽と、風の中の微笑み。
かれに、そっと呼びかけた。
「公彦」
指を上げて、宙をさぐる。
ゆらめく眼差しで、ゆっくりと目をひらく。ぼんやりと白く滲んだ視界の中で、その影をゆらめくように見た気がした。
限りなく密やかに、かすかな声で囁く。
「いたね、公彦」
優しい微笑で、言葉を続けようとした。何だかとても悪い夢を見ていた気がする、おかしいんだよ――と。
瞳は美しい光を湛えて、はっきりと目覚めようと幾度か瞬いた。
目覚めた瞬間に、文彦は自らがいつにいるのかを知って、ぽっかりと黒い闇を湛えた奈落に落ちたかのように、急速に瞳は輝きを失った。
焦点が合わなくなり、目はうつろになって、指はだらりと力を失って投げ出された。
薄いカーテン越しに射し込まれた朝日に照らされた頬は、青白かった。
(どこだろう……?)
心地の良い白いシーツに寝ていて、ふわりとしたベッドの感触に、文彦は覚えがなかった。視線に気付いて、そっと目を上げた。
文彦は、わずかに唇をひらいたまま、ガラスのような瞳をみひらいて、動かなくなった。長い睫毛が紫色の影を刷き、目の下の隈をさらに濃く見せている。
ベッドサイドに座っている人影があった。切れ長の眼が、すっと細められた。
ふとそれが誰か判別できないかのように、文彦は少し首を傾ける。
(あなたはだれですか)
稚い子どものように、あるいは条件反射によって機械的に、文彦は透明な微笑をした。
「文彦」
その低い声に、文彦の目は少しずつゆっくりと焦点が合っていく。
そのまま、戸惑ったように、視線は止まった。
どちらも言葉を発さずに、時間さえ止まってしまったようだった。
ベッドサイドで、淳史が何も言わずに、文彦を見つめていた。
文彦は驚いて、唇をうすくひらいた。
言葉を探したが、乾いた舌は何も発することができなかった。内心の動揺が、湖の水面のように瞳を揺らしていた。
ぱちり、と視線がかち合ったまま、沈黙が続いていく。
淳史の前髪は額に幾つか落ちかかっていて、ベッドの上で手を組んでいる。淳史は床に座って、ベッドサイドから文彦の様子を窺っていた。
文彦はようやく、自分が恐らく淳史のベッドに寝かされていて、淳史がそばで見守っていたことに気付いた。
深緑と乳白色にまとめられた部屋は、綺麗に整理されている。漂うウッディな香りが文彦の鼻をくすぐり、無意識に深く吸い込もうとした。
「つ……」
眉を険しく寄せて、身を折った。
脇腹やみぞおちから、痛みが走る。
「大丈夫か?」
「平気……」
答えた声はかすれて、文彦はだんだんと昨晩のことを思い出していた。
少しずつ身を起こして、ベッドのすぐ横の壁にもたれかかる。
それだけで呼吸を乱し、しばらくうつむいていた。
「俺……は、どうして……」
「ふらふら店を出て行ったのに心配になって、追いかけてみたら、ホテルの駐車場で車のそばで倒れていた」
「そう……か……」
「なぜ――こんなことに」
淳史がそっと、文彦の右手を取った。
文彦は手を引っ込めたかったが、うまく体を動かすことができずに、自分の手を見た。手首から掌までしっかりと包帯を巻かれている。
「顔まで」
淳史の指先がこめかみのほうへと伸びてきて、文彦は思わず身を引いた。
その姿に、淳史は何も言わずに手を下ろして、文彦の右手の上へと重ねた。手が触れ合う不可解な感覚に、文彦はじっと耐えるようにうつむいて、唇を引き結んだ。
その様子を、淳史は注意深く見ていた。
「知り合いの医者を呼んで処置してもらったんだが、良かったか?」
「ありがとう……」
「右手はピアノが弾けるようになるには、一週間ほどかかるだろう、と」
「一……週間」
文彦はかすれた声で繰り返し、疲れた面持ちで青白い瞼を閉ざした。
(そんなにも――それとも、それくらいで済んで良かった、というべきなのか――)
どちらにせよ、その間は何も練習できないことは確かだった。三日空ければ、取り戻すのに一週間。
その様子を見て、淳史が思案気に口をひらいた。
「仕事に影響がありそうか?」
「仕事……なんて、俺は――」
(明日もわからない根なし草なのに)
笑おうとして、文彦は首の後ろがいやに痛むのに気付いた。
「ジャズプロムナードは来月だし、今は特には……竜野さんに連絡するくらい……」
そう言いながら、文彦は左手で首筋をまさぐる。湿布と包帯で手当てされていたが、その下がズキズキとうずく。
「酷かったぞ」
「え……?」
「右手も首筋も変色していた。体も脚も痣ができていて」
文彦は自分を見下ろすと、深い色合いのナイトガウンがふわりと肩からかかっているだけだった。
体は打撲や擦過傷のあとが丁寧に処置されて、ガーゼや白い包帯で手当てされていた。
すうと無表情になって、文彦の瞳は何もとらえなくなった。
無言で、ガウンの袖に腕を通し、ゆっくりと胸元の襟を指でかき合わせて、掌で押さえる。呼吸を何度も繰り返して、文彦はようやく軽く頭を振った。
サイドテーブルには、文彦のスマホ、財布、キーケース、そして昨晩バーで見た黒いびろうどのリングケース、几帳面に折り畳まれたスーツとシャツが並べられている。
「痛……」
首筋だけでなく、どこか良くわからないほどに、体がズキズキと痛むのを感じて、息を吐く。
「大丈夫か?」
「別に、体のことなんて……」
文彦は、額を左手でぬぐった。
ふと見ると、淳史がスーツの上着は脱いでいるものの、その他は昨晩にバーで見た服装と同じことに、文彦は気付いた。夜に文彦を運んで、それから手当てに、ベッドサイドで座っていた姿は、休息を取っていたとは思い難かった。
「ごめん……迷惑を、かけて」
「別に。関わりたくなければしない。謝りも礼もいらない。したくてしたことだ。それより、いったい誰が、こんなことを?」
「それは――」
文彦は、押し黙った。誰が?に答えれば、どうして?という問いが来るのは明白だった。
言葉を失った文彦を見て、淳史は短く嘆息した。文彦の横顔は、うすく唇をひらいたまま、まったく動かない。淳史は、一度だけうつむいて、それからすぐに顔を上げた。
「足は大丈夫か?」
「え? 大丈夫だろう。昨日歩けてたし」
「結構、腫れてたぞ」
「そう? ああ……それで、昨日歩きにくかったんだ。あれだ、アドレナリン――あまり感じなかった」
ぼんやりと言いながら、文彦は手を伸ばして、サイドテーブルにきちんと畳まれているスーツとシャツに手を伸ばした。引き寄せて、シャツのボタンを片手でプチプチと外していく。
「どうした?」
「いや。帰るから。昨日のお代と、治療費は後でちゃんと払う。また――ここに」
無機質に紡がれていく言葉に、淳史はかすかに苦しいように、上がり眉をひそめた。
「その時に、また――会えるのか?」
その声は低く、ともすれば聞き落としそうな囁きだった。
「どうして?」
「もう、現れないと感じるのは、気のせいなのか?」
切れ上がった両眼は鋭く光って、射貫くように文彦を見据えている。文彦は何となく考えていたことを見透かされて、軽い驚きを覚えた。
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