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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)2
ガチャン! と大きな音が文彦の耳をつんざいた。父親が酒瓶を叩きつけて割ったのだ。
「ウワーッ!」
「うるさい! 消えろ!」
文彦は怒鳴り返すと、大きくドアを開けて、外へと飛び出した。
駅までのうら寂しい景色には、燃えるように朱色の夕陽が傾いている。遠い駅までの道のりを駆け抜けて、文彦を滑り込むように電車へと乗った。
三駅ほど先は夜には賑わいのある地域で、夜の店が集まったビルの中の大き目のバーで、ボーイをするのが、文彦の主たる職だ。小さいエレベーターを避けて、文彦は軽い足取りで階段を駆け上がっていく。
「おはようございます」
「あら。おはよう」
ブラウンの重いドアを開ければ、その先はやんわりとした光に包まれた、開店前の準備にいそしむ夜の世界だ。
かつて芸能界を目指していたというママの趣味で、店の片隅にはピアノやドラムが置かれている。髪を美しく結いあげて、思い切って肩と胸元を見せた紺のロングドレスをまとったこのバーのママは、文彦に気付くと、派手な顔立ちでゆったりと笑った。
ピアノ演奏もできる、ということが文彦がここでボーイとして雇われた理由だ。わざわざピアニストを呼ぶ手間とコストが省けるからだ。
リクエストがある時のために、文彦は流行歌、洋楽とかまわずにかなりの曲を体に叩き込んでいる。
文彦が店の裏の狭い従業員室へ行くと、一人の男が、肩から大きなコントラバスの入ったケースを掲げて立っていた。
「よう」
「ああ、治さん。今日は生演奏だったね」
相変わらず今夜も治は、両切り煙草をぶあつい指で挟んで、斜に構えて立っている。
ジャケットとズボンはくたびれていたし、中年の域に入っていたが、文彦が幼かった頃から、男前然としたところは変わっていない。
「平井はもうすぐ来るってよ」
「そう。なら良かった」
返事をしながら、手早く白いシャツに黒いベストとズボンのお仕着せに着替えていく。
切りに行く機会を失って首筋に伸びた栗色の髪をきちんとまとめ、首元に黒いタイをつけた。
「まさか、色々と教えこんでやったガキから仕事もらうようになるとはなあ」
言葉とは裏腹に、口調は軽く、深く煙草を吸い込む。
「まあ、教えた甲斐はあっただろう? 譜面も、コードも」
「そうだな、ジャズも、ボサノバも、ブルースも。それから、スウィングも、フォービートも」
治はバタくさい仕草で両手を広げ、ひょいと眉を上げてみせる。
「ヤスジは相変わらずなのか」
「あれは……もう、戻らないだろうよ」
「そうか。もうこっちにゃ帰れねえか。その代わりに、俺たちは文彦と演ってんのか」
「そういうこと。あれだけ手が震えれば、もう戻れない。ここに来て座ることもままならないよ」
「廃人、たあこのことだな。あー怖え怖え。運命の女と出会ったばっかりに。あいつは身を滅ぼしたんだ。それもドラマだな」
(そのドラマのために、俺も巻き添えを食ったんだ)
その言葉を、決して父親の古い友人であり音楽仲間である男に、言いはしない。この店の生演奏の時間帯にプレイする仕事を、治と平井に紹介はしたが、それは文彦なりのけじめだった。
うすら笑いを浮かべると、文彦は顎をぐいと上げた。
「もう俺は出ないと」
最近では店に居残って酒の作り方を教わったり、流行りの歌もチェックしていったりと、治とももう過ごす時間もどんどんとズレていっている。
ふいと、従業員室のドアを開けて、文彦と同じお仕着せを着た若いボーイが顔を覗かせて、何かを書いた紙きれを文彦へと差し出した。
「リクエストが来たよ。弾いてって」
「俺に?」
「そう」
メモを受け取りながら、文彦がフロアへと出ると、まばらに入り出した客にまぎれて、カウンターに一人座る若そうな背中が見えた。
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