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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)3

「あのカウンターのお客様から」 「わかった――すぐ行く」  紙をひらくと、「モーニン」「ジス・ヒア」「レフト・アローン」とあった。 (えらくキザだね。ジャズスタンダードなんて)  胸のうちにわずかな反発をひそめて、さっき教えられた客を眉をよせて見やった。  ピアノのすぐ横のカウンター席の背中は、若かった。  膝の抜けたジーンズに、テーラードジャケットをひっかけて、ジンを飲んでいる。横顔は、大学生のようなかたぎの雰囲気で、素直に流れた髪や、パリッとしたシャツの襟に清潔感がある。 (知ったかぶりのガキかな)  自分の年齢など軽々と棚に上げて、心を見せないアルカイックスマイルで会釈して、ピアノの前へと座る。  そのポジションにさえ着けば、かすかに感じていた苛立ちも、投げやりな思いも、きれいに霧散していく。  ちいさく息を吸い込み、吐き出す息に乗せてピアノを弾き始める。  「モーニン」の有名なオープニングメロディが鳴る。  最初を印象的にスウィングさせ、その間をやさしく引き継ぎ、テーマに入ってまた弾むように強さを加える。ファンキー・ジャズの醍醐味を欠かないように気を配りながら、ピアノでアレンジしていく。  そのまま間を空けずに「ジス・ヒア」へとつないでいった。  文彦も好きなキャノンボール・クインテットの代表作だ。クレッシェンドをかけて胸が高まるような、ダンサブルな曲調に仕上げる。  次へと入るのに、文彦はいったんタイミングを計った。  「レフト・アローン」へと移行するためだ。  本来はサックスで始まるところを、ピアノ一本で表現していく。  マル・ウォルドロンが、ビリー・ホリディのために捧げたナンバーを、文彦は音を静かに響かせて、しかし確かなタッチで始めた。  ひとりで行ってしまった――  そんな嘆きが、近く遠くに鳴り続けていく。  肉声に近いサックスとは違う泣きを、ピアノの音の重なるアレンジで響かせて、原曲とはまた異なる哀切さがあった。  弾き終わって、文彦は目を閉じて震えるように溜め息をついた。 (まだ……ずっと続けていたい……)  一度始めてしまうと、体は高まってしまう。 「やっぱりいいな。優しくて、悲しい」   ハッとして文彦が瞳を大きく見開くと、ピアノにもたれかかるようにして、さっきカウンターで見た青年がすぐそばで立っていた。  二十歳を過ぎたところか、もしかしたら二十歳ちょうどかもしれない。黒い瞳だけが姿かたちより大人びていて、ハッとするほどに澄んでいる。 「……」  文彦はむっとした。 (何もわかってない)  夜のバーの片隅で、別に批評も評価も求めていない。  貧窮の中で、育てられたのではない、みずから育ったような環境でやっていたピアノだった。  顔をそらして黙っていたが、ここが店なのを思い出して、文彦は瞳を伏せてゆっくりと微笑した。 「前に、人と来た時に、君を少し見かけて。また聴いてみたいと思って。ここで弾いてるの?この店のピアニスト? 誰かと音楽やってるの?」  矢継ぎ早な質問に、文彦はどう答えたものか、所在なく瞳を何度か瞬いた。 「いえ、俺は、ボーイで……ピアニストじゃ――」  いまだ何でもない自分。  それを、文彦は口にした。 「そうなんだ……? ああ、わかった。いま勉強中? 目指しているところ?」 「別に……何も」  何になりたいのか、何になれるのか、文彦にはわからなかった。  ただ今日という一日が過ぎていけば良いのだと、そう思っていた。 「勿体ないね。俺は好きだな。君がピアノの前に座るとすべてが始まる、そんな感じがする。名前、なんていうの?」  返ってきたのは温かな声だった。文彦を見て笑うと、目の下に笑い皺ができた。  その青年の構えのなさを間近で感じていると、文彦はふっと力が抜けた。 「高澤文彦……」 「わあ、ニアミスだな、偶然」  青年は、ひゅう、と口笛を吹いたが、その音はひどく美しかった。そのことに気を取られて、文彦は首を少し傾けて、青年を見上げた。 「俺は、伊左公彦。兄弟みたいだね」  そう言って、春風が吹き過ぎるようにあっけらかんと笑う。そして、文彦を面白そうにじっと見つめている。 「俺、サックスするんだよ。一緒に演らない?」  文彦は思わず、眉を寄せた。  その公彦と名乗った青年には、とてもサックスを吹いているような雰囲気がなかったのだ。 「その顔はどっち?サックス?一緒にって言ったこと?」  可笑しそうにしているが、にこりと笑った顔は、初夏の陽射しのようだった。  文彦は一瞬、真っ白な何も浮かべない心になって、ただ公彦のやわらかな笑顔を見ていた。 「今日は、いつ仕事終わる?」 「……遅いよ」 「オーケー。いい返事をありがとう。いいよ、清忠はどうせいつも遅いんだ。大丈夫、待ってる」  鼻に皺を寄せながら、文彦が知らない人間への不服気な言い方をし、それから公彦は文彦に向かって嬉しそうな微笑みを向けた。  文彦はその顔を見て、さきほどの返事が文彦にとっては遠回しな拒否だった、と説明するタイミングを失ってしまった。  その夜が、文彦にとって、佐田川清忠トリオとの出会いになった。  真夜中に公彦に連れて行かれたのは、都会然とした洒落たライブハウス&ジャズバーだった。表の看板のネオンは光っていたが、外から覗くと店内は薄暗かった。  ふいに鮮やかに、店の前へとエンジンを大きく吹かして乗り付けた、白いスカGのR三二。  文彦が驚いて振り返ると、車のドアから逞しく見事な体躯を折り曲げるようにして降り立つ。ランドルフのサングラスが堂に入っていて、口にはマルボロを咥えている。男の歳は三十歳ほどだろう。  紫煙くゆらし、店のドアを躊躇いもなく開ける。  公彦がその背中についていったので、文彦もそれに倣った。 「店長、しばらく借りるぞ」 「あいよ」  男の声は、言い放たれれば決定だった。店内には客の姿はもうなく、店長である男は片手を上げて了承すると、奥へと引っ込んだ。

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