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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)4
正面にはライブステージが設えられていて、ドラムセットの前には口髭をたくわえた男が座っていた。
文彦は後ろ手にドアを静かに閉めた。
「遅かったな。相変わらず」
「ふん。今夜はヒヨコがついて来たらしい」
「ははあ。なるほど」
「それは俺のこと?」
からかうように公彦が言い、躍動的にその二人の間へと割って入る。
「そんな可愛いもんか、公彦は」
「可愛くない? こう、ちっさーい頃から一緒なのに」
公彦は大きな手ぶりでジェスチャーし、ふざけて笑った。
文彦はまったくついていけずに、薄暗い片隅で立ち尽くしている。それに気付くと公彦は、文彦のそばまで寄って、手を引っ張っていった。
「こっちが俺の親戚、ベーシストの佐田川清忠。そっちがこのトリオのベーシストの榊知久」
そんな手軽い紹介を公彦はしたものの、佐田川清忠が精力的に活動しているジャズマンだということ――すでにベーシストとしてある程度の名前を知られていること、トリオとしても活躍の場を広げていること――を間もなく文彦は知ることになる。
片隅でピアノを弾いていた文彦には知り得なかった世界だった。
「で?」
マルボロをそばにあったテーブルの灰皿に押し付けながら、清忠は公彦に問うた。
「前に話した文彦だよ」
清忠はラフなシャツから伸びた太い腕を組んだまま、じろじろと面白そうに文彦を眺めていた。やがて、おもむろに口をひらいた。
「演るか」
「おいで」
清忠の合図で動き出し、それとともに公彦がかけた声はとても優しかった。
何曲かを演奏した後、一緒にステージには上げられない、というのが清忠の判断だった。
人と演奏していない、キャッチもできない、特にピアノとドラムの掛け合いの四バースが一定の水準に達していない――それが、清忠の説明だった。
文彦はうつむいて、呆然とピアノの前で呼吸を乱している。
勝手に声をかけられて、連れて来られて、批判をされても、別に文彦が望んでいたことでもない。
ただ、頭の中で、さっきまでのセッションが鳴り響いて反芻している。
続いた曲は、波打った音は、文彦を揺るがし、知らなかった領域へと運んだ。
(これが――)
プロになるジャズマンか、と文彦は独りごちた。
それは治や父親の範疇とは異なっていて、なるほどこれでは彼らは挫折するはずだ、と悟った。
文彦の大きな瞳は見開かれ、上気した頬は薄紅に染まり、唇はうすくひらいて、情事の後の余韻に漂っているような、いけない姿を連想させる。
清忠のウッドベースはあまりに力強く、その波で一帯をねじ伏せそうな勢いがあり、圧倒的な意志力を感じさせた 榊のドラムは、文彦をからかうような余裕さえあって、文彦にはそれに応える術がなかった。
そして、公彦がアルトサックスを構えると、途端に顔つきが変わり、オープニングメロディは不思議なリリシズムをもって響いた。
その割にどこか哀切で、大学生然とした公彦の中に、こんな音があるのかと文彦は驚いた。
「でも、面白いな」
「そうでしょ?」
清忠が言うのへ、公彦は我がことのように嬉しそうに答えた。
清忠の彫りの深い浅黒い顔は、文彦の忘我とした様子を、強い光の両目でしげしげと眺めている。
「公彦が見つけて来ただけのことはある。そういう嗅覚だけは優れてるな」
「だけ、は余計だけどね」
そんな言葉のやり取りは、ステージを共にしているという確かな経験の上に成り立っている。
「日本人にしちゃ、珍しくフォービートが体に入っている。どうしてだ?」
「どうしてって……さあ……」
文彦は答えられずに戸惑った。
「質問を変えたら良いか。ジャズを何処でやって来たんだ?」
「それは――父親がやっていたから。教えられたんだよ、父親と、その仲間とに」
「何歳から?」
「さあ……あまり覚えていない――たぶん小さいうちから」
「なるほど。それはまあ、ある一種の英才教育だというわけだな」
文彦は反感をこめて、清忠の男らしい顔をじっと見上げた。
「そんな顔すんなよ。体に沁みついて入ったんだろ。ふーん。日本で生まれたのか?」
「え……」
突飛な質問に、文彦は面食らって何度か大きな瞳を瞬いた。
「そうだよ。ああ……」
文彦は遠い記憶を思い出して、すうっと目を細めた。
「父親が、母親はアメリカ人とのクォーターだったことを自慢してた、って言ってたけど」
「ははあ、クォーター――その時代の流れなら、遠いルーツに米兵があるかもしれんな。戦後あたりの」
「さあ、知らない……」
「取り入ったことだ、すまんかった。ちょっと興味が湧いたらしい」
清忠はしばらく顎を撫でさすって考え込んでいた。やがて、公彦をぐいとつかんで、引き寄せた。
「ま、お前がいいってんだから、正しいんだろうよ」
「そうだねぇ。清忠の興味がくすぐられたろ?」
公彦はいたずらを仕掛けるように、くすりと笑った。
「しばらくやって伸びるか見させろ」
清忠はそれだけ言い捨てて、榊と店の奥へと入って行ってしまった。
公彦は、ひょいと顔を近づけて、文彦の肩へと温かな両手を優しく置いた。
「もしかして、文彦が、また来ても良いよって思ったら。ここに連絡して」
公彦は折り畳まれたメモを、文彦のズボンのポケットへと押し込んだ。
「でも、もしも、連絡が来なかったら――」
急に低い声で、公彦はうつむいて囁いた。文彦は何を言われるのか、息を止めた。
「また、俺がさっきの店まで文彦のピアノを聴きに行こうかな。道は別つとも――だ」
からかうように明るく笑って、文彦の肩を軽く叩く。
ライブハウスバーから外に出ると、夜はしんしんと深く、街はいくつかの灯りも失い、空はどんよりと曇り、月さえ見えなかった。
ふと気になって振り返ると、店のドアの前に、公彦はまだ立っていた。
「またね。待ってるよ――」
遠くから、迷わずによく通る声で、そう投げかけられた言葉。一気に広がった笑顔と、大きく振られた手と、また会えることを疑ってもいない眼差し。
夜の風は強く吹きすぎ、公彦のシャツの裾を乱し、文彦の心を乱した。
(待ってるよ)
文彦はくるりと踵を返すと、夜の街を駆け出した。
息を乱しながら、面映ゆい表情で笑った。
そんな言葉をストレートにかけられたのは、文彦が覚えている中では、初めてのことだったのだ。
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