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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)5
深夜に電車が動いているわけもなく、文彦は早朝まで時間をつぶし、始発の電車で、戻る気にもならない家へと重い足取りで帰っていった。
色々な出来事が続いて、心はふわりと軽いのに、体はぐったりと重く、文彦は灰色の町をのろのろと抜けて来た。
古いアパートの部屋の前、ドアの鍵は閉まっていなかった。
(また鍵をかけなかったのか)
といって薄汚れた部屋に泥棒が入ったところで、何か盗むものもありそうにはない。ノブに手をかけると、いつも通りの散らかった部屋の光景があるはずだった。
「これはこれは。おかえり、坊ちゃん」
「誰だ!」
横合いから、凄まじい力でぐいと引かれ、大きな掌で口を塞がれる。
「騒ぐな。殺すかどうかはお前しだいだ」
文彦の大きく見開いた瞳が見た光景は、派手なシャツを着崩した二人の大きな男が、父親を足で何度も蹴りつけているところだった。肉がぶつかる鈍い音が繰り返し響く。
父親はすでに気を失っているのか、ひっくり返ったまま、蹴られるたびにグラグラと揺すぶられている。
「う……ッ!」
塞がれた口で、文彦は不明瞭に叫んだ。
文彦の口を押さえ、羽交い絞めにしている男を横目で見ると、黒いスーツに撫でつけた髪で、性質の良くないうすら笑いを浮かべていた。
文彦の細い体はぎりぎりと締め上げられて、苦痛に呻く。
「あー、これはこれは。聞いていたより器量よしだなあ。実際の年齢より幼く見えるし。ちょっと考えていた使い方とは変えるか」
文彦の体を動けないように的確に押さえたまま、ぶつぶつと呟き続けている。
「バラすのは勿体ねえかあ。売るか。なあ、坊ちゃん。ウリが良いかい?」
そのドスのきいた声や、あくどい顔つきにそぐわない奇妙な猫撫で声で、文彦に語りかける。むろん文彦は答えることができずに抗ったが、体を動かすことはおろか、腕を外すこともできなかった。
男は文彦から答えなど求めていなかった。
「俺にはわかんねえんだけどよ。若けりゃいいってのもいるんだな。ほら、見てごらん。あそこでパパが死にそうだよ。パパのお金をちゃんと親孝行して返そうなあ? パパが借金したお金、坊ちゃんも使ったんじゃないのかなあ。だったら、ちゃんと俺たちに帰すのが、人間、てもんだよなあ」
(知ら……ない!)
「死ぬのがいいかい? 生きて売るのがいいかい?」
文彦の顔が苦悶にゆがみ、顔は蒼白になった。
「さあ、一緒に行こうか?」
穏やかな口調と裏腹に、悪鬼のように凄まじい形相で、男はにたりと笑った。
文彦の白い首筋に、男の手刀が間髪入れずに叩きつけられ、鈍い音とともに、文彦はずるりと気を失った。
文彦が連行されたのは、とあるビルの最上階の一室だった。
少しずつ戻ってくる意識で、ぼんやりと霞む視界にとらえたのは、脚を組んで座っている黒いスーツの男と、文彦の体の上にいるラフな格好の若い優男だった。
文彦は、全裸にされてベッドの上で脚をひらかされていることに気付いた。
「後ろは何も変形していない。手付かずですね」
「ははあ。それは良い子だ。あの人に売れるだろう。まあ、なら、広げとくか。使い物にならなくなるのは避けたい。局部裂傷、内臓損傷したら使い捨てになっちまう。他にも使いたい」
「他とは?」
「ピアノが上手いんだってよ。『ルナ・ロッサ』で弾かす。あそこはそこそこの人物が出入りしている。あの店の上客層に気に入られるようなら、あの店で売らせる」
「なるほど。なら、丁重にしますか。仕込みも要りますね」
若い男が脚の間へと割り入るのにぎょっとして、文彦は叫ぼうとしたが、ぐいと咽喉を太い指先が押さえた。いつの間にか、黒いスーツの男がやって来て、的確に文彦の体を封じていた。
文彦は腕を振り上げようとしたが、手首にはがっちりと拘束具がつけられ、ベッドにベルトで縛り付けられていた。
「……ッ!」
歯を食いしばって、暴れようとしたが、白い咽喉にピタリと凍てついた感触が当たった。鋭いナイフの刃先が、文彦の首筋に突きつけられている。
「良い顔だなあ。まだ何かできると思っているところが」
「久々に嬉しそうな顔してますね」
そして、文彦に向かって、ゆっくりと囁いた。
「なあ、お前は原材料なんだよ? それを、俺たちがちゃんと商品にするんだよ? 経済活動をするにはちゃんと流通して、利益もあげないといけないんだよ? そういう苦労を、わかってるかな? そこまでには費用もかかるし、営業努力もしないといけないんだよ? お前にだって仕込む手間はいるんだし。だから、大人しくしとくんだよ――なあ。抗えば、殺す」
二人の男は、うすら笑いをした。
解放されたのは、一週間後だったのか、十日後だったのか、文彦には判然としない。
文彦はまたアパートの部屋の中へと投げ出され、男は言い放った。
「また迎えに来る。次は『ルナ・ロッサ』だな。いいタマじゃねえか――助けてもやめろも言わず、殺せ、か。サツに言おうなんて考えるなよ。必ず追って、死ぬほうがマシなくらいの目に遭わせてやる」
文彦は物が散らばった床に投げ出されて、起き上がることもできずに、真っ青な顔で硬直していた。
どれほど、これが現実ではないと望み、逃げられないことに絶望しただろう。
やってきた客が何人だったのか、文彦は覚えていない。ただ合間に、若い優男に風呂に突っ込まれ、処置をされて、たまに箸もついていないコンビニ弁当を置いていかれた。
食べ物を見て、ひどく耐えがたい腹痛が、空腹のためだと気付くのだ。
体のどこもかしこも痛み、自分の体がバラバラになって、もう二度と元には戻らないことを識る。体はただのずた袋になって、振り回され、排泄され、苛まれたのだ。
心を蝕んだ衝撃は、体に値段がつくことをいやでも知らされたことだったのか、誰にも知られなかったはずの肉体の奥深くまで傷つけられたことだったのか――
文彦の心をもっとも砕いたのは、文彦の魂であるなどということはまったく無関係で、無意味だったこと――自分の意思がまったく通じないという打撃は、文彦のプライドを打ちのめした。
嗜虐的な客ばかりだったのだろう、文彦の叫びも拒否も、すべては性の玩具にすり替わって、弄ばれた。
自分の心のままに、激しく抵抗すればするほど面白がられるのだと気付くのに、さして時間はかからなかった。
心を体を封じる以外に、文彦には自分を守る術などなかった。
それでも耐えがたい叫びと懊悩。
自分の苦痛を少しでも紛らわせようと、文彦は一人になった時間に、弁当のプラスチックの蓋を震える手で開けた。
手で食べ物をつかむと、口へと押し込んだ。
味はまったくしなかった。文彦は泣いた。こんな事態になってさえ、死ぬこともできずに、食べている自分があまりにも空しく、浅ましかったのだ。
そのことを繰り返すたび、文彦は味を失っていった。
ようやく家に帰って来たが、部屋の片隅で転がっている父親であるはずの男が、生きているのか死んでいるのかさえ、文彦は興味を失っていた。
(お休み――お休み、レグナチオン……)
いつか目にした詩を思い出して、文彦はぼんやりと壁にもたれかかった。
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