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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)6
「Summertime, time, time……
Child, the living easy――」
ぎりぎりまで照明を落とした「ルナ・ロッサ」の店内に響くのは、胸苦しいようにかすれた声だ。むっとするほど不吉な甘い匂いが漂う、深い海の底のような店内を、ひそやかな哀しみに満たしていく。
(サマータイム――坊や、生きていくのはわけないの。魚は跳ねて、木は高く、父さんはお金持ち、母さんは美人、きっと。No no……だから静かにして、泣くのはおよし。ある朝、大きな翼を広げて大空へと羽ばたくの。天国へと。その朝が来るまで誰もおまえを傷つけはしない――)
あやしく低いざわめきが行き交う中で、誰が聴いているわけでもない。
誰かが気に留めているわけでもない。
誰もそんな音楽など求めてはいはしない。
壊れた人形のように青白い顔で、それでも文彦はピアノの前に座ると、引きずられるようにその世界へと入ってしまうのだ。
適当に流すことのできない自分自身が、今となっては文彦には重荷だった。
いくつかの日々を重ねて、その肉体の上を男たちが通り過ぎた。年上の女もいた。そもそも自分自身の性指向が何であったか、文彦には不明瞭になっていた。
肩を叩かれて、文彦はゆっくりと手を止めた。
文彦はけだるく、深い夜の道を、歩き続けた。
夜の中に身を委ね、精液の匂い、慌ただしく札を数える事後、しらじらしい朝。
「サマータイム……」
絞り出されるような、かすれた歌声。道路に響くこともなく、ただ宙を彷徨って消えていく。
街の片隅、尻をうごめかしていた男、放出の時の歪められた顔、皺になった紙幣、洗ってもぬぐいきれない匂い。
文彦は、ずっと持っていた紙片を取り出した。きちんとした綺麗な文字で、伊佐公彦、という名前と電話番号が書かれている。
(待ってるよ)
あんな行きずりにも似た、数か月前の約束を、相手が覚えているなど、文彦には思えなかった。
(もうあまりにも遠い、あまりにも違ってしまった――)
夜明け前の道路で、ひとり立ち尽くしている。
何処へも行く場所などない。
文彦はさっき見た、かつて自分が働いていたバーのあるビルを脳裏に思い浮かべた。長らく無断欠勤していた従業員に、店の誰が用があるのだろう。
文彦は長らくその場にいることもできずに、顔を伏せて、また行くあてもなく彷徨っている。
こうして侵食され、搾取される側には何の手落ちがあるというのだろう?
貧しかったからか、弱かったからか――それらが理由になるのだろうか?
ふるえていたのは、寒さだったのか、飢えだったのか、痛みだったのか、悲しみだったのか、怒りだったのか。
(それも、もうどうでもいい……)
文彦は人知れず眉を寄せて、声もなく泣いた。
遥か遠くに見える信号は、いつまでも血に濡れる赤色のような気がした。
朝になる前にナイフを持って、人を殺してみたかった。
モリタート――そうして、人は堕ちていくのか。
「タイム、タイム……」
哀しい子守唄を、乾いた唇に乗せて、繰り返し、繰り返し。
あの日も、あの時も、子どもの瞳のままではいられずに。
永遠に来ないのではないかと思われる朝は、誰もいない夜明け前に息をひそめている。
もっとも最悪な時にこそ人は独りなのだと、そう識ったこの季節に。
どれくらい歩いたのだろう。文彦の足取りはふらふらと覚束なく、一つの店の前で立ち止まり、そして見上げた。
かつて公彦に連れて来られた店の、公彦が最後に手を振っていた扉の横に、文彦はずるずると座り込んだ。
ふるえる指で握りしめていた紙片をひらき、ズボンのポケットから携帯電話を取り出して、その番号通りにかけた。この夜中に相手はすぐに出た。
「はい」
後ろはややうるさく、公彦が一人でないのがわかった。文彦は何も話すことができず、ただ沈黙が続いた。
「……もしかして、違ってたらごめん。文彦?」
文彦は息を呑んで、その場に固まった。
「違う? 文彦じゃない? お願い――返事して」
そんな言葉を想定もしていなかったのだ――文彦は瞳を閉じると、唇をふるわせた。心地よいテナーの声が耳から沁み入り、文彦の心へと、水滴のようにぽとりと落ちた。
「……そう」
乾いた声で、それだけ告げる。それ以上は、話すことができなかった。
「えっ、本当に? 文彦? 良かったァ! 俺、ちょっと抜けてるもんだから、文彦の連絡先を訊いてなかったんだよ――電話があるか、あの店に行けばすぐ会えると思ってたし。そしたら、待てども電話はかかってこない。店に行っても文彦はいない。誰も文彦の行く先を知らないし、もう二度と会えないのかもしれないと思って……文彦?」
矢継早に早口で重ねられる言葉のすべてが、文彦の心に押し寄せ、波打って、春の湖のようにきらめいた。
「うん……うん――聴いてる……」
文彦は静かにそっと囁いた。公彦の声を、話を、もっと聴いていたかった。
(俺のことを――覚えていてくれた)
「けっこう探してたんだよ。まあ、余計なお世話かもしれないけどさァ。どうしてた? 元気? 何か気が変わって、電話くれた? また、俺たちのところに来てみる?」
「うん……うん……」
文彦は、かすかな微笑を浮かべて、公彦が喋る心地よいリズムにただ耳を傾けていた。
「……どうしたの? その声」
「うん……」
文彦にとって、公彦が何を語っているのか、もう聞き分けることは出来なくなっていた。意識は茫洋として、暗い海の波間を彷徨うように、ふらりふらりと揺れ始めていた。
「文彦、何処にいる?これだけ、返事して――お願いだから!」
電話を通してでもまっすぐに通る声を、公彦は張り上げた。
「あの……店に……公彦と……」
「俺と、俺と何?文彦!」
(どうしたんだろう……)
公彦の焦っている声に、文彦はくすりと笑ったつもりだったが、そうは出来ずに両手はだらりとアスファルトに落ちた。
「文彦――!」
バン! とすぐ横の扉が大きな音を立ててひらいた。
うっすらと白く靄がかかった視界で、文彦が最後に見たのは、澄んだ両目を大きく見ひらいて、驚きに叫んだ白い人影だった。
「文彦!」
それは吹き過ぎる一陣の風のように、清らかだと文彦は感じた。白い人影は、空から羽ばたき舞い降りるように、文彦のもとへとやって来て、その視界いっぱいに広がった。
重たくもう自分の意思では動かせない体と、冷たい唇で、文彦は呟いたつもりだったが、それは声にはならなかった。
(天使の……お迎えかな……)
罪多き自分でも――文彦はゆっくりと瞳を閉ざした。
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