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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)7

「あ。文彦!起きた?」  よく通る声だが、優しい響きで、文彦の耳へと入ってきた。 「良かったァ――」 (俺は……まだ、生きていたんだ……)  文彦は眠りの中から、ぼんやりと意識を取り戻した。  文彦は意識を取り戻すと、自分が店のソファに寝かされていることがわかった。すぐそばで、頬杖をついた公彦が、ゆるやかな笑顔で文彦を見つめていた。 「公、彦……」  直ぐな髪が揺れて、屈託のない笑顔、目の下に笑い皺ができる。二十歳らしい姿なのに、瞳だけが賢しい犬のように深く大人びている。 (また、会えるなんて……)  思ってもみなかった――文彦は無意識に、そこにいるのが本当なのか、指を伸ばして確かめようとした。迷うことなく、公彦がその指を強くつかみ、安心させるように一度ぎゅっと握った。 「見つけられて……良かった。電話もしてくれて……ありがとう」 「それは……」  俺のほうなのに、と文彦は言いたかったが、声がかすれてうまく話すことができなかった。公彦に握られている手が温かく、その箇所だけが、自分自身が生きている証拠のように感じられる。  しかし、文彦はそっと指を外すと、体に軽くかけられている大きなタオルの中へと、手を仕舞いこんだ。  公彦は不思議そうに首を傾けた。 「大丈夫――?」  澄んだ瞳で、ただ文彦を見つめている。 「もう大丈夫だろう」  公彦の問いをさらって答えたのは、文彦ではなかった。その腹に響くような声は、構うことなく続けられた。 「それから、こういう時に俺を呼ぶのは、よせ」 「まあまあ、こういう時でないとせっかくの医学部くずれが無駄じゃねえか。だろ? 領一朗」  無言で立ち上がり、歩く硬い靴音がする。  文彦が視線を上げると、公彦の肩の向こう側に、大柄な男二人が立ったまま話し合っている。 「ごろつきと変わらない。ベースがなければ、清忠」 「それに関係ねえわけでもねえだろう?」 「何故?」 「いやいや、お前さんの経営する店先で“お客様”が倒れていたんだぜ。俺たちは従業員でも何でもない。責任者を呼ぶだろう?」  文彦は、まだゆらゆらと揺らぐ視界で、片方は以前に公彦に紹介されてセッションしたベーシストの佐田川清忠だと判別できた。  もう一人は文彦の見知らぬ人物だった。   長身で筋肉質な清忠と変わらない体格で、年齢はやや清忠より若い。  ラフなシャツに短髪の清忠とは違い、腕まくりしたベージュのシャツに皺のないズボン、髪をオールバックにしている。  ブラウンにグラデーションのかかったサングラスのせいで両目は隠されていたが、なめし皮のような肌、静かなのに隙一つない身のこなしに、非日常さが見え隠れしている。  清忠と並ぶと、犬種の違った大型犬が並んでいるか、ライオンと虎が並んでいるような印象だ。清忠のほうがざっくりとして放埓な雰囲気があり、もう一人の男は静謐な硬質さで、お互いに雰囲気が異なっている。 「従業員でもないくせに、勝手に人の店を使いまわしてんじゃねえか」  先程までから言葉遣いを変え、獰猛に鼻に皺を寄せて、男は凄むように言った。 「まあまあ、ジャンキーなのかトラブルなのか、見分けんのは俺の知り合いじゃお前さんが一番だもんで。最近は色んなことが物騒だ。にしてもスーツしか見てないせいか、普段着がおっそろしく似合わねえな」  気にもしていないような気軽な返事で、にやりと笑う。 「清忠、だいたい、てめぇらが真夜中に呼び出すからだろうが。ちっ、どうしようもねえ。栄養失調と睡眠不足、過労だろう。それ以上、調べたければ、てめえらで病院でも連れていけ」  バサリとダークカラーの上着を手に取ると、横目でちらりと文彦を見た。サングラス越しでもその視線の鋭さと、冷たく感情のない様がうかがえる。  文彦は無表情になって、静かに起き上がった。 「文彦、もう起き上がって大丈夫?武藤さん、どうもありがとう」  律儀に振り返って頭を下げる公彦を見ながらも、武藤領一朗という名らしい男は微動だにしなかった。 「どういう経緯かはむろん預り知らないが。自己管理だけはちゃんとしておくんだな。体が使い物にならなくて困るのは、てめえだろう」  その言い捨てた言葉に、文彦はさあっと顔の色を失くして、青ざめた。  公彦と清忠は、何事か? と尋ねるような表情になっている。  文彦は、武藤一人だけが自分の事情に思い至ったのだと合点した。勘なのか、経験値なのか、情報なのか、とにかく武藤という男には気付かれたのだ。 「……余計なことだ」  文彦はかすれた声を絞り出して、心を止めることができずに、呟いた。 「そんな口を叩ける根性があるのか。まあ少しは気概がありそうだな」  肩幅もある長身で立ち、特に感情を込めていない口調、上から見下ろしている強く男らしい顔の冷たい眼差しに、我知らず文彦はふるえだした。  それは、恐れのためではない。ただ傷つけられた魂が、さらなる凍える風に当たって、悲鳴を上げたからだ。 「何が……何が、わかる――」 「まあ憤るな。体にさわる。その細っこい、綺麗なんだろう顔と体にもな」 「別に――俺が、こうなりたくて……なったわけじゃない!」  文彦は体にかけられていた大判のタオルをぐしゃりとつかむと、公彦が止めるのも間に合わない素早さで、武藤へと投げつけた。

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