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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)8

 武藤の顔にバサリとタオルがかかる。  その顔からタオルを静かに外すと、ようやく文彦が人間であることに気付いたように、わずかに眉を寄せて表情を浮かべた。 「あんたらみたいなのには、わからない! 野生の大型種に生まれついたのと、違うんだ――!」  文彦はふるえたまま叫んだ。  公彦は目を丸くしてびっくりし、清忠は節だった指で顎を撫でている。 「おい、領一朗。そこの文彦はピアノ弾きなんだぜ」 「そうなのか?」  武藤は初めて文彦に向かってサングラスを外し、可笑しそうに片眉をひょいと上げた。彫りの深い顔立ちは南方の人間のようなのに、どこか暮明があって表情は薄暗い。 「面白いやつだな」 「文彦に、色々言わないでくれる? まだ体調が悪そうなのに」  公彦が庇うように、文彦の前へと立った。 「まあ、いい。俺は暇じゃない。もう俺を気安く呼ぶな。当面は俺と関わらねえほうがいいだろう」  じゃあ、とも別れの言葉も言わず、武藤はサングラスを素早くかけ直すと、誰からの返事もまたずに、すぐに店から姿を消してしまった。 「文彦、これいる?」  文彦の注意を変えるように、公彦が明るい声で眼前にひょいと顔を出した。 「え……?」 「さっきコンビニで買いそろえたレトルトで悪いけど。確かに前に会った時より顔色が悪いね。寝れてる?」 「……」  公彦はカチャカチャと音をさせて、上半身を起こした文彦の脚の上へ、白いプラスチックのトレーを置いた。  そこにはお椀に入った白い粥と、白いレンゲ。膝の抜けたダメージジーンズに、白いシャツを着た公彦と、妙に相まっている。 「痩せた気もするし。何か食べたほうがいいよ。ほら」  文彦が拒否するなど考えることもない仕草で、粥を多くすくうと、文彦の口へと押し込んだ。味は感じられなかったが、むしろその雑多な手つきに、文彦は押されてごくりと呑み込んだ。 「あ、そうそう。いい感じ。なんかアレみたいだな、そうだ、ヒツジ? ウサギ? の餌やりみたいな」 「いい加減にしろ、公彦」  呆れたように言ったのは、どんどんと口元に運ばれる粥に押されている文彦ではなく、頬杖をついて嘆息した清忠だった。  文彦は、くすり、と小さく笑った。公彦といると、世界はなべて平和な気さえしたのだ。 「あ」 「え?」 「可愛いじゃん、笑ったら。もっと笑えばいいのに」  公彦の目の下にできた笑い皺は何の思惑も隠しておらず、ただ単純な明快さに満ちていた。  ここには平和な日常があり、嘘のない情がある――しかし、文彦は視線をふっと落とすと、ともすれば気付かれないほどに小さく首を横に振った。 「あ、ほら。全部食べれたよ。やっぱりお腹空いてたんじゃない?」 「あ……」  公彦にストレートにそう言われれば、そういう気もして、文彦は頷いた。  面と向かって初めて人に食事を食べさせてもらったことに、文彦は今さらながらに恥ずかしく感じて、掌で頬をこすった。 「どうかした?」 「ううん……」 「今日はもうここで休む?それとも、俺の家に来る?ここから近いんだ」  あっさりとそう言った公彦に、文彦は驚いて顔を上げた。 「いや……俺なんか、何者かも知れないのに……」 「俺は誰を信じるかは、俺が決める。外れれば自分が間違っていたってことさ」  口調は単純明快だったが、それだけでない心を、文彦は感じた。 「うん……でも。帰らないと」 「そっかァ」  どこか残念そうに言って、ゆっくりと笑う。それ以上を訊くことも、それ以下に黙ることもない。  不思議と穏やかな波間に漂うようなやわらかさに、文彦はうすく唇をひらいた。  ただ優しいから――なのではないことを、文彦はわずかに感じていた。  その後ろで何かを考えている様子の清忠と、何かしら通じる強さを、公彦もまた内包しているのだと、そう思ったのだ。 「今日はお別れだけど。今度は俺から連絡するよ」 「……」 「次は、一緒に演ろう」  澄んだ瞳はすぐ目の前にあって、それはついさっきまで果てしなく遠いと思っていたものだ。文彦は、黒目をまぶたに引きつけて、じっと公彦と、それから清忠を見渡す。  やがて、文彦は、静かにうなずいた。  今どちらの返事をしても、遅かれ早かれそうなる、そんな予感に襲われていた。

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