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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)9

 やさしい――やさしい、夢を見る。  まどろみは浅く、たゆたいは深く、裏側に絶望を巧妙に隠して、手のひらひるがえし、ひるがえし。  何処へもいけない――そんな嘆きは心を覆いつくすのに、想像は燃えるようにはぜるのだ。  汚泥の中から、ほのかな尖りの臈たけた花びらが、ふるえるほどの清らかな色ですっくりと花ひらくように。現世が苦しみで塞がれれば塞がれるほど。  行き止まりのブルースは、誰のためでもなく韻々と鳴り続けている。  次第に一つの名前は、世界の中で確かなものになって、ついには苦しみに耐えきれない時間に、たった一つすがる名になるのだ。 (公彦)  少しだけ年上の、少しだけ背の高い――かれ。  どんな名前もを心に持たなかった人間が、たった一つやさしい名前として手に握りしめる。  サバイバルの闇夜に、それだけを頼りに見上げる、一等星として。  佐田川清忠トリオとの出会いを境に、文彦の音楽の道は、さらなる確かさと幅広さを得ていった。  体を引きずって「ルナ・ロッサ」へ行き、暗がりに苦痛に満ちたあやしい吐息を重ねる合間に、文彦は佐田川清忠トリオのステージ外の練習に顔を出すようになっていた。  日常の大半は、文彦の意思も魂も関係なく進んでいく。  文彦に知性があろうとなかろうと、何を感じようとなかろうと、そんなことは気にもかけられない。ただ、ものになって、商品になって、それでもハネられた金が入るわけでもない。  そのうちに知るのに時間はかからなかった――自分は高い値のつくハクであり、幼いうちからナルシスの耽溺にひそかに自慢に思っていた容姿は、足枷だということを。  文彦が対面した世界で、男として肉体的に力が足らず、何者でもないことを思い知らされる。  学んだのは、性の前で出会う客は直情的にむき出しで、そして性の前に人はだらしないことだった。文彦が技量と直感を研ぎ澄ませていけば、被害は最小限に押し留められる。 (それでも生きるんだろうか)  日常の片隅に、ただ、かれが生きていたから。  そのあたたかな声をかけられる瞬間のために、何かを口に押し込み咀嚼し、うつらうつらと寝て、最低限に生きられるほどに体を保つ。  なぜなら、かれは明日も文彦が生きていると信じて疑わないから。 (待ってるよ) (またね)  さよなら、を言わないかれの、いつも別れ際に見る、はにかむような清潔な微笑み。  音楽も、文彦も、そのすべてを包まれて認められるような、面映ゆい感覚。その外見より力強く大らかな魂が、文彦に向けられている。  ただその瞬間だけを指先で細くたぐり寄せて、ちいさなかけらをかき集める。  文彦が生きるよすがは音楽なのか、公彦なのか、自ら判然としないまま、清忠たちの前へと行ってピアノに座る。ただその場所では、文彦自身であること、どんな魂であること、何を感じているのかを必要とされるから。  清忠の文彦への当たりは、しばらくきつかった。  最初はまさに様子見、だったのが、だんだんと二人のぶつかりが激しくなり、公彦もドラムの榊さえも、口出しできない状態になっていた。  清忠はよく途中で曲を止める。 「ありきたりにするな。ガクメン通りじゃねえか、それじゃ」  声は荒げないが、低くよく通る。  文彦がぎらりと睨むのは、近からず遠からず、というのを自らわかっているからだ。 「どうしてお前は人とやると弾けねえんだ。一人じゃ弾きやがるのに、どうして人とだと自分にならねえんだよ」 「……」 「あのな。よく鼻歌もうたってるが、あの声の出し方は咽喉を痛めるからちゃんとしろ。俺でも公彦でもいいだろう? 基礎は作っておかないと途中で壊すぞ。それから英語のリンキングもな――耳はえらく良いんだから勉強しろ。耳だけであれだけやれるんだから、まだもっとやれる」 「まだもっと、勉強ね――余計なお世話だ」  暗い声で答えると、文彦は苛々としてきかん気に顔をそむけた。 「お前は一人だと語ってる。その向こう側に人間がいて、トークすることを忘れるな。それがなけりゃ、セッションしたって意味がないだろう」  文彦は、投げかけられる言葉を跳ね除けたいように、じっと瞳をまぶたに引きつける。それから癇癪を起こして、手荒くピアノの蓋を閉めた。バン! と大きな音が響いた。 「文彦」  驚いて、公彦が駆け寄ろうとする。 「知るかよ! わかんないよ、そんなの! 俺に言われたって!」  清忠は、無言で文彦の襟元をぐいと強い力でつかんで、引きずり寄せた。公彦と榊は、視線を二人の上に交互に彷徨わせ、止めるかどうかを迷っている。 「なんで出せないんだ。なけりゃ、言わない。文彦」 「わかんないよ! やってるつもりだよ」 「それでか」 「あんたらの買いかぶりなんじゃない?」 「それなら誰も最初からここへは呼ばねえよ」 「俺は――別に、あんたらとやりたいわけじゃない!」  言ってしまってから、文彦はハッと顔をこわばらせた。 (うそだ――)  そんなことがあるわけがない。初めてセッションした時の、ついてはいけなかったものの、忘我とした感動、いつまでも続けていたい余韻。文彦はどうしていいかわからなくなって声を荒げた。 「俺はもういいよ!」  清忠が大きく厚い掌で、文彦の肩を上からつかんだ。瞬間の反動で、文彦は一瞬だけビクッと身をすくませた。殴られるかと、思ったのだ。 「どうしてだ」  清忠は大柄な体で、文彦の目線まで屈んで、穏やかに訊いた。  文彦はややよろめいて、ただ目の前にある清忠のまっすぐな濃い眉や、短髪の男らしい顔、厚めの唇を見つめている。

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