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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)10
「どうしたら――どうやったら、お前は扉をひらく?」
「え……?」
問うた清忠の両目は、あたたかく優しさに満ちていた。
その時に、文彦は気付いたのだ。
何も答えることができない自分に。
わっと泣き出したい気分をこらえて、文彦は青ざめた顔でふるえた。心配気な公彦の視線を感じながら立ち尽くしていた。
清忠に背を向けると、壁際に投げ出していたカーキ色の薄いコート、黒い簡素なナイロンリュックをザッとつかみ、文彦は走り出した。
大きな音を立てて出入口のドアを開けると、しんしんと寒くなった外へと出る。外壁にどしんと身をぶつけ、そのままずるずると座り込んだ。
文彦は、細い両腕で自分の顔を覆った。咽喉が鳴って、涙が流れていくのに、文彦は気付かなかった。
(冷たい――)
自分の心は、凍るように固まっている。
自分の手には、人と関係する力も業も優しさも残っていない――
(無理なんだ。俺には。所詮、無理なんだ。甘い夢をみていた……)
現実を振り返れば、あまりにも厭わしい。
心を踏み潰されて、プライドを折られて、信じたくはない現実から逃げられる場所としていた。
文彦にどうしようがあっただろう。
むきだせばすぐにでも血の滴りそうな魂を、ただ一つの場所でどうやって、ためらいもなく曝し出すことができただろう。
力、支配、金を争うことでなく、ただ純心に人を求め求められるすべも、手にすがるすべも、文彦の持ち手にはありはしなかったのに。
「文彦――文彦?」
ドアが開く気配と公彦の声がして、文彦はあわてて手荒く顔を掌でぬぐうと、リュックの中に手をつっこむ。うつむいて栗色の波打つ髪で頬までを隠し、本を読んでいるふりをした。
「文彦、ここにいたんだ。良かった。何処かに行ってしまったんじゃないかと思って」
誰かに追いかけられたのも初めてだった。
「何処かって……」
声がふるえるために、そこまで言って、文彦は青い顔でじっと唇を噛んで押し黙った。
「うん。文彦は、ある日、何処かに行ってしまいそうな気がする」
文彦の横にぺたりと座りながら、寒い夜空を見上げた公彦の顔は、笑いながら悲し気だったことを、文彦は知らない。
「清忠、待ってるよ。まあ、もう今夜は文彦が戻らないのはわかってるだろうけど」
文彦は何も答えられずに、ただうつむいている。
「あ、本読んでたんだ? ずっと勉強続いてるね」
「……」
漢字の横によみがなを書き散らした本を、文彦はパタンと閉じた。中学校を出て以来、学びの場になかった文彦には調べなければわからないことが多かった。それでも、清忠に、榊に、公彦に追いつきたいと思っていた。
たまに公彦が隣に来て教えてくれていたことが、文彦にとっては穏やかな力になっていた。その時の生真面目な横顔、少し伏せた睫毛、本をなぞる指先、すぐそばの温度は、文彦のやわらかな部分に積もって残っている。
公彦は黒く澄んだ瞳で、そっと文彦を見つめている。
「俺ね。文彦はさ、童顔なんだと思ってたんだ」
「は……?」
あまりにも突飛な公彦の言葉に、文彦は思わず言葉を失くした。
「だってほら、ああいうバーでピアノ弾いてたし。若く見えるなぁって思ってた。でもまだ二十歳になってなかったんだなって――でもほんとの年齢よりも若く見えるよ」
「……」
文彦はあまり嬉しくない言葉を投げられて、眉を寄せて黙った。
「ピアニストを目指してて、弾く場所として働いてるのかなって思ってた。でも、目指しているわけじゃなかったのなら、きっと、俺の知らない理由があったんだね。俺もさ、半分家は出ているようなもんだから」
「そ……う」
公彦の意外な言葉に、文彦は顔を上げた。
「うん。まあ色々あって。ただ、俺には清忠がいたからね。すごい存在感じゃん?」
「それは、まあ、たしかに」
文彦がちいさく笑うと、公彦は安心したように、目の下に笑い皺をつくって破顔した。
「文彦が、もっとたくさん笑うといいのに」
「そう?」
「うん。かわいい」
文彦はどう答えていいかわからずに、視線を彷徨わせて黙りこくる。公彦は気にする様子でもなく、言葉を続けた。
「文彦がたくさん笑えるようになるといいのに。俺には清忠がいた――けれど、もし、文彦にそういう存在がいなかったのなら。人生の岐路は一つずつ、かけ違う。でも俺は、文彦の誰かになれたらいいな。初めて聴いた日から文彦のピアノが、すごく心に残って。どうしても気になって。また会って確かめたくて、仕方なかった。それはどこか、俺に必要な音だったのかもしれない。文彦の弾く悲しさが」
「必……要……俺の――」
公彦は何げなく夜空を見上げていたが、文彦はふるえる唇で、その青年らしい横顔を見つめた。
「あっ、そうだ! これ、もらってくれない?」
「え?」
公彦は肩から提げたボストンバッグからゴソゴソと取り出す。
「俺の部屋にあったんだけど、もういらないから。ほら、文彦、最近勉強してるだろう? 本を読んだり、教本も、英語も――だから」
「けど」
「本当、いらないやつだから」
いつになく生真面目な顔をしていたが、差し出されたのはどう見ても、新品の数冊の辞書だった。文彦は一番上にあった英和辞典を手に取り、中をパラパラとめくると、あまつさえ中には水色の売上スリップが挟まれたままになっている。
それでも、真面目な顔をして、いくつものあからさまに新品の辞書をいらないものなのだと主張する公彦と、対照的にその手際の雑多さに、文彦は思わずかすかに笑った。
「うん……」
「もらってくれる? 良かった! 持って帰るのも重いんだァ」
文彦がもう一度わずかに笑ったのを見てとると、公彦は、くしゃりと笑う。
「――ごめんね」
自分の環境を詳しく話せたわけでもないが、公彦はただ文彦に寄り添っている。そのすべてにも、何も話せないことにも、文彦はぎこちなく謝った。
公彦は少し首を傾げた。
「こういう時はさ、あれだ。そう、ありがとう、って言うんだよ。どうもありがとうって」
いつも顔中で笑う。直ぐな髪が揺れて、眉尻が下がって、文彦は吸い込まれるように見つめた。それからしばらくして、口をひらいた。
「どうも、ありがとう」
「うん。そう。どういたしまして」
公彦の温かな手が、文彦の頭を撫でていった。
その温かさに包まれて、文彦の意識はふわりと舞った。白い羽根がふわり運んだような瞬間に、文彦の心はすべてをさらわれて、押し流されていく。
言えばもう二度とは、この関係は戻らないかもしれない。
この場所をも失い、きっとすべては還らない。
(仕方ない……この手に何も残らなくても)
所詮は初めから何も持たなかったものを――
文彦は溢れ出る想いに堪え切れずに、聞き取れないほどの小さな声で言った。
「好きだ」
文彦は、諦めた。
今日で、この限り、この場所を失うのだ。
文彦は、瞳を閉じると、微笑した。さようなら、と告げようと思ったのだ。
「うん。知ってた」
突然に舞い降りた抱擁は、痛いほどに強かった。
文彦は驚きのあまりに身を強張らせて、弾かれるように顔を上げた。
「涙のあと」
そっと指先が文彦の頬をやわらかくなぞっていく。
「でも全部、綺麗」
微笑みとともに頬にゆっくりと押しあてられた唇は、文彦にとって初めて贈られた想いだった。
文彦は身をふるわせて泣いた。優しい抱擁の中で、泣いている自分に驚きながら。
向けられた、ただ一つの微笑みのぬくみだけで、俺は幾度でも救われるだろう――文彦はそんな予感の中へと落ちていった。
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