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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)11

 あまり多くは割けない時間の中で、初めてした待ち合わせ、二人での遠出、すべては文彦の中で、公彦という名前のちいさな灯りとなって積もっていく。  休日の昼下がり、街の片隅で、文彦の前に停まった車は黄緑色のマーチ。 「公彦の?」 「まさか、俺一人で買えない。清忠の。借りた」 「え……えぇっ、いつものスカイラインとかなり違うけど」 「こう緑で丸っこいのが、蛙みたいでカワイイんだと」 「カワイイ……っていう柄……」 「清忠はともかく、確かにそう見るとカエル? ゲロゲーロ」  隣り合って笑って、肩を寄せて、二人だけで紡ぐ、何でもない幾つもの瞬間。  いつも公彦は訊くのだ。文彦に何かしたいか、何処か行きたいところはないか、欲しいものはないか――文彦はどれも答えられずに、困惑した表情で微笑するしかなかった。  文彦は何もいらなかったのだ。ただ、公彦さえ生きていれば。  公彦は海街の埠頭で車を停めて、潮風の吹く景色の中へと、文彦の手を握って連れだした。  もう冬も深いというのに、相変わらず薄いカーキ色のコートだけを着た文彦を、公彦は強く引き寄せた。  海の前の白いベンチには、まばらに恋人たち。公彦はジャンパーの上に巻いていた深い青のマフラーを取ると、文彦の首元へと巻きつけていく。 「……何も、いらない」 「え?」  強く潮風が吹き過ぎる中を、公彦は、文彦の小さな呟きを聞き逃して、顔を寄せた。しかし、文彦がそれへと応えることはなかった。 (ただひとつ貴方さえいれば)  それをどうやって公彦に伝えることができただろう。  すべてを説明すればあまりに重く、口にすればあまりにも悲しく、文彦はこの淡紅色の咲きそめる花びらのような繊細な時間を、今はただそっと守っていたかった。  いつかすべてを話す時が来て、もしも二人の関係が壊れてしまっても、この時間があれば文彦は生きていける気がした。  目の前には、埠頭から続く冬の海。  うっすらと水色の空に、海は深い色に波を打ち寄せては白い飛沫をあげ、ザブンザブンとたゆたう音をいつまでも続けている。吹き過ぎる潮風は文彦の髪を乱し、マフラーをはためかせた。  文彦は、ふいに頭に流れていく音を唇に乗せた。  それは遠く近く聴こえてくるようで、文彦の頭の中でひそやかに鳴っている。その響きをくちずさんで、音をつむぎ、ゆっくりと微笑んだ。  唇から流れたメロディは、美しい放物線を描き、遠く波間へと吸い込まれていく。その音は、リフレインして何処までも続くよう。  公彦は慌ててボストンバッグの中をかき回し始めた。ノートとシャーペンを出すと、急いで書き殴っていく。文彦は驚いて、押し黙った。 「いい。続けて」  公彦は急いで書き終えると、考え込むように文彦に言った。 「ううん……」 「いいな。これ、イントロからテーマで」 「え?」 「今度、演りたい。今の文彦のメロディで」 「まさか。冗談」  文彦は本気にもせずに、視線を逸らして笑った。公彦はその様子に取り合わず、考え込んでいる。 「ここからアレンジしよう。カルテットに編成して――そう、曲名は? 曲名は何にする?」 「曲……?」  ぼんやりと首を傾げた文彦を、公彦はまぶしいものでも見るように、そっと目を細めた。 「そう、曲だよ」 「え?」 「だからこの音に、名前をつけて」 「名……」  文彦はふっと視線を動かして、栗色の巻き毛を風に嬲らせたまま、なだらかな海を見渡した。  いつまでもくり返し、くり返し、やまぬ波のたゆたい、それは文彦の得られぬ永劫のような気がした。 「はるか……海」  最近、公彦と学んだ色の名前を思い出した。汚れのない、澄んだ青みがかった緑、それはこの瞬間のようだと文彦は感じた。 「は……碧」  公彦はノートに書いている手を止めて、顔を上げるとにこりと笑う。 「はるか海は碧なりき――で、どう?」  光さす空の下、託宣のように告げる、公彦の見せた何にも替えられぬ笑顔に、文彦は息を止めた。  強く引き寄せられた瞬間も、文彦の意識はまだ音のさざなみの中にあった。公彦のそばにいると、心はふるえて今まで知らなかった何かがあふれ出てくるのだ。  するりと、やさしい指先でかき分けられた前髪。その白い額へと降りてきた唇は、文彦がいまだ知らないあたたかな感触だった。  驚いて見上げれば、ふわりとした抱擁と、ゆっくりと羽根のふれあうようなくちづけ――  しっかりとからめられた指、顔を離しても吐息のかかる距離で、照れたように笑う。文彦はその時間の清らかさを宝石にして、心にしっかりと仕舞いこんだ。これから先も忘れることがないように。  文彦がステージに上がったのは、厳しい冬を過ごし、初春となり染めるまだ肌寒さが残る頃だった。  ある日、清忠が面白そうにじろじろと眺めて文彦がやや苛々し出すと、ようやくにやりと笑い、ぶっきらぼうにチラシを投げてよこした。  そこにあったのはトリオでない、佐田川清忠カルテット、と銘打たれたチラシだった。  いつの間に撮影したのかピアノの前に座る文彦の写真も載せられていて、その横顔は物憂い。文彦は驚くとともに、怒ったように清忠を睨んだ。  言いたいことはわかっている、とでも応えるように、清忠は片手を上げると、文彦の肩を軽く叩いた。  しばらくしてからのステージは、文彦の一生にとって忘れられぬものとなった。  人と演る、という、ぶつかりと反発と理解と受容、それらを教えられたのは佐田川清忠カルテットでだった。  初めてカルテットとして上がったステージで、文彦は確実な何かをその手につかんだ気がした。  そばには清忠がいた。後ろには榊が、そして前には公彦が。  ステージに上がって、公彦は爆発的な変化を見せた。あのちょっとおどけた優しさなど吹き飛んで、アルトサックスは特異なフレージングはいつもより癖が強く、それを清忠のベースが力強く制してぶつかり、奇妙な調和になる。  清忠がいる圧倒的な強さと安心感に、文彦は身をゆだねる。  公彦のサックスの遠くへとのびる音は自由で、空をめぐる鳥のように自在に澄む。  文彦のピアノは引き出され、引っ張られ、音とリズムのやり取りへと誘われる。  サックスのはばたきをコードをつけて支え、より確かなものにしていく――そのために何ができるのか。  榊のドラムとの四バースの掛け合いに文彦の頬には汗が滴り落ち、清忠のソロは打って変わって土俗的な響きもあり、重厚さで辺りを制した。  セッションは生き物で、同じ時など一度もない。その会話を交わし、動き、作り上げていく。  ラストには清忠の作曲したナンバーがずっと続き、文彦は息が上がっていた。  清忠がリズムを取り、空気を作る。  榊とアイコンタクトを取り、互いに呼吸を合わせて響かせたイントロに、文彦はハッと顔を上げた。聴いたことがあるような、それでいて、初めて聴いたようなリズム――それは文彦自身がつむいだはずの旋律だった。 (はるか海は碧なりき)  唐突に投げられた曲に、文彦は驚き、手が止まっている。  にやりと笑う、清忠の悪戯めいた顔。 (来いよ)  公彦は涼し気な顔でサックスを構え、熱を湛えた眼差しで文彦を待っている。共犯者たちは、その瞳の奥に、文彦への期待と熱量をひそめている。  文彦は息を吸い込むと、流れるようにリズムの中へと飛び込んだ。そこにあるのは自分の海――海の鳴りやまない潮騒と、深くから湧き上がる飛沫。  頭がひらいて、心がひらいて、現実の次元よりも高みにある扉がひらいていく。  それなのに指先は怜悧に、精確に計算も効果も逃さず、追いかけていく。この向こう側にいる相手とトークするための確かな音で。  ここには何よりも確かなコミュニケーションがあって、それはごまかしようもなく、何処にも嘘などない。ただ誰でもない自分自身になって、替わりのない存在となる。その瞬間に身震いし、文彦の心は音に果てた。 (ああ。いいな――)  その日に、文彦は、ピアノ弾きになったのだ、と思った。  ただの手慰みから、はるか先へ――はるか大海へ。  公彦に誘われるまま、清忠の厳しい目にぶつかりながら。

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