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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)12

 文彦の初めてのステージの後、清忠と榊はそれぞれの車で深夜の道路へと去っていった。その場を歩いて去ろうとしていた文彦を、素早く公彦が手をつかんで引き寄せた。 「車で送っていくよ。少し、走ろうよ」 「ああ……でも、帰らないと」 「少し。少しだけ。もう電車もないのに、ここからどうやって帰るつもり?」 「まあ、ぶらぶら」 「この辺り、治安がよくないよ。抗争だってあったし。それに、寄り道したって車のほうが早いよ」  公彦にしては珍しく言い募る姿を、文彦はステージの余韻にぼんやりとしながら聞いている。文彦の白い頬は、いつになくうっすらと紅潮し、先ほどの興奮を顔に現わしていて、視線はふらりと危うい。  公彦は、熱いものでもつかんでいたかのように、パッと文彦の細い手を離した。 「ね、危ないよ」 「別に……今さら」  文彦は遠くを見て、ちいさく嘆息した。 「何?」 「ううん――そうだね、少しなら」  ちいさく笑って、文彦は助手席へと座る。  スムーズな運転で発車させた公彦の横顔は、一緒にいる間にも少しずつ大人びて、あたたかで優し気な眼差しを持っているにも関わらず、男になろうとしているのを文彦は感じた。  助手席側のサイドミラーに映る文彦は、目ばかりが大きく、淡紅色の唇、うすい肩、少年の面影を残して、年齢よりもどこか育ち損ねている。  文彦は、膝の上でぎゅっと両手を握りしめた。 (力が、欲しい。自分で、あるために。大人の男になって) 「どうかした?」 「ううん」  車は海沿いを走るうちに、早朝の狭間となって、空は明るみ始めている。  ほのかな白い光は車窓からやわらかく射し込んで、文彦の横顔を照らし、その光景は一つの緻密な油彩画になる。少年じみた額、先端のツンとした鼻筋、色素のうすい唇、薄紫に影を刷く長い睫毛、頬にかかる栗色のやわらかに波打つ髪。  少年の終わりの肖像――それより先は何処へ行くかもわからない、何処かへふっとかき消えそうな微細さで。  公彦は、急に車を停めた。 「どうかした?」  らしくもない急停車に、今度は、文彦が先ほどと同じ言葉で訊き返した。 「その……」  公彦は、助手席にある姿を見つめて、しばらく言葉を失った。  激しい演奏は文彦の体にまざまざと残っていて、その縹いろの瞳は潤み、公彦を見ようと反らした首筋までも薄赤く上気している。  それはフラゴナールの描いた大司祭コレリュスのように首をねじり、反らして、かすかな陽射しに照らされている。自ら胸を突き刺して、生贄のカロリエを救って死んだ一瞬のように。  文彦は少しずつ手を伸ばし、ゆっくりと文彦の冷たい頬に触れた。 「ここから、海が見えるんだ……だから」 「本当だね。公彦」  文彦はくすぐったそうに笑う。 「海が、好き?」 「うん。あまり見たことがなかったから」 「そっか――今日は少しの間でも、一緒にいたくて」 「どうして?」 「今日は、文彦の誕生日じゃないか」  公彦は驚いたように少しだけ語気を強めて言い、それから、ふわりと西風のように明るく笑う。その笑顔を眩しそうに見つめ、文彦はちいさく首を振ってうつむいた。 「そうだった?」  その声が、わずかに震えていたのは、その日は誰にも忘れ去られ風化して、むしろ忌まわしいものになっていたからだ。 「そうだよ。文彦から、おねがいごとはないの?」 「そうだな」  文彦はくちごもった。限りない優しさで、頬を両手で挟まれて、そっと目の前にいる公彦に視線を上げた。 「何でもいいんだよ」 「何でも?」 「そう、何でも」 「高いものでも?」 「高いものでも」 「わるいことでも?」 「そうだな、わるいことでも」  ひどく生真面目に頷いた顔がすぐそばにあって、文彦はただ無心に笑った。笑いながら、手の甲で両目を覆った。  おそらく公彦にすべてを明かしてしまえば、その言葉の通りに、どんな犠牲も厭わずに、文彦を救おうとしてくれるだろう。危険も顧みずに、きっと自らの命さえも。  そう信じられるだけの真実さと高貴さの共存する魂を、公彦はあけっぴろげに文彦に向けている。その贅沢なぬくみを、文彦は何かを話すことで巻き込こんでしまうことを一番に恐れた。 (目覚めたら、そばにいて)  これからずっと――言い切れずに閉ざされる唇。共に寝て起きることができるような暮らしでないことは、文彦自身がよくわかっている。愛する人とともに眠ることも、穏やかで平和な朝を迎えることも、できないのはむしろ文彦のほうなのだ。  結局は何も言わずに、顔色を失って黙ってしまった文彦に、そっと優しい声がかけられた。 「誕生日、おめでとう」  記憶にある限りでは、かけられたことのなかった言葉に、文彦は静かに顔を上げた。  そこにあるのはまっすぐでいて、はにかんでいるかのような、清らかな微笑。 「バースデープレゼントに」  ともすれば風にかき消えそうな低い声で、囁いた。 「気に入るかどうかわからないけど」  ひどくおずおずと、ためらいがちに文彦の手へと渡された一つのきらめき。  怒られはせぬだろうか、と人を窺う犬の仔のような賢しげな黒く澄んで濡れた瞳。  文彦が手をひらくと、そこにはちかりと銀色に光るリングが乗っていた。シルバーリングには、彫銀された二羽の鳥。流れる文様となってよりそっている。  うやうやしいといった丁寧さで手を取り、指に通して押しやったひととき。金属の硬質な輝きが、白い指に光った。  見開いたままの文彦の瞳から、雫のように涙がつたい落ちた。文彦は、どうして涙があふれるのかわからなかった。そのリングには、公彦の心が乗って、あたたかさを内包していて、ただ文彦の心があふれたのだ。 「文彦」  あわてたように公彦が、涙を指先でぬぐい、引き寄せた。 「愛してる――公彦」  もうずっと。その視線、その優しさ、ようそうサックス。文彦の心はずっと、公彦を追うて生きていた。  二人は後部座席に移り、手をつないでよりそった。公彦は幸福そうに笑う。 「ねえ、知ってる?朝焼けは金色なんだよ」  黄金に羽ばたくサンライト――  羽根のようにやわらかなくちづけをして、文彦はその指輪が贈られた日に、はじめてかれの肌を識った。  長くは許されない時間の中で、服を途中まで脱いで、体を寄せ合う。  自分の体をすべて見せないことに、文彦はむしろ安心した。自分の体のすべてを晒して触れれば、公彦までも汚してしまう気がした。  他の誰かが触れ、自由に弄び、手軽く烙印を押していってしまった肌を、公彦に長く触れさせるのは青白い罪のように思えたのだ。  これならきっと公彦を汚さないのではないか――  やわらかな公彦の笑顔に包まれて、その吐息も鼓動も間近に感じながら、文彦は静かに抱きしめられている。  文彦の吐息は花びらとなって、幻想のようにゆらめいていく。  小鳥たちが戯れるようなくすぐりに似た、愛撫と、抱擁。  体を重ねて、よりそって、服の隙間から指先で、てのひらでお互いの肌をさぐり合う。  体を繋ぐのでない、キスをくり返して、指で擦り合ってゆっくりと高まっていく。  そもそも文彦は男が好きなのかもわからない――かれだから、と文彦は思う。  繰り返されるやさしく深いくちづけと愛撫。文彦が触れれば快さそうに笑い、素直な悦びの反応をして、公彦の黒く濡れた瞳は、今まで文彦が見たこともないやさしさで満ちていた。  絶頂を迎えて、文彦の心は、歓喜と安堵に満たされた。  激しい嵐の中へなだれ、巻き込まれるように、文彦はただ狂おしい愛の中へおちていった。

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