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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)13
その日から、文彦の体は、苦痛を増すようになった。
自身に尊厳があること、大切にされるということを肌で識った後には、他のどんな性交も前に増して苦痛でしかなかった。ましてや、自分の中には音楽があって、歴とした魂も感性もあって認められるのだと知った後には。
それでも、文彦はただ蒼白な顔で押しこまれたものを口に含み続けた。客の男はいとも簡単にぐるりと文彦をひっくり返し、その尻を割りひらいていく。
(公彦)
この絶望に呼ぶ名前を持っている、という幸福さに文彦は眩暈がするようだった。
それでも肌が破れそうだ、と文彦は思う。肌が破れて血潮が噴き出しそうだ。
羞恥も、恐れも、捨てるものも、すべてないはずだった。未来さえ、命さえ、何も求めなかった、惜しいと思わなくなっていた。
(この心が――)
生きているからこそ。壊れてしまうのは間近なのではないか、と文彦は思った。
それでも、恐れてはならない、と心の中に楔を打つ。弱みを見せれば舌舐めずりして悪魔は寄ってくる、手を叩き、歓んで、喰らうことが文彦にははっきりとわかる。
どうすればこの檻から出られるのか、文彦には持ち手がない。
ふらりと現れては迎えにくる不吉な黒い車とスーツの男。脅迫と暴力に支配されて、怯怯えや傷痕は思考する能力を失わせていく。
闇の中で、文彦自身がまるで悪魔でもあるかのような狂おしい眼差しをして、唇を噛みしめた。
「文彦は、いつも何処かへ消えてしまいそうな気がする」
「え?」
何かバレたのだろうか、とひやりと文彦は振り返った。
もう幾度も重ねたカルテットの演奏は、今日は清忠や公彦と初めてセッションした場所だった。つまりは、武藤領一朗が経営する店だ。ステージ袖に引いて、公彦はサックスをケースに片付けている。
「その顔」
「……」
「まあいいや。文彦はここにいるんだし。今日もよかった。それから、今日もすごく――」
ステージ終わりに、いつも上気した頬でぼんやりとしている文彦を、照れたように公彦は見つめた。そのまま甘いような、もどかしいような空気が流れて、文彦は顔を赤らめた。
「きみ、ひこ……」
囁く声はかすれていて、指輪を嵌めた左手は、ちかりと銀色に光っている。
「そんな声で呼ばないで。いつもステージの後の文彦はやばいんだから。だって、すぐ……」
「おい、公彦」
二人のひそやかなよりそいを乱したのは、清忠のよく通る低い声だった。
「侑己から電話が来たぞ。出るか?」
「ユキ?日本を離れてたろ――戻った?」
「まあな」
公彦はすぐにその場を離れると、清忠からスマホを受け取って話しだした。
それを横目で見ながら、文彦はステージ袖からバーカウンターのスツールの一番隅へと、軽く腰かけた。隣に、どしん、と清忠が座る。革ジャンのチャックをカチャカチャといわせて、太い指で顎を撫でさすっている。
「俺の妹だ」
「え?」
「あの電話」
文彦は黙った。清忠には、公彦との関係が漏れて伝わってしまっている気はするが、確信ではない。
「妹……え、妹? 清忠に?」
「どんな顔してんだ。俺には似てねえぞ」
「あ、そう。それはよかった」
「安心すんなよ、そこで。俺もしばらく前はウロウロしてたけどな。アメリカ、イギリス――俺もまた戻りたい。侑己も同じ性分だな。ようやく日本に戻ってきやがった」
「やっぱり似てんじゃない」
「はは、まあな。公彦もいずれは、連れて行ってやりたい」
「そう……」
文彦は、ふと想像した。公彦は、幼い頃から清忠がそばにいたのだと言っていた。それならば、今電話している清忠の妹とも。
それは、文彦の知らない過去、入り得ない長い関係――
遠い目をして頬杖をついた文彦のうすい肩を、清忠が分厚い掌で叩いた。文彦は条件反射で、ビクッと身をすくませた。
「体調は大丈夫なのか?」
「うん。元気」
文彦はうつむいて笑った。何が大丈夫なのか、と問われれば判断はできない。
「文彦の音は、すごく安定しだしたな」
「本当に?」
「ああ。技術も軒並み上がって来たし、出会った頃とまったく違う。やっぱり公彦の見込みは確かだな。今は、俺たちと共存してる、という感じだな」
「でも、それが――いい、と思う?」
ぼんやりと清忠に問いながら、文彦はさっきまでの演奏を思い返した。
音を投げれば返ってくる、しかし、まだ文彦にも得られていない領域もある。ここで公彦に温められ、清忠に護られて、それでようやく生きている。初めて手にした、安逸な時間と場所。
「いつまで……“こちら側”なんだろう……?」
夜の中では狩られ、食われる側であること。
そしてここでは、文彦はいつまでも末っ子だ。清忠のリーダーシップと圧倒的な存在感に守られ、公彦の積極性に文彦の内面も音楽も引っ張り出してもらう。初めから育つのを待たれ、教えられ、今もその流れは変わらない。
それは安楽なことでもある。
このレールに共に乗ってさえいれば、きっと何処かへたどりつく。文彦のピアノは引き出してもらえるだろうし、腕も上がるだろう。ただそれは、清忠が切り拓いた道に乗って、だ。
「でも俺はいつ、一人の男として対等になれるんだろう……」
清忠は持っていた煙草の箱を静かにカウンターに置くと、ゆっくりと目を細めて、文彦の横顔を見据えた。
文彦は遠くを見出して、朧気な眼差し、頭の中では自分だけを音を鳴らして、苦し気に浅い呼吸をくり返している。清忠は何も言わずに、注意深く動かなかった。
「自由になりたい……全部」
ただひらすらに舞い上がって、自分でさえ未だ見知らぬ空へと。
「俺に、なりたいんだ。もっと、このままじゃない。違う何かがある気がする、それがわからない。まだ違う扉がある気がする。でも今のままじゃ見えないんだ」
自分自身であるために、文彦の魂が自由であるために。この世界のままではいられない。
「今の俺じゃない。この手ではつかめない。ここから抜け出さないと、見えない。もっと圧倒的になってやり合うために、どうすればいいのか――この道じゃない。きっと違う。うまく言えない――ただ飛ばせてほしいんだ、飛びたいんだ。安定もいらない、評価もいらない。ただ飛び込んで、投げ打って、すべて狂うほど」
文彦の瞳の奥で、かすかにゆらぐ、冷たい悪魔のような狂おしい光。何かを呪い、憎み、一歩踏み外せば壊れてしまいそうな脆さと儚さで、ちいさく瞬いている。
「文彦」
清忠が何か言い募ろうとした時、後ろから明るい声が降って来た。
文彦は物思いからよみがえって、パチリと目の焦点を合わせた。
「あ……」
「ここにいたね。どうしたの?」
「いや」
公彦に応えたのは、清忠の低い声だった。
清忠は煙草の箱を持つと、しばらく黙っていたが、やがて席を立った。
「文彦、その感覚は大事にしろよ」
「え?」
「お前さんが感じていることはたぶん正しい。そういう野性的なまでの感性の鋭さを、持っている。決して、それを見失うな。自分を信じろ。必ず自分の道を作れるはずだ。俺もそうであるように、自分の道は自分しか知らない。誰かに見えるもんでもないさ。文彦にはちゃんと、強い力がある。また俺とは違う、な。そうさな、まるでパイドパイパーだ」
「え……」
(これほど無力な俺に、何を言ってるんだろう――)
清忠はにやりとした笑いだけを投げると、背中を向けて去っていった。その後のスツールに公彦が滑り込み、冷たく白い文彦の手に、あたたかな手を重ねていく。
「俺、話の邪魔をした?」
「ううん。公彦こそ――電話、もういいの?清忠の妹だったって」
「ああ、うん。久しぶりだった」
「そうなの?」
「うん。最近はあんまり日本にいないからね。帰国して早々、いやなものを見てしまったって言ってたよ」
「いやなもの?」
「最近はこのあたりも抗争があって物騒だけどね。文彦は知らないかもしれないけど『ルナ・ロッサ』っていう店があって、そこがずいぶん変わっていたって。経営にどこかの組でも絡んだのかもしれないって。前はもっと普通の雰囲気だったのに、もう入れない感じだって――どうかした?」
「あ……ううん」
文彦はこわばった顔で、曖昧に笑って、ぎゅっと公彦の手を強く握り返した。
「文彦」
はにかんだように笑って、公彦は大切そうに栗色の巻き毛をそっと撫でた。
「ピアノ、深い音色になったね。カルテットの時も、でも、一人でやっている時が前よりも一段と――いい」
「一人の時が?」
「うん。こう、あれじゃない?やっぱり清忠と文彦ってぶつかっちゃうから。一見はさ、俺が好き勝手やってるようで、そうでもないから。圧倒的に清忠だもん。そう、今はね」
あっけらかんとそう言って涼しく笑った公彦の感性を、文彦は改めて驚いて、あたたかな指先を握りしめた。
「最近は艶があって胸に来るな。文彦のピアノバージョンの『レフトアローン』を聴きたいな」
「前に弾いたよ。最初に出会った時」
「よく覚えてるね」
「そりゃあ……だって」
「今度は、俺一人のためだけに。いつか、俺のためだけに弾いて。約束してくれるね?」
「どう――したの?」
「ううん」
言い出した約束の真剣さに、照れたような公彦の微笑みは、文彦の頬をうっすらと紅潮させた。
(知らないと思うけど『ルナ・ロッサ』っていう店が――)
さっき聞いた言葉が文彦の頭で再びよみがえってきた。
その後に会話を続けながら、文彦は青白い顔でふるえる睫毛を伏せた。
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