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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)14
文彦は、急いでいた。
公彦がサックスを取りに行き、車へと運んでいる短い間に、済ませてしまいたかった。
佐田川清忠カルテットが演奏する時には、ちょくちょく見かける姿は、店の奥の闇にまぎれそうな暗がりで、一人煙草を取り出すところだった。
カウンターの内側に置いてあったライターを勝手に手を伸ばして取り、文彦はまばらな客の間をすり抜けて、その鍛えられた長身のスーツ姿の横へと、すいと並んだ。
「どうぞ」
カチリ、とライターを灯して、長い指に挟まれている煙草に火を点ける。
「武藤さん。連絡先を、教えてくれないかな」
武藤は無言で、文彦が火を点けた煙草を、ゆっくりと口元へと運んでいる。
二人とも店の奥で並んで立ち、どちらの顔も薄闇に表情は見えなかった。
遠目に見ればそうして佇む二つの姿は、かたぎに見えず、気だるく物憂い夜の雰囲気をまといつかせている。
文彦にとっては賭けだった。突っぱねられれば、後はない。胸は早鐘のように鳴り、無表情につくろった顔の下で、背中には冷や汗が流れて落ちていた。
武藤は無言で文彦を見下ろし、文彦へと番号を教えるためにポケットに指を入れた。
この瞬間に、文彦の運命はひとつ回ったのだ。
電話をかけたのは、翌日の昼下がりだった。
うらぶれた街のアパートの横、どぶ川の匂いのする路地裏で、文彦は一人立っていた。出ないかもしれない、という緊張に苛まれていたが、低い声が聞こえた時には、さらなる緊張に覆われた。それでも、文彦は賭けのサイコロを投げた。
相手は出たものの、名前は告げない。
「武藤さん? 佐田川清忠カルテットの――高澤文彦です」
「ああ」
その口調には何の感情もない。
文彦は唇を、尖ったピンク色の舌で湿した。
(この人からは闇の匂いがする)
あまたの人間が通り過ぎ、夜の世界に住むうちに、文彦には以前とは計り知れない嗅覚が育っていた。それは悲しい経験値なのか、狩られる側の防衛本能なのか――文彦にはもうどれでもよかった。
「武藤さんは、その筋の人だろう?」
「さあ。答える必要が?」
「ないよ。武藤さんにとって俺は関係ない人間に過ぎない。清忠からは、武藤さんは不動産ベンチャー会社の取締役員って聞いたけど、それは事実でも表向きなんだろう?」
「さあ。どうでもいい、くだらねえ話だな。切るぞ」
文彦は急いで囁いた。
「武藤さんなら、もしかして知ってる?俺が、この生活から抜け出す方法を!それだけ――それだけ訊きたかったんだ!お願いだ!」
応えはなかった。文彦のこめかみを、冷たい汗がつたい落ちていく。
(無理……か)
文彦は青白いまぶたを降ろして、瞳を閉じた。
(いや、まだだ。まだ切ってない。出方を見てる)
文彦は深い縹いろの瞳をきらりと光らせた。おそらく公彦が一度も見たこともないような、追い詰められていて、危険であやうい瞳のきらめき。
「武藤さんは、諦めているんだろう?」
ブラフで始める――決定的な持ち手などない。
とにかく空回りであろうと、文彦自身が武藤と向かい合わなければいけない、そう感じていた。
「清忠は陽、明るい表通りを歩いていく――自分の力で。武藤さんは陰、日の当たる場所には出るつもりがない。人らしい何かを切り捨てて、もう表通りには出ない。武藤さんはそんな顔をしている。だから、清忠や公彦を見ていたんだろう?」
「まあ、違うな」
あっさりと否定した返事だったが、反応があったことに文彦は短く息を吐いた。
「甘い感慨で見られたもんだな。確かに日の当たる場所には出れねえが。それは俺の立場上だ。それから、あいつらを見ていたわけじゃねえ。音楽が気に入っただけだ」
「そう」
「抜け出す気になったのか」
文彦はハッと瞳を大きくひらいた。
「教えてやらんでもない。俺は、てめえの足で立とうとしねえ奴は相手にしない。自分でどうにかしたいってんなら、時間を割いてやってもいい」
文彦はその声をふるえながら聞いた。恐らく文彦の何かが、武藤の心に引っ掛かったのだ。
勝った――そんな思いが湧き上がったが、なるべく平静を保った。
「どうして」
「自分で頼んでおいて、莫迦なのか。立場は、人を変える。その場所にいることを初めは望んでようと望まなかろうと、関係ない。そこに立てば、そこに染まる」
文彦はその声のトーンを、確かな耳で微細に聞き分けた。
「それは、武藤さんもなの?」
「その汚泥の中に入ってしまえば、自分自身がどう思っていようと、気付かないうちに変わっていく。後戻りのできない場所まで。最初のきっかけは何であったとしても。何処かで精神を保つには、取っ掛かりがいる」
「精神を……」
いつも片隅の暗がりで、じっと立って腕組みしたまま、演奏を聴いていた武藤の姿。
「武藤さん――」
「覚悟はあるのか?」
「覚、悟……」
「巻き込まねえための覚悟、さ。てめえ一人しか連れていけねえぞ。すべてを捨てないと足がつく。家も、家族も、仲間も、恋人も、その電話番号もすべて捨てるんだ。そう、俺もな」
「……」
「俺がやるからにはそうする。俺にも火の粉が飛ばないように。捜索願を出されないよう、誰か一人には告げていけ。自分の意思だから探さないように、と。それから逃げた先で、誰も助けはない。ずっと俺を頼ろうってんなら、お門違いだ」
「そんなことは思ってない」
「そうか。もし、清忠たちに別れを告げられないのなら、やめておけ。今のままに甘んじるか、清忠を通してサツと正攻法にどうにかする方法だってあるだろう。だいたいあの組は内部はずさんだかならな」
文彦は押し黙った。清忠に――ということは、すべてを公彦へも白日に晒す、ということだった。自分の環境、受けてきた扱い、自分の体がどんなものなのか――公彦に愛されていた間も。
文彦はさあっと青ざめた。
どうしても知られたくない――
「清忠は無理だ」
「そうか。なら、今の生活を続けるか? それとも、すべてを捨てるのか? どちらかを選べ」
「可笑しな人だ」
「返事になってない。文彦だって可笑しいだろうが。今するコメントか」
「率直な感想だよ。仕方ないだろう。だって、返事は……」
文彦は、片手で口元を囲って、電話の向こうの武藤へと囁いた。
世界中の他のすべてに、秘密となるように。
公彦から電話があったのは、数日後の夕方だった。
「明日の夜に、また音の合わせするけど、予定は大丈夫?」
「うん――まあ、明日なら」
「じゃあ、その前にどこか食べに行かない?最近、また文彦が痩せた気がする」
「そうかな?」
「何が食べたい?」
「さあ……」
味が感じられない文彦には、食事の内容より、公彦といられる時間であること、が何よりも大切だった。けれど、公彦はいつも、文彦の望みをこうして訊くのだ。
「オムライスが、食べたい」
「何? そんなのがいい?」
「うん。食べたこと、ないんだ。ネットで見て……ふわふわの卵が上に乗っかってるやつ」
「そっか。うん。じゃあ、そこにしよう。店わかる?」
「うん」
「明日、いつもの場所で待ってる」
「うん、行こう。公彦」
通話が切れた後も、文彦はふわふわとした想いに浸りながら、しばらく動けずにいた。
その夜は久しぶりに、何もない夜だった。
何かを辿るように、文彦は電車に乗って、夜の街を歩いて回った。
いつかの夜、いつかの立ち尽くしていた時間、いくつかの絶望と、いくつかのやわらかな思い出。
てのひらを握ってはひらき、それをくり返して、じっと見つめている。
ようやく夜も明ける頃に、灰色の町へと戻ってきて、うらぶれたアパートへと向かう。はた、とその足取りが止まって、そこから一歩も進まなくなった。
こんな町に場違いに、傷一つなく磨かれた黒い車から、一人の若い男が降り立った。やや長い黒髪を後ろできっちりと束ね、スーツを乱れなく着、サングラスをかけた横顔は、文彦よりも少し年上くらいだったが、まったく雰囲気は違っていた。
「高澤文彦?」
名前を呼ばれて、文彦は、こわばった顔でうなずいた。
「武藤領一朗の元で働いている朝島です」
名前を名乗ったところで、それが本名なのかは不明だった。本当に武藤の配下なのか確かめるすべもない。
「用意ができたので、迎えに」
「今から?」
朝島は黙って頷いた。文彦は驚いて顔を上げた。
「まさか、何の準備も――こんな早いなんて」
「準備は不要なので。今すぐ移動するので、早く。捜索願は出さないように、一人には移動の間に連絡を――スマホはその後、処分します」
まったく感情のない声は、訓練でもされているのか、決して心を表さない。
「待って、今夜――今夜、話すつもりだったんだ。せめて、明日まで待って」
「それなら、この件はなかったことに。では」
あっさりと一礼した姿に、文彦は慌てて駆け寄った。
「わかった――わかった」
文彦は息を乱した。この日が近いとわかっていながら、どこか頭はぼんやりしていて、現実感がずっとなかったのだ。これほど早いとも考えていなかったし、まだ公彦との時間ももうしばらくはあると思っていた。
なめらかに発進した車の後部座席で、文彦はふるえる手でスマホを握った。
かけた電話はしばらくしてから出た。
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