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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)15
「文彦? 今日、待ち合わせ大丈夫?」
「あの……公彦。俺が……」
「どうかした?声が、いつもと違う」
「俺が、いなくなっても、探さないで」
「え?」
「何か、あったわけじゃ、ないから。もう、ここがいやで、自分で出て行くんだ」
文彦は考えた。公彦の心に、禍根や心配を残さないために、どうすればいいのか。
「清忠や、公彦とも、もう演れない。いや、もう演らない。もう、一緒には演りたくないんだ。もう、無理なんだ。だから、出て行く。公彦とも……もう一緒にはいたくない。だから」
「何か、あったんだね?」
がらりと声色が変わっていた。その公彦の真剣な態度に、文彦はセリフを続けられなくなった。
「文彦に何かあるのは感じていた。でもそれは家族関係なんだと――何かトラブルがあったんだね?」
思ってもみなかった、公彦の対応に、文彦は言葉を失った。思っていたよりも大人で、感じていたよりも強い心。
「……」
「言わなくていい。俺のこともいいから。それより、文彦は?文彦は安全なの?今、大丈夫なの?」
「今は、大丈夫……それから、この先へ行けば……今よりは」
「そう。ならいい」
公彦のあたたかく深い吐息のちいさな音。
(公彦、公彦――)
「公彦……生きて」
知らないうちに、文彦の青ざめた唇からこぼれ落ちた言葉。
「え?」
「公彦。そうしてずっと生きていて。そうしたら、俺は生きていける」
「うん――うん」
「ありがとう」
文彦はふるえる唇を止めようと、咽喉を指先でぐっと押さえた。
「文彦!まだ切らないで!」
「きみ、ひこ……」
「忘れないで!文彦は、出会った初めから一つの星だった。清忠は一つの恒星なんだよ――だけど、文彦もそう、なんだよ!きっと、誰かに率いられる星じゃないんだ」
「……」
「文彦は、何処かへ行ってしまいそうな気がしていた。でもずっと、文彦の輝きを忘れないで。俺と、出会ってくれてありがとう。俺の元で、その羽根を休めてくれてありがとう。文彦、俺の大切な――文彦!」
「それは、俺のほうが、ずっと……公彦。ありがとう」
車は信号で停車した。その短い間に、朝島が振り返って、手を伸ばした。
涙が出る前に、文彦は通話を切った。朝島にスマホを渡し、栗色の髪で顔を隠して横を向いた。車窓からは流れていく早朝の景色。
今朝は曇り空で、太陽は何処にも見えない。
今日も、さよならは、言わなかった。
文彦は思い描いた。もう一人のありはしない自分を。何も隠し事などなく、傷痕もない、空想の。
その文彦を、公彦は待っている。明るい街中を、公彦と並んで歩く。オムライスの卵をつついて、顔を見合わせて笑い合って、それは今日も、明日も、ずっと続くのだ。
また行こうね、と囁かれて、うん、また行こう、と返事をする。
文彦は声を殺して泣いた。
(裏切った)
最後の最後に頼らなかった。
文彦が思っていたよりも大人だった返事は、もっとずっと信頼してもいい強さがあった。
(でもこれできっと、公彦を守れる……)
武藤が引き受けたからには大丈夫だろう、という気がしていた。清忠や公彦に何か被害が及ぶことも、何かが漏れてしまうことも、武藤なら外さずに防ぐに違いない。恐らく住んでいる世界が違うのだ。
公彦が見ていた恋人である文彦の面影も、この時間に止まって、これ以上は汚れないものになる。
公彦が見つけ、しばらく隣にいたのは、ただの貧しいピアニスト。
(『レフトアローン』を弾かないままだった……)
それは果たさなかったがために、文彦にとって永劫の約束となった。
文彦は視線を落として、左手を見た。そこには銀色にリングが輝いていた。公彦からもらった辞書は、部屋に置き放したまま、持ってこれなかった。
(これだけは――)
リングを左手に、たったそれだけを一つの荷物として。
そうして、文彦は、生まれた街を捨てた。
武藤はいっさい現れなかった。
連れられたのは駅前の楽器屋が入ったビルの裏の、簡素なアパートだった。エレベーターのない四階建のアパートの、四階だ。部屋はベッドと簡単な家具、小さなテーブルの上に朝島は部屋の鍵を置いた。
「家賃の三ヶ月分は払ってあります。それから職につくためにこの身分証明書を。だいたい必要だろう書類は机に」
「武藤さんに、ありがとうと」
「武藤はこの手続きに関わっていませんので。この場所に関しても。すべて自分が」
「そ――う」
「それから武藤は何らか利得がなければ行動しないので。自分に命じたのもそうです。いずれは何か回収する予定なんでしょう。あなたが生きていれば」
「生きて、ね」
「ここからは、誰も関わらない。私もあなたのデータは消すので。武藤にも伝えない。頑張って下さい、死なない程度には。それでは、幸運を」
足音もなくすいと朝島が消え去って、部屋は朝の中で、しん、と静まり返った。
文彦は、世界で一人きりになった。
がらんとした小さな部屋は、酒瓶の底のように、物音まで籠っているかのようだ。
(ここが、俺の、国か)
誰もいない国で、ただ一人で王となって。
文彦は立ち尽くしていた。やがて、のろのろと白い壁際まで行くと、どしん、とぶつかった後に、よろめくように硬い床に座り込んだ。
(元に戻った。それだけだ)
初めから誰もいはしなかった。ひととき、やさしい夢を見て、それはあまりにも懐かしい手離しがたい香りだった。
文彦はふっと、抵抗できない甘い希望にとらわれた。
もしも、万が一、ほとぼりが冷めて、何年後でもいい、またカルテットへと戻れたなら。そんな日が来ることがあるのなら。その時は掛け値なしに、ただ純粋にピアニストとして演れる――
しかしそれは、夢想すればするほど悲しく虚しく希望だった。
文彦が、捨てたのだ。自分の耐えられぬ日々と引き換えに、天秤にかけて、最後に捨てなければならなくなったのだ。
文彦は、膝に顔を埋めて嗚咽した。
(俺は――)
ブラフでもノーカードでも始めなければならなかったのだ。
公彦にどう説明しようがあっただろう――最初から勝ち手など持たないまま、勝負を始めなくてはならなかったことを。
去っていく文彦に最後まで、限りない理解にやさしかった、テナーのあたたかな声。
もしかしたら、最後にすがる方法はあったのかもしれない。しかし、機会は文彦のてのひらから虚しくこぼれ落ちた。
(ここから始める――)
世界中の他の誰でもない、文彦自身の闘いを。
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