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第四章 蓮の花―少年の足跡―(music by Kenny Dorham)16

 文彦は、なるべく人と顔を合わさない職を探した。  飲食店の厨房の短時間の皿洗い、工場での作業、荷物の仕分け、中卒でも可能な昼間の職を、転々としていった。一つの場所で人間関係ができることも、広がることも避けた。  夜の街を避け、人の目を避け、なるべく誰にも見つからないように、息をひそめてひっそりと暮らした。  何のこだわりもない、最小限のものしか持たない暮らしで、少しずつ溜まっていったお金で、安い電子ピアノを一つ買った。  指のタッチがアップライトピアノにさえも大きく異なることは否めず、その時に初めて、武藤がこのアパートにした意味がわかった。  すぐ隣の楽器店で、グランドピアノが設置された防音室が、一時間単位で借りられたのだ。時間とお金が許す限り、文彦はそこへと通うようになった。  その楽器店では、音楽教室も開催されていて、平日には子どもたちの姿がよく見えた。大人向けのレッスンも盛んで、平穏な土地柄もあって、音楽教室も需要があるらしい。日曜日にはジャズレッスンが入っており、文彦はそれをしげしげと眺めた。 (俺も……いつか、こんな仕事もありなんだな……)  日々の中で、文彦はたびたび夢を見た。 (公彦!)  いつもの待ち合わせ、駆け寄った文彦の姿を、公彦は見ない。ふと、文彦は自分の体を見ると、透明になっている。  公彦はいつまでも待っている。現れはしない文彦を。  手にしたスマホで、オムライスの店を検索しながら、公彦はずっと待っている。あたりが暗くなってようやく、公彦は歩きだした。それは、あちこちに文彦がいないか探すために。    恐らく初めて出会った日から数か月、行方をくらました文彦のことも、そうして歩いて探していたに違いない。  どれくらいで諦めるだろうか、どうやって諦めがつくだろうか。 (うそだ!)  いつもそこで目覚めるのだ。  公彦と最後の待ち合わせの前に別れを告げたのだ。公彦はそこへ行きはしない。これが文彦自身の願望なのは、文彦が一番よくわかっていた。公彦に本当は、忘れずにいて欲しかったのだ。  違う夜には、支配される夢を見た。  手足を押さえられ、動きも取れないまま、真っ黒にぽかりと空いた両目の男に、嘲笑されて食われる時間を。拒否は欲情の玩具となって、抵抗は愉悦のエサとなって、文彦は振り回され続ける。 「うわあ……ああッ!」  ハアッハアッと獣じみた声で目覚めるたび、文彦は自分自身に絶望した。  あの、絡められた罠から抜け出したところで、記憶までは消せはしない。 「殺して……もう、殺して……」  あまりにくり返し過ぎた言葉に、文彦はもう意味も見出せなくなっていた。  ある日、楽器店のジャズレッスンのポスターの横に積まれていたチラシに、文彦は目を留めた。いくつかのジャズスポットが案内されており、飛び込みライブや、ジャズ仲間を募るURLなどが載っている。  文彦はその夜に、両手をズボンに突っ込み、ふらりとその中の一つの店へと赴いた。飛び込んだジャズライブは、成功を収めた。文彦の頬にわずかに生気がよみがえり、そういう場があれば参加するようになった。  ふと、文彦は空を見上げるのだ。  今日も変わらず、空は頭上にあり、雲は白くたなびき、光は射している。 「この……空に」  文彦は、美しい声で、歌うようにちいさく囁いた。 「この空の下で、この雲のつづくかなた、貴方が一緒に生きている……」  文彦は、左手をかざし、ちかり銀色に光るリングをかざした。それから、ゆっくりと微笑した。  この時代をともに、この一瞬の同じ時間を、愛するひとが生きている。いつしか、それが心の支えとなって、文彦は日々を生き続けた。 (それが勝手な俺の想いでも)  そう、勝手に捨てて、勝手に愛している。  信頼して打ち明けることもせず、それなのに今も支えにしている。 (これほど身勝手な人間を……もう公彦が思い出しませんように……)  文彦は、日々祈るようになった。  願うのは、かれの幸せ、かれの変わらぬ笑顔。  しかし、ジャズスポットをネットで探していた、ある日、それを目にした。  清忠たちが、またトリオとして活動を続けていることは知っていた。あえて、その情報は見えないよう避けていた。文彦の心が折れて挫けそうになるからだ。  その日は違っていた。そこに、トリオの文字はなかった。 (佐田川清忠カルテット――)  ピアノ、佐田川侑己。  一年はゆうに越えているのだからきっと大丈夫なはずだ――そんな思いが頭を覆って、それしか考えられなくなっていた。  文彦は佐田川清忠カルテットのチラシを握りしめて、ライブハウスへと来ていた。ステージはすでに始まっており、文彦は一番後ろの暗がりで、隠れるようにしてそっと立った。  ピアノの前に人影があった。佐田川清忠カルテットの二人目のピアノ。 (侑己……)  ざっくりしたシャツに、膝の抜けたジーンズ。切れあがった眼差し、きっぱりとした唇。それなのに、困り果てた子どものような瞳のいろをして、肩へと流れていく髪を揺らしている。少女なのか女なのか、涼やかでいて、迷子のような雰囲気をして、メンバーの中ではさすがに小柄だった。  「What is this thing called love」のソロとなり、公彦にスポットが当たる。 (公彦!)  夢で何度も読んだ名だった。夢で何度も見た姿だった。記憶の中よりも、大人びて、公彦は西風のようにそこにいた。  公彦がサックスを構えて、アイコンタクトでピアノの侑己へとかける笑顔。かすかに返される、うっすらとした微笑み。おそらく公彦が放っておけないタイプだ。 (あ……)  文彦の心にすとん、と落ちたのは、安堵、だった。 (誰かを……また)  心にかけているのだ、と文彦は感じた。交わされる信頼のある笑顔、サックスとピアノのリフレイン。清忠のベースは変わらずに響きがあり、その姿も相変わらず堂々としたものだった。  侑己のピアノの技量は、文彦には及んでいない。しかし、どこか泣いている。不思議な悲しさは、サックスにまで届いて、そのリリシズムに合っていた。清忠の妹なのだ。幼い頃から共にしてきた時間も多くあっただろう。 (それでこそ――似合っている)  もう消えてしまった自分をではなく、目の前で生きている人と。 (よかった)  文彦の唇に浮かんだのは、透明なゆるやかな微笑。 (もう俺を愛していないことが、もう忘れてくれたことが……)  文彦はそっとチラシを畳むと、すべてを聴かずに、その場を去ろうとした。その時だった。 「おい。どうしてここに来た」  頭上から声が降ってきて、ぐいと、引き上げられるように腕をつかまれた。文彦が身を硬くしてハッと振り返ると、そこにはオールバックの黒髪、サングラス、三つ揃えのダークスーツをまとった、武藤領一朗が半ば闇にまぎれながら立っている。 「武藤……さん」  文彦は言葉を失った。久しぶりに見た姿に、どう説明すれば良いのか、わからなかった。  少し離れた場所で、数人の男たちの声が上がった。 「おい、いたぞ。ユキだ。あいつだ」 「何だ?」  武藤は怪訝そうにあたりを見回すと、音もなくすいと消えた。文彦は、もう帰るべきなのか、武藤を待つべきなのか、わずかに逡巡した。  その瞬間に、隙があった。悪運でしかなかった、背後から肩をつかまれたのは。 「おーい。懐かしい顔だな」  楽し気に、そして面白がっているのに、一つも笑ってはいない声に、文彦の顔が、すうと青ざめた。つかまれた肩が鉛のように重く、文彦は振り返ることができなかった。 「忘れられなかっただろう?男に抱かれるのが」  野卑な笑いと、悪鬼のように凄みのある笑い。それは、文彦を突き落とした男の顔だ。 「よくもまあ、逃げてくれたな。誰に逃がしてもらったんだ? おい、こいつを抑えとけ」 「へい」  ライブハウスの片隅へと押しやられて、文彦は蒼白になった。周りは三人のかたぎではない男が取り囲んでいる。 「おい。先にユキを撃て」 「何……? 何って……?」

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